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第8話:崩れゆく王城。精霊たちの沈黙と怒り

本日1話目です

 王城の朝は、本来であればこの世のどこよりも快適な目覚めを約束される場所だ。

 分厚い石造りの城は外の冷気を遮断し、各部屋の火精霊たちが夜通し適度な室温を保つ。

 朝になれば、水と火の精霊が協力して生み出した、ほのかに薔薇の香りがする適温の湯が洗面台に満たされる。

 ――しかし、その「当たり前」は、音もなく崩れ去ろうとしていた。

「……う、ううむ……っ」

 豪奢な天蓋付きのベッドで眠っていたレオンハルトは、シルクの掛け布団を首元まで強く引き寄せ、身震いをした。

 寒い。

 芯から冷え切るような寒さだ。

 重い瞼を押し上げると、吐く息がうっすらと白く濁っていた。

 まるで暖炉の火が消え失せた真冬の山小屋に放り込まれたような、容赦のない冷気が部屋中に充満している。

「……おい、誰かある! 部屋が冷え切っているではないか!」

 扉が慌ただしく開き、青ざめた顔の侍従が転がり込んできた。

「も、申し訳ございません殿下! 部屋の温度を管理する火精霊たちが、いくら魔力を注いでも全く反応を示さず……」

「ちっ、使えない奴らめ。どうせあの陰気なエレインが、出て行く前に細工でもしていったのだろう。顔を洗う湯を持て」

 大理石の床が氷のように冷たく、素足から体温を奪っていく。

 苛立ちを募らせながら、レオンハルトは洗面台の前に立った。

「殿下、恐れ入りますが、そのお湯も……」

「うるさい! 朝からごちゃごちゃ言い訳をするな!」

 侍従の言葉を遮り、洗面台の液体を両手ですくい上げ、顔にぶちまけた。

「――っっっっ!?」

 瞬間、全身の毛穴が暴力的に収縮し、心臓が跳ね上がった。

「な、なんだこれはぁっ!!」

 顔面を叩いたのは、薔薇の香りの温かい湯などではない。

 手足の感覚が麻痺するほどの極寒の冷水だった。おまけに、鉄の錆びたような泥臭い異臭まで混ざっている。

「ひっ、お許しください殿下ぁっ! 給水塔の精霊たちが完全に沈黙してしまい、お湯を沸かすことも水を浄化することもできなくなってしまったのです! 何度呼びかけても、魔力結晶を捧げても、完全な無視を決め込んでおりまして……っ!」

 レオンハルトは顔から滴る泥水をタオルで乱暴に拭いながら、怒りで視界を赤く染め上げた。

「たかが水風情が、王族たるこの私に逆らうというのか! あの不気味な女がいなくなった途端にこれだ。精霊などというものは、恩知らずな獣に過ぎん!」

 自分がエレインを追放したことでこの事態を招いたという事実には、一切思い至っていなかった。


  廊下でも、苛立ちを逆撫でするような光景が広がっていた。

 ジリッ……ジジジジッ……。

 無数の美しいガラス細工の魔導灯が、今はまるで虫の息のように、チカチカと不規則に瞬いている。

 光量が足りず、廊下のあちこちに濃い影が落ちていた。

 壁に飾られた歴代王の肖像画も、薄暗い光の下ではひどく不気味で、今の王国の惨状を嘲笑っているかのように見えた。

「……暗い。それに、この妙な匂いは何だ」

 換気を司る風精霊も仕事を怠り始めたのか、城内の空気がどこか淀んでいる。

 古いカビの匂いと生活臭が混ざり合った、嫌な空気が滞留していた。

 エレインという「インフラの要」を失った王城は、真綿で首を絞められるように、じわりじわりと腐敗への道を歩み始めていたのだ。

「――レオンハルト殿下ぁ!」

 淀んだ空気を切り裂くように、甘ったるい声が響いた。

 廊下の向こうから、ミアが豪華なフリルのピンクドレスで小走りに駆け寄ってくる。

 過剰な薔薇の香水が換気されていない空気にねっとりと絡みつき、レオンハルトは微かに眉をひそめた。

「おはようございます、殿下! 今日も一段と凛々しくて素敵ですわぁ」

「……ああ。朝から城の様子が少しおかしくてね。精霊どもが一時的なストライキを起こしているらしい」

 するとミアはパッと顔を輝かせ、自信満々に胸を張った。

「まあ、そういうことでしたら、この『光の聖女』である私にお任せくださいませ! 精霊たちは迷える子羊のようなもの。私の聖なる祈りの光で導いてあげれば、すぐに喜んで働き始めますわ!」

「おお、そうか! あの陰気なエレインのように小難しい書類を書いたり、魔力結晶を浪費したりせずとも、祈り一つで解決できるとは!」

 ミアは廊下のひときわ大きな魔導灯の前へ進み出た。

 両手を胸の前で組み、目を閉じ、甘ったるい声を高く張り上げる。

「――あぁ、大いなる光の精霊さんたち! 私のこの清らかなる聖女の祈りを受け取りなさい! 愛する殿下のために、その身を粉にして明るく輝きなさい! それがあなたたちの幸せなのですからぁっ!!」

 廊下にミアの甲高い声がこだました。

 しかし。

 精霊たちにとって、人間の言葉はただの「ノイズ」だ。

 ましてやミアの魔力波長は、光精霊たちとは全く噛み合わない、ひどく耳障りな不協和音。

 エレインが紡いでいた、精霊を対等な存在として尊重する澄んだ『古代精霊語』とは、対極にある存在だった。

 強制労働を押し付けられ、不満を爆発寸前まで溜め込んでいた精霊たちの神経を、ノコギリで削るような最悪の騒音。

 ――ピキッ。

 ミアが得意げに目を開けた瞬間。

 目の前の大きな魔導灯のガラスに、一本の亀裂が走った。

「え?」

 パァンッ!!

 けたたましい破裂音と共に、ガラスが粉々に砕け散った。

「きゃあぁぁっ!?」

「ミア! 大丈夫か!」

 レオンハルトが慌てて抱き寄せる。

 しかし、それだけでは終わらなかった。

 パンッ! パリンッ! パパパンッ!!

 ミアの的外れな祈りに完全にブチギレた廊下中の光精霊たちが、次々と魔導灯の回路を焼き切って暴走を始めた。

 連鎖的にガラスが弾け飛び、火花が散る。

 かろうじてチカチカと瞬いていた灯りが、一つ、また一つと完全に沈黙していく。

 やがて長い廊下は、窓から差し込むわずかな朝の光以外、完全な薄暗がりへと沈んだ。

「な、なんだこれは……! どういうことだ!」

 ミアは彼の胸の中で震えながら、ひきつった笑いを浮かべた。

「あ、あはは……。きっと私の聖なる祈りの力が強すぎて、精霊さんたちがびっくりして気絶しちゃったんですね! もう、世話の焼ける子羊たちですわぁ……」

「……な、なるほど。ミアの力が強大すぎるゆえの弊害か。魔導士たちに修理をさせよう」

 レオンハルトは強引に自分を納得させ、ミアの肩を抱き寄せた。

 温かい水も、澄んだ空気も、明るい光も。

 当たり前のように享受してきたすべてが、今、音を立てて崩れ去ろうとしている。

 しかし傲慢な王子と自称聖女は、足元に開いた致命的な破滅の穴に気づくこともなく――ただ他者に責任を押し付けながら、じわりじわりと、沈んでいくのだった。


 

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