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第7話:人生で初めての、素材の味がする温かいスープ

本日3話目です

次話は明日です

 琥珀色のスープが舌の上を転がった瞬間、エレインはしばらく目を閉じて動けなかった。

 塩漬け肉と野草と、しわびた根菜を水から煮込んだだけのものだ。

 王城の料理人が見れば、「下賤な者が食べる残飯だ」と鼻で笑うかもしれない。

 でも、ポポの『絶対に焦がさない奇跡の温度』でじっくり煮込まれたこの一杯は、エレインの身体の隅々にまで染み渡り、凍てついていた心を内側からじんわりと溶かしていった。

「……お肉も、食べてみよう」

 木杓子で干し肉の塊をすくい上げる。

 鍋に入れる前は石ころのように硬く、表面に塩の結晶が浮き出ているだけだった。

 それが今はどうだ。ポポの優しい熱をたっぷりと吸い込み、ふっくらと丸みを帯び、繊維が艶やかな琥珀色に輝いている。

 フーフーと息を吹きかけ、そっと口に含んだ。

「……っ!!」

 硬い、噛みきれない――という予想は完全に裏切られた。

 肉の繊維が、春の雪解けのように、ほろり、ほろりと舌の上で解けていく。

 噛み締めるたびに、奥底に閉じ込められていた旨味と塩気が、熱い肉汁となって口の中いっぱいに溢れ出した。

「おい、しい……っ」

 震える声が漏れる。

 たまらず黄金色の根菜もすくってパクリと頬張ると、舌と上顎で軽く押すだけでトロリととろけ、大地の素朴な甘みが肉の塩気をまろやかに包んだ。

 後味には野生のハーブの香りが鼻を抜け、次の一口を強烈に要求してくる。

 肉の旨味、根菜の甘み、ハーブの香り、スープのコク。

 それらが口の中で完璧なハーモニーを奏で、エレインの脳を直接揺さぶるような多幸感を生み出していた。

「美味しい……こんなに美味しいもの、私、初めて食べたわ……」

 ポロリ、ポロリと。サファイア色の瞳から大粒の涙がこぼれた。

 悲しみの涙ではない。食べるという行為の本来の喜びを思い出した、魂からの歓喜の涙だ。

 王宮での食事は、ただ命をつなぐための冷たい作業だった。

 書類の山から目を離さず、味のしない固いパンを水で胃に流し込む。

 ずっと一人で、冷たい食事を孤独に噛み砕くだけの毎日。

「あはは……また泣きながらご飯食べてる。変な顔よね」

 手の甲で乱暴に涙を拭い、エレインはふにゃりと笑った。

『ソンナコトナイヨ! エレイン、トッテモ、キレイダヨ!』

 鍋の底でポポがパチパチと炎を弾かせる。

 自分の火で作った料理で、大好きな人間が笑顔になってくれた。捨てられて自信を失っていた小さな精霊にとって、それがどれほど誇らしいことか。

「ありがとう、ポポ。貴方は世界一の料理人ね」



『……おい、ニンゲン。俺の分は、まだか』

 感動的な空気を切り裂くように、不機嫌そうな声が頭に響いた。

 ギルが三本の尾をバシバシと地面に叩きつけながら、サファイアの瞳で鍋を凝視している。

 その口元から、キラリと光る一筋のよだれが垂れていた。

「ふふっ、ごめんなさいギル。あんまり美味しかったから、つい」

 エレインは深皿にスープをたっぷりと注いだ。

 そのままでは出さない。ギルは極寒を司る氷の精霊だ、熱すぎるものは舌を傷める。

「フーフー……フーフー……」

 桜色の唇を尖らせ、何度も丁寧に息を吹きかける。

 指先で温度を確かめてから、そっと鼻先に皿を置いた。

「はい、お待たせ。ギルの分よ」

『……フン。俺は誇り高き幻獣だ。ニンゲンの食い物など本来なら口にもしないが……お前がどうしてもと言うなら、味見くらいはしてやろう』

 三本の尾は、期待でブンブンと千切れんばかりに振られていた。

 ギルは皿に顔を近づけ、恐る恐るピンク色の舌を伸ばしてスープをピチャリと舐めた。

