第11話:忘れられた琥珀の湖。息を呑むほどの絶景と、眠れる精霊
視界を遮っていた古木たちが途切れた瞬間、エレインは息をするのすら忘れた。
目の前に広がっていたのは、なだらかな稜線を描く緑の山々に抱かれた、巨大で静かな湖だった。
水面の色が、ただの青ではない。
透き通るような黄金色から深い橙色へ、水彩画の絵の具が優しく滲み出すように、どこまでもグラデーションを描いている。
そこに降り注ぐ太陽の光が砕けて散り、無数の光の粒を跳ね返していた。
透明でありながら、とろりとした重厚感を感じさせる輝き。
まさに、『琥珀』そのものだった。
「……すごい。本当に、手帳に書いてあった通りだわ」
『ウワァァ……! キラキラシテル!』
ポポがトランクの上から空中にふわりと舞い上がる。
ギルもサファイアの瞳を細め、三本の尾をゆったりと揺らしながら、ひんやりとした湖の風を全身で受け止めていた。
ざわわ、さぁわ。
そよ風がエレインの薄藍色のワンピースの裾を揺らす。
運ばれてきた風には、水辺の澄んだ冷気だけでなく、甘く芳醇な香りが混ざっていた。
「……いい匂い。甘酸っぱくて、お腹が空いちゃう」
匂いの元を辿るように視線を巡らせると、岸辺に沿って、たわわに実をつけた背の低い果樹が群生しているのが見えた。
太陽の光と湖の魔力をたっぷりと吸い込み、野生の果実たちが弾けんばかりに熟している。
エレインはトランクをその場に置き、引き寄せられるように茂みへと足を踏み入れた。
「見て、ギル、ポポ。こんなにたくさんなってる!」
緑の葉の隙間から、大粒の赤紫色のベリーの房と、鮮やかなオレンジ色の柑橘類が顔を出している。
エレインは背伸びをして、一番色づきのいいベリーをそっともぎ取った。
ぷにっとした、張り詰めた皮の感触。
指先をほんの少し汚す赤紫色の果汁から、むせ返るような甘い香りが漂ってくる。
ハンカチで軽く拭い、パクリと小さな口に放り込んだ。
「――んんっ!」
薄い皮がぷちんと弾けた瞬間、目が驚きに見開かれた。
暴力的なまでの甘さと、それをキュッと引き締める爽やかな酸味。
温室で過保護に育てられた王城の果物特有の、水っぽくてぼやけた味ではない。
大地の力強さを濃縮したような、野性味あふれる鮮烈な果汁が舌の上で踊り、喉の奥へと甘い軌跡を描いて流れ落ちていく。
「すっごく美味しいっ! 甘いのに酸っぱくて……疲れが全部吹き飛んじゃいそう!」
『ホント!? ワタシモタベル!』
『……フン。俺の分も寄越せ。直々に味見をしてやる』
ポポが飛び跳ね、ギルがそっぽを向きながらもスカートの裾をツンツンと引っ張って催促する。
エレインはくすくすと笑いながら、ベリーや柑橘を次々と収穫していった。
美味しい果実をつまみ食いしながら、愛する精霊たちと笑い合う。
ただそれだけの時間が、春の陽だまりのようにエレインの心を温めていく。
――ふぅぅ、…………。
その時だった。
果実を摘むエレインの耳に、微かな「吐息」のような音が届いた。
「え……?」
風の音でも、波の音でもない。
湖の最も深い底から、水を通して響いてくるような、重々しく、深い悲しみを帯びた波長だった。
普通の人間には絶対に聞こえない。しかしエレインの耳には、それが明確な『古代精霊語』の響きとして届いていた。
「……泣いてるの……?」
摘みかけの果実を置き、エレインはゆっくりと湖水へと歩み寄った。
ちゃぷ、ちゃぷっ。
素足がひんやりとした水に浸かる。
水面を見つめ、心を澄ませると――湖の底で、巨大な何かが丸くなり、深い眠りにつきながら、微かに寝言を漏らしているのが感じ取れた。
『……ニンゲン……ナゼ、ワタシヲ……オコソウトスル……』
気の遠くなるような時間を生きる精霊特有の、ひどく間延びした、無気力な声だった。
「――(驚かせてごめんなさい。私はエレイン。貴方は、手帳に記されていた『発酵と熟成の精霊』……ラムね?)」
エレインが古代精霊語を水面に向かって優しく紡ぐと、湖水がピクリと震え、琥珀色の波紋が広がった。
『……コトバガ、ワカルノカ……。ダガ……ムダダ。ワタシヲオコシテモ、ナニモデキナイ……』
「――(どうして? 貴方は、食べ物や飲み物をとっても美味しくする魔法が使えるのでしょう?)」
『……ニンゲンハ、マツコトヲ、シラナイ』
ラムの声には、諦観と、深く傷ついた絶望が滲み出ていた。
『……スグニヒヲモヤシ、スグニミズヲコオラセ、スグニケッカヲモトメル。ジカンヲカケテユックリトヘンカサセルワタシノマホウハ……「オソスギル」「ヤクニタタナイ」ト、ダレニモヒツヨウトサレナクナッテシマッタノダ……』
役に立たない。遅すぎる。
その言葉は、エレインの胸に鋭く突き刺さった。
――貴様のような地味で不気味な女は、もうこの王城には不要だ!
