第10話:森を抜けた先の絶景と、忍び寄る王都の飢え
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静寂の森を北へ歩き続けて、数時間が経った頃。
鬱蒼と生い茂っていた古木たちの間隔が、少しずつ広がり始めていた。
頭上を覆っていた緑の天蓋にぽっかりと青空の隙間が生まれ、柔らかな木漏れ日が薄暗かった地面に金色の斑紋を描き出している。
「……風の匂いが、変わったわね」
エレインは立ち止まり、目を細めて前方からの微風を胸いっぱいに吸い込んだ。
湿った苔と朽ちた落ち葉の匂いではない。
どこまでも澄み切った清らかな水の匂いと、太陽をたっぷりと浴びた甘い花々の香りだ。
『モウスグ、モリノオワリダネ!』
トランクの金具の上にちょこんと乗ったポポが、嬉しそうにパチパチと炎を揺らす。
『……ようやくこのジメジメとした森から抜け出せるか。俺の美しい毛並みが湿気で台無しになるところだったぞ』
隣を歩くギルがわざとらしく鼻を鳴らした。
言葉では文句を言いながらも、木々の向こうから差し込む光の束を期待に満ちた瞳で見つめ、三本の尾はご機嫌なリズムを刻んでいる。
「ふふっ。あと少しよ、二人とも。さあ、行きましょう!」
トランクを握る手に力を込め、足取りを早める。
落ち葉を踏む音が、やがて柔らかい土を踏む音へと変わり――そして。
視界を遮っていた最後の木々が、途切れた。
「――あっ……」
息を呑んだ。
視界の端から端までを埋め尽くす、巨大な湖。
その水面は、ただの青色ではない。
透き通るような黄金色から深い橙色へと、水彩画の絵の具が優しく滲み出すように、どこまでもグラデーションを描いている。
そこに、降り注ぐ太陽の光が砕けて散り、水面が光の粒を無数に跳ね返していた。
まるで、空ごと溶かし込んだ琥珀の海だ。
湖畔には淡い桃色や黄色の花々が絨毯のように咲き乱れ、そよ風が吹くたびに甘い香りを乗せてさぁわ、さぁわと波打っている。
王宮の庭師が定規で測って作った、窮屈で人工的な美しさとは全く違う。
途方もない時間をかけて自然が作り上げた、圧倒的で、優しく、どこか懐かしい風景だった。
初代翻訳官の手帳に記されていた通りの――『琥珀の湖』だ。
「……なんて、綺麗な……」
エレインはトランクを足元に置き、ただ立ち尽くした。
大きく、深く、深呼吸をする。
肺の奥底まで、甘く清らかな空気が流れ込んでくる。
あのカビ臭く埃っぽい地下室の空気は、もう彼女の身体のどこにも残っていない。
気がつけば、頬に一筋の涙が伝っていた。
悲しみの涙ではない。
あれほど息苦しかった王城を出て、本当にここまで来られたのだという、信じられないような実感の涙だ。
「ねえ、ギル、ポポ。私たち、本当にあのお城を出て、こんな場所まで来られたのね」
『ウンッ! エレイン、スッゴク、イイニオイガスルヨ!』
『……まあ、悪くない景色だ。あの窮屈な王都に比べれば、何百倍もマシなんじゃないか』
ポポが嬉しそうにエレインの周りを飛び回り、ギルも目を細めて湖の風を全身で受け止めている。
エレインはブーツを脱ぎ捨て、素足で湖畔の柔らかい草花を踏みしめながら、水際へと駆け寄った。
つめたい。
足首に触れた湖の水は、透明で、清冽で、これまで感じたことのないほど気持ちのよい冷たさだった。
ざぶり、ざぶりと浅瀬を歩くたびに、水しぶきが光の粒となって散り、エレインの薄藍色のスカートの裾を濡らす。
「ふふっ、冷たくて気持ちいいっ!」
思わず声が出た。
足の裏から大地の力が伝わってくるような、この清冽な冷たさ。
王城の大浴場の、精霊に強制的に温められた湯とは比べ物にならない、「生きている水」の感触だった。
『ニンゲン、あまりはしゃぎすぎるな。魔物が潜んでいるやもしれんからな』
岸辺でギルが保護者のような顔をして見守り、ポポが心配そうにパチパチと炎を揺らす。
『オォーイ! エレイン! フカイトコロニイッチャダメダヨ!』
「大丈夫よ、二人とも!」
水面に映る自分の顔を見る。
目の下にあった濃い隈はすっかり消え、青白かった頬には健康的な桜色が戻っている。
この三日間で、彼女の顔からずっと貼り付いていた「緊張」というものが、すっかり剥がれ落ちていた。
そうだ。ここに来た目的がある。
「さあ……精霊を探しましょう」
エレインは岸辺に上がり、濡れた足をスカートの裾で拭いながら、湖全体を見渡した。
初代翻訳官の手帳には、こう書かれていた。
――『琥珀の湖の底深く、発酵と熟成を司る精霊ラムが眠っている。彼は急ぐことを知らず、待つことを愛す。人間が忘れた「時間の贈り物」を、今もなお抱きしめている』
「『待つことを愛す』精霊か……」
エレインはその言葉を口の中で転がした。
時間をかけることに価値を見出さず、すべてを「今すぐ」「一瞬で」求め続けた王城の人間たちに、忘れ去られた精霊。
何年も、何十年も、誰にも必要とされないまま、この湖の底で眠り続けているのだという。
「起こしてあげましょう」
エレインの声は、静かだが、確かな決意に満ちていた。
「ゆっくり時間をかけることが、どれだけ贅沢で、素敵なことなのか。私たちが教えてあげるの」
『フワッフワノパンケーキト、アマイオサケモアルヨネ!』
『……美味い肉が食えるなら、協力してやらんでもない』
ポポが期待に炎を弾かせ、ギルが尾を揺らしながら同意する。
エレインは笑いながら、手帳をトランクに大切にしまい込んだ。
一方その頃。
エレインが清らかな水に素足を浸していたのと、ほぼ同じ時刻。
王城の第一王子専用ダイニングルームは、文字通り「地獄の悪臭」に包まれていた。
「……おい。これは、なんだ」
長テーブルの上座に座るレオンハルトは、目の前に置かれた銀の皿を睨みつけ、地を這うような低い声で呻いた。
銀のドーム型の蓋が開けられた瞬間、部屋中に爆発的に広がったのは――鼻の粘膜を直接焼くような、強烈な腐敗臭と酸っぱい異臭だった。
皿の上にあるのは、王家御用達の最高級豚肉……だったはずの「何か」だ。
表面はどす黒く変色し、不気味な緑色の斑点が浮かんでいる。
切り口からはどろりとした黄ばんだ液体が滲み出し、ソースと分離して皿の上で淀んでいた。
付け合わせの温野菜も、完全に溶け崩れてヘドロと化している。
隣に座るミアは、口元をハンカチで必死に押さえ、涙目で顔を背けていた。
「も、申し訳ございません、殿下ぁ……っ!!」
料理長が床に膝をつき、ガタガタと震えながら平伏する。
「申し訳ないだと……? 貴様、私にこの生ゴミを食えと言うのかッ!!」
ガシャンッ!!
