表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/22

第11話:忘れられた琥珀の湖。息を呑むほどの絶景と、眠れる精霊

 視界を遮っていた古木たちが途切れた瞬間、エレインは息をするのすら忘れた。

 目の前に広がっていたのは、なだらかな稜線を描く緑の山々に抱かれた、巨大で静かな湖だった。

 水面の色が、ただの青ではない。

 透き通るような黄金色から深い橙色へ、水彩画の絵の具が優しく滲み出すように、どこまでもグラデーションを描いている。

 そこに降り注ぐ太陽の光が砕けて散り、無数の光の粒を跳ね返していた。

 透明でありながら、とろりとした重厚感を感じさせる輝き。

 まさに、『琥珀』そのものだった。

「……すごい。本当に、手帳に書いてあった通りだわ」

『ウワァァ……! キラキラシテル!』

 ポポがトランクの上から空中にふわりと舞い上がる。

 ギルもサファイアの瞳を細め、三本の尾をゆったりと揺らしながら、ひんやりとした湖の風を全身で受け止めていた。

 ざわわ、さぁわ。

 そよ風がエレインの薄藍色のワンピースの裾を揺らす。

 運ばれてきた風には、水辺の澄んだ冷気だけでなく、甘く芳醇な香りが混ざっていた。

「……いい匂い。甘酸っぱくて、お腹が空いちゃう」

 匂いの元を辿るように視線を巡らせると、岸辺に沿って、たわわに実をつけた背の低い果樹が群生しているのが見えた。

 太陽の光と湖の魔力をたっぷりと吸い込み、野生の果実たちが弾けんばかりに熟している。

 エレインはトランクをその場に置き、引き寄せられるように茂みへと足を踏み入れた。

「見て、ギル、ポポ。こんなにたくさんなってる!」

 緑の葉の隙間から、大粒の赤紫色のベリーの房と、鮮やかなオレンジ色の柑橘類が顔を出している。

 エレインは背伸びをして、一番色づきのいいベリーをそっともぎ取った。

 ぷにっとした、張り詰めた皮の感触。

 指先をほんの少し汚す赤紫色の果汁から、むせ返るような甘い香りが漂ってくる。

 ハンカチで軽く拭い、パクリと小さな口に放り込んだ。

「――んんっ!」

 薄い皮がぷちんと弾けた瞬間、目が驚きに見開かれた。

 暴力的なまでの甘さと、それをキュッと引き締める爽やかな酸味。

 温室で過保護に育てられた王城の果物特有の、水っぽくてぼやけた味ではない。

 大地の力強さを濃縮したような、野性味あふれる鮮烈な果汁が舌の上で踊り、喉の奥へと甘い軌跡を描いて流れ落ちていく。

「すっごく美味しいっ! 甘いのに酸っぱくて……疲れが全部吹き飛んじゃいそう!」

『ホント!? ワタシモタベル!』

『……フン。俺の分も寄越せ。直々に味見をしてやる』

 ポポが飛び跳ね、ギルがそっぽを向きながらもスカートの裾をツンツンと引っ張って催促する。

 エレインはくすくすと笑いながら、ベリーや柑橘を次々と収穫していった。

 美味しい果実をつまみ食いしながら、愛する精霊たちと笑い合う。

 ただそれだけの時間が、春の陽だまりのようにエレインの心を温めていく。


  ――ふぅぅ、…………。

 その時だった。

 果実を摘むエレインの耳に、微かな「吐息」のような音が届いた。

「え……?」

 風の音でも、波の音でもない。

 湖の最も深い底から、水を通して響いてくるような、重々しく、深い悲しみを帯びた波長だった。

 普通の人間には絶対に聞こえない。しかしエレインの耳には、それが明確な『古代精霊語』の響きとして届いていた。

「……泣いてるの……?」

 摘みかけの果実を置き、エレインはゆっくりと湖水へと歩み寄った。

 ちゃぷ、ちゃぷっ。

 素足がひんやりとした水に浸かる。

 水面を見つめ、心を澄ませると――湖の底で、巨大な何かが丸くなり、深い眠りにつきながら、微かに寝言を漏らしているのが感じ取れた。

『……ニンゲン……ナゼ、ワタシヲ……オコソウトスル……』

 気の遠くなるような時間を生きる精霊特有の、ひどく間延びした、無気力な声だった。

「――(驚かせてごめんなさい。私はエレイン。貴方は、手帳に記されていた『発酵と熟成の精霊』……ラムね?)」

 エレインが古代精霊語を水面に向かって優しく紡ぐと、湖水がピクリと震え、琥珀色の波紋が広がった。

『……コトバガ、ワカルノカ……。ダガ……ムダダ。ワタシヲオコシテモ、ナニモデキナイ……』

「――(どうして? 貴方は、食べ物や飲み物をとっても美味しくする魔法が使えるのでしょう?)」

『……ニンゲンハ、マツコトヲ、シラナイ』

 ラムの声には、諦観と、深く傷ついた絶望が滲み出ていた。

『……スグニヒヲモヤシ、スグニミズヲコオラセ、スグニケッカヲモトメル。ジカンヲカケテユックリトヘンカサセルワタシノマホウハ……「オソスギル」「ヤクニタタナイ」ト、ダレニモヒツヨウトサレナクナッテシマッタノダ……』

