第23話:星降る海からの出航。極上の朝食と、新しい世界への船出
夜明けの冷気を孕んだ潮風が、静かな港町を吹き抜けていく。
西の空にはまだ星々が名残惜しそうに瞬き、鏡のような海面へとその光を落としていたが、東の水平線はすでに、力強い黄金色へと染まり始めていた。
星降る港町の、最も大きな第一桟橋。
そこに停泊しているのは、城のように巨大で優美な純白の豪華客船だった。
「……すごいわ。海から見る日の出って、こんなに壮大なのね」
特等席専用のプライベート・バルコニー。
エレインは潮風に薄藍色の髪を揺らしながら、手すりに寄りかかって水平線を見つめていた。
肩には、柔らかな羽毛のショール……ではなく、ギルの巨大でふかふかな尾が優しく巻き付けられている。
ひんやりと滑らかな毛並みだが、その奥からはギルの体温がじんわりと伝わり、海の朝特有の肌寒さを完璧に防いでくれていた。
『……フン。これくらい大きな船でなければ、俺の気高き三本の尾が窮屈だからな。まあ、合格点をやっておこう』
ギルが優雅に前足をクロスさせて座りながら鼻を鳴らす。
ラムが「フニャァン……オミズノウエ……フワフワスルゥ……」ととろけ、ポポが「ウミ! オオキイネ!」とパチパチと炎を弾かせている。
頭上ではソラが絶妙な角度で朝の木漏れ日を作り出し、海面からナギが「エレイン、イッテラッシャイ!」と水しぶきを上げて見送ってくれていた。
ボーォォォォォォォォォォッ…………!!
やがて、港の空気を震わせるような重厚な汽笛が鳴り響いた。
巨大な外輪がゆっくりと回転を始め、真っ白な水しぶきを上げながら、客船が岸壁から静かに離れていく。
エレインはバルコニーから、遠ざかっていく港町をふと見下ろした。
豆粒のように小さくなっていく人影の中に、泥と海水を被り、地に這いつくばったままこちらに向かって何かを叫び続けている集団が見えた。
かつての婚約者、レオンハルトと、その取り巻きたちだ。
彼らはこれから、インフラが崩壊し魔物が跋扈する絶望の王都へと帰らなければならない。
自らの傲慢さが招いた、取り返しのつかない破滅の道へ。
(……さようなら)
エレインの心に、彼らに対する同情も未練も、チリほども存在しなかった。
ただ、道端の石ころを通り過ぎた時のような、完全なる「無関心」だけがある。
彼女はゆっくりと目を伏せ、そして真っ直ぐに前を向いた。
黄金色に輝く、別大陸へと続く大海原の方へ。
もう二度と、彼らのために言葉を紡ぐことはない。
過去の亡霊は、この美しい星降る海にすべて置いていく。
エレインの顔には、氷の令嬢と呼ばれていた頃の冷たい仮面など跡形もなく消え去り、太陽のように晴れやかで、生命力に満ちた笑顔が咲き誇っていた。
「失礼いたします、エレイン様。特等室のお客様への、特製ブレックファーストをお持ちいたしました」
バルコニーのドアが静かに開き、給仕が銀色のワゴンを押して現れた。
焼き立ての分厚いブリオッシュ・トースト、彩り豊かな新鮮野菜のサラダ、ふくふくと湯気を立てる厚切りのベーコンとスクランブルエッグ。
十分に豪華な朝食だ。
しかし、エレインたちの朝食は、ここからさらに極上の魔法をかけられる。
「ポポ、ラム、お願いね!」
『マカセテ! パン、モットフワフワニアタタメルヨ!』
『……フニャァン……ワタシノ、トクセイバター、ヌルゾォ……』
ポポがトーストの下に潜り込み、絶妙な「焦がさない熱」でパンの内部の水分を呼び起こし、焼き立て以上のふんわり感を蘇らせる。
そこに、ラムが数日間かけて発酵と熟成を極限まで進めた、黄金色に輝く「特製発酵バター」をたっぷりと乗せた。
――じゅわぁぁん……。
ポポの余熱で、ラムの特製バターがゆっくりと溶け出していく。
パンの気泡の奥深くまで黄金色の液体が染み込み、小麦の香ばしさと乳の芳醇な香りが、潮風に混ざってバルコニーを支配した。
「いただき、ますっ!」
両手でトーストを持ち、大きく口を開けてかぶりついた。
――サクッ、じゅわっ!!
「――っっっ!!!」
噛みちぎった瞬間、全身を雷のような衝撃が駆け抜けた。
表面の極上のサクサク感の直後、中から爆発的に溢れ出したのは、熱々に溶けた発酵バターの強烈なコクと、ほんのりとした奥深い酸味、そして微かな塩気だ。
それがブリオッシュ生地の卵と砂糖の甘みと複雑に絡み合い、噛めば噛むほどに多幸感が舌の上でオーケストラを奏でる。
「んんっ……! あぁ……っ、お、美味しいっ!! バターが、お口の中でとろけて……っ」
両手で頬を包み込み、目をギュッと閉じて身悶えした。
『ガツッ! ムシャァッ!! 美味い! この黄色い油の塊、ただのパンを至高の美食に変えおったわ!』
ギルが自分の顔の大きさほどもあるトーストを丸呑みにし、バターで口の周りをテカテカに輝かせながら歓喜の声を上げている。
「ふふっ、サラダも