レオンハルトは銀皿を腕で払い飛ばした。
腐臭を放つ肉塊が壁に激突し、高級な絨毯の上に取り返しのつかないシミを作っていく。
「ひぃぃっ! お、お許しを! しかし殿下、私どもの腕が落ちたわけでは決してないのです! 城の地下にある『氷室』が……食材の鮮度を保つための氷の精霊たちが、完全に契約を放棄してしまいまして……!」
「氷室だと……!?」
「は、はい……! 昨日から急に温度が上がり始め、今朝確認したところ、保管してあった最高級の肉も、魚も、野菜も……その、すべてが、この有様でして……っ」
王城の食糧庫は、年間を通じて氷点下に保たれるよう、強力な氷の精霊たちとの綿密な契約で維持されていた。
しかしエレインが去り、契約が更新されず、精霊たちはついに見切りをつけた。
魔法の冷蔵庫を失った城の地下で、大量の高級食材が一夜にして腐敗の温床と化したのだ。
火の精霊が暴走して火加減が調整できないどころの騒ぎではない。
そもそも、「調理する食材」そのものが、王城から消滅してしまった。
「ふざけるな……! たかが精霊どもが、ここまで王族を舐め腐るとは……!」
拳を握りしめるレオンハルトに、侍従が泣きそうな顔で続けた。
「さ、さらに殿下……王都の市場にも、急ぎご報告しなければならないことがございまして」
「なんだ」
「給水塔の精霊が完全に活動を停止したことで、王都全体の水の供給がほぼ止まっております。市場の商人たちも、井戸から汲める水だけでは足りず……昨日から、一般市民の間でも水の争奪が起き始めているとのことで……」
レオンハルトの眉間の皺が、さらに深く刻まれる。
「……魔導灯も、城外の通りでは七割方が消えており、夜間の治安も急速に悪化し始めているようで」
「黙れ!!」
怒声が部屋に響き渡る。
しかし、侍従を怒鳴りつけたところで、何も解決しない。
それはレオンハルト自身が、どこかで薄々感じ始めていた。
「……ミア。祈れ。氷室の精霊を今すぐ従わせろ」
「あ、はいっ……」
怒鳴られたミアはビクッと肩を跳ねさせ、震える声で祈りを始めた。
しかし当然、何も起きない。
それどころか、彼女の的外れな祈りに完全に逆上したらしい下級精霊が、ダイニングルームの窓ガラスに一本の亀裂を走らせた。
バリンッ!!
「きゃあぁっ!?」
砕けた窓の隙間から、生温かく湿った嫌な風が吹き込んでくる。
床に散らばった腐敗肉の臭いが、部屋中に撒き散らされた。
レオンハルトはたまらずマントで鼻と口を覆い、胃の腑が急激にひっくり返るのを必死に堪えた。
お湯が出ない。
灯りが消える。
火加減が暴走する。
食糧が腐り果てた。
水が止まり、王都の市民が水を奪い合っている。
ほんの数日前まで、永遠に続くと思い込んでいた「完璧で快適な生活」。
それは、たった一人の「陰気な女」の、血の滲むような努力の上に成り立っていた砂上の楼閣だったのだ。
しかし傲慢な王子はそれでも、自分がエレインを追放したからだとは認めなかった。
認めることができなかった。
そうすれば、この惨状のすべての責任が、自分自身に降りかかってくるから。
空腹と腐敗臭と吐き気と、得体の知れない焦燥感によって、レオンハルトの胃の腑はじわりじわりと、しかし確実に削り取られ続けていた。
王城から遠く離れた、琥珀の湖のほとり。
「ふふっ、お水が冷たくて、最高に気持ちいいわ!」
エレインは笑いながら、浅瀬をぱしゃぱしゃと歩き回っていた。
その足元で、砕けた水しぶきが光を纏い、無数の宝石のように輝いては消えていく。
腐敗と怒りに満ちた王城の惨状など、今の彼女は知る由もない。
最高の仲間たちと共に、この輝く湖の底に眠る精霊を起こしに行く。
それだけが、今のエレインの世界のすべてだった。
氷の令嬢と呼ばれた少女の「本当の人生」は、この琥珀色の水面の輝きの中で、さらに深みを増して続いていく。
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