 役に立たない。遅すぎる。

 その言葉は、エレインの胸に鋭く突き刺さった。

 ――貴様のような地味で不気味な女は、もうこの王城には不要だ!

 あの声が、脳裏を掠める。

 火力が弱くて王宮を追い出されたポポと、まったく同じだ。

 人間の身勝手な「効率」という物差しで測られ、はみ出したからと、理不尽に捨てられただけなのだ。

「――(そんなこと、絶対にないわ!)」

 エレインは両手を胸の前で組み、水底に向かって力強く、しかしこの上なく優しい声で語りかけた。

「――(すぐに手に入るものは、すぐに消えてしまう。効率だけを求めた食事は、ちっとも心を温めてくれなかった。……時間をかけて、ゆっくりと、誰かを想いながら育まれたものこそが、本当に価値のあるものだって、私は知っているの)」

 湖底からの吐息が、ピタリと止まった。

「――(お願い、ラム。この湖の果実を、ゆっくりと甘いお酒に変えて。小麦粉を、ゆっくりと膨らませて。……私に、待つことの贅沢を教えてくれないかしら?)」

 静寂。

 風の音すら止んだような、深い沈黙が湖を包んだ。

 ぽこんっ。

 やがて、水面の中央から琥珀色の気泡が一つ、浮かび上がって弾けた。

 ぽこ、ぽこぽこっ。

 気泡は次第に数を増し、湖全体がシャンパンのようにきらきらと輝き始める。

『……マツコトノ、ゼイタク……』

 ラムの声から絶望と無気力が薄れ、信じられないものを見つけたような震えが混ざり始めた。

『……ホントウニ、マッテクレルノカ? ワタシノ、ユックリトシタ、ジカンニ……ツキアッテクレルノカ?』

「――(ええ、もちろん。私はもう、誰にも急かされていない、自由な旅人だもの。いくらでも待ってあげる)」

 エレインが極上の笑顔で頷いた瞬間。

 ザバァァッ!!

 湖の中央が大きく盛り上がり、水しぶきと共に強大な魔力の波動が周囲の空気を震わせた。

 ギルが前に出ようとするのをエレインが手で制する。

 敵意は一切ない。それは、何百年もの眠りから目覚めた、歓喜の産声だった。

 水しぶきが晴れた湖面の上に、ふわりと浮かび上がった影。

 大型の羊のような姿をしているが、輪郭が曖昧で、雲か泡そのもので作られたような、ひどく柔らかそうな精霊だった。

 全身が淡い琥珀色に透き通り、動くたびに甘い芳醇な香りの気泡を周囲に振り撒いている。

『……ワタシハ、ラム。ハッコウト、ジュクセイヲ、ツカサドルモノ』

 まだ少し眠たそうにトロンとした目を細めながら、ふわりふわりと空中を漂い、エレインの目の前までやってきた。

『……オマエノコトバ、トテモ、アタタカカッタ。……ワタシノマホウ、オマエノタメニ、ツカッテモイイゾ』

「ありがとう、ラム! よろしくね!」

 エレインが両手を伸ばして抱きつくと、ラムの身体はひんやりとして、まるで極上の絹ごし豆腐かマシュマロのように、フワフワでもっちりと柔らかかった。

『フニャァ……』

 ラムはエレインに抱きしめられ、嬉しそうに気の抜けた声を出して、頬にすりすりと顔を擦り付けてくる。

 ギルのモフモフとはまた違う、もっちりとした極上の抱き心地に、エレインの顔はすっかりとろけきっていた。

「ふふっ。さあ、早速準備をしましょう! さっき摘んだベリーで果実酒を作って。発酵させた生地で、分厚くてフワッフワのパンケーキを焼くのよ!」

『パンケーキ! パンケーキ!』

『……フン。よく分からんが、美味いのだろうな。期待してやる』

 ポポが歓喜の舞を踊り、ギルが三本の尾を揺らす。

 急がず、焦らず、ゆっくりと時間をかける。

 琥珀の湖畔で、新しい家族が加わったエレインの旅が、いよいよ賑やかに、深みを増して続いていく。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