あの声が、脳裏を掠める。
火力が弱くて王宮を追い出されたポポと、まったく同じだ。
人間の身勝手な「効率」という物差しで測られ、はみ出したからと、理不尽に捨てられただけなのだ。
「――(そんなこと、絶対にないわ!)」
エレインは両手を胸の前で組み、水底に向かって力強く、しかしこの上なく優しい声で語りかけた。
「――(すぐに手に入るものは、すぐに消えてしまう。効率だけを求めた食事は、ちっとも心を温めてくれなかった。……時間をかけて、ゆっくりと、誰かを想いながら育まれたものこそが、本当に価値のあるものだって、私は知っているの)」
湖底からの吐息が、ピタリと止まった。
「――(お願い、ラム。この湖の果実を、ゆっくりと甘いお酒に変えて。小麦粉を、ゆっくりと膨らませて。……私に、待つことの贅沢を教えてくれないかしら?)」
静寂。
風の音すら止んだような、深い沈黙が湖を包んだ。
ぽこんっ。
やがて、水面の中央から琥珀色の気泡が一つ、浮かび上がって弾けた。
ぽこ、ぽこぽこっ。
気泡は次第に数を増し、湖全体がシャンパンのようにきらきらと輝き始める。
『……マツコトノ、ゼイタク……』
ラムの声から絶望と無気力が薄れ、信じられないものを見つけたような震えが混ざり始めた。
『……ホントウニ、マッテクレルノカ? ワタシノ、ユックリトシタ、ジカンニ……ツキアッテクレルノカ?』
「――(ええ、もちろん。私はもう、誰にも急かされていない、自由な旅人だもの。いくらでも待ってあげる)」
エレインが極上の笑顔で頷いた瞬間。
ザバァァッ!!
湖の中央が大きく盛り上がり、水しぶきと共に強大な魔力の波動が周囲の空気を震わせた。
ギルが前に出ようとするのをエレインが手で制する。
敵意は一切ない。それは、何百年もの眠りから目覚めた、歓喜の産声だった。
水しぶきが晴れた湖面の上に、ふわりと浮かび上がった影。
大型の羊のような姿をしているが、輪郭が曖昧で、雲か泡そのもので作られたような、ひどく柔らかそうな精霊だった。
全身が淡い琥珀色に透き通り、動くたびに甘い芳醇な香りの気泡を周囲に振り撒いている。
『……ワタシハ、ラム。ハッコウト、ジュクセイヲ、ツカサドルモノ』
まだ少し眠たそうにトロンとした目を細めながら、ふわりふわりと空中を漂い、エレインの目の前までやってきた。
『……オマエノコトバ、トテモ、アタタカカッタ。……ワタシノマホウ、オマエノタメニ、ツカッテモイイゾ』
「ありがとう、ラム! よろしくね!」
エレインが両手を伸ばして抱きつくと、ラムの身体はひんやりとして、まるで極上の絹ごし豆腐かマシュマロのように、フワフワでもっちりと柔らかかった。
『フニャァ……』
ラムはエレインに抱きしめられ、嬉しそうに気の抜けた声を出して、頬にすりすりと顔を擦り付けてくる。
ギルのモフモフとはまた違う、もっちりとした極上の抱き心地に、エレインの顔はすっかりとろけきっていた。
「ふふっ。さあ、早速準備をしましょう! さっき摘んだベリーで果実酒を作って。発酵させた生地で、分厚くてフワッフワのパンケーキを焼くのよ!」
『パンケーキ! パンケーキ!』
『……フン。よく分からんが、美味いのだろうな。期待してやる』
ポポが歓喜の舞を踊り、ギルが三本の尾を揺らす。
急がず、焦らず、ゆっくりと時間をかける。
琥珀の湖畔で、新しい家族が加わったエレインの旅が、いよいよ賑やかに、深みを増して続いていく。