『……ッ!!』

 全身の毛が、ブワッと逆立つ。

 ポポの『優しい熱』が、凍りついていた彼の魔力回路を内側からじんわりと解きほぐしていく。

 そこに、濃厚な獣の旨味がガツンと脳を殴りつけてきた。

『なんだこれは……!? こんなに温かくて、美味いものが……この世にあるというのか!?』

 矜持も強がりも完全に忘れていた。

 皿に顔を突っ込み、ピチャピチャピチャッ! と凄まじい勢いでスープを舐め、ホロホロの肉をガツガツと丸呑みにしていく。

「ふふっ、ゆっくり食べて。まだお鍋にたくさんあるから」

『美味い! 美味いぞエレイン! もっとだ、もっと俺にこの温かい汁を寄越せ!』

 目を細め、耳をぺたんと寝かせ、夢中で皿を舐め回すその姿は、ただの「ご飯に喜ぶ大きな犬(狐)」にしか見えなかった。



  それからの一時間は、無言の宴だった。

 エレインもギルも、ただひたすら鍋に向かい、何度もおかわりをした。

 ポポは二人が食べるペースに合わせて、最後まで完璧な温度でスープを守り続けた。

 やがて鍋の底が見え、最後の一滴まで綺麗に平らげた頃。

「……はぁぁ〜っ、もうお腹いっぱい。動けないわ……」

 エレインはぽっこりと膨らんだお腹を撫でながら、落ち葉の上に大の字に寝転がった。

 コルセットに締め付けられていない身体は、どれだけ食べても苦しくない。ただただ多幸感だけが全身へと広がっていく。

『ゲプッ……俺も、限界だ……』

 隣でギルもお腹を上に向けてゴロンと転がり、完全に無防備な姿を晒していた。

 氷の幻獣の威厳など、どこにもない。

『エヘヘ、フタリトモ、イッパイタベテクレテ、ウレシイ!』

 役目を終えたポポがふわりと空中に浮かび、チロチロと満足げに揺れている。

「ポポ、本当にありがとう。……これからも、私の旅の料理長になってくれるかしら?」

『ウンッ! ワタシ、エレインノタメニ、ズットズット、オイシイヒヲツクルヨ!!』

 火の粉を撒き散らしながら、ポポがエレインの周りをクルクルと飛び回る。



  夜の森は冷え込んでいる。

 吐く息は白く、発光苔の光だけが頼りの薄暗い空間だ。

 でも、エレインの周囲だけは、ポポの余熱と満腹の多幸感によって、春の陽だまりのようにポカポカと温かかった。

「……そろそろ、寝ましょうか」

 大きなあくびをひとつすると、ギルがのっそりと身体を起こした。

 エレインを囲い込むように丸くなり、三本のふさふさとした尾をそっと身体の上に掛ける。

『……風邪を引かれては困るからな。俺の毛皮を貸してやろう』

「ふふっ、ありがとう、ギル。とっても温かいわ」

 ひんやりと滑らかな、シルクのような手触り。でもその奥からは、ギル自身の命の鼓動と、スープで得た温もりがじんわりと伝わってくる。

 最高級の羽毛布団でも、この極上のモフモフには絶対に勝てないだろう。

 少し離れた場所でポポが小さな炎を灯し、野生の獣が近づかないよう見張ってくれている。

 誰も、私を怒鳴らない。

 誰も、私に無理難題を押し付けない。

 慕ってくれる精霊たちがいて、美味しいご飯がお腹の中にある。

(……ああ、私、今……すごく、幸せだわ)

 ギルの柔らかな毛並みに頬をすり寄せながら、エレインはゆっくりと目を閉じた。

 カビ臭く冷え切った地下室の記憶が、温かいまどろみの中に溶けて消えていく。

 自由の喜びと、仲間たちの温もりに包まれながら。

 氷の令嬢と呼ばれた少女は、これまでの人生で最も深く、穏やかで、幸福な眠りへと落ちていった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。


次回お楽しみに。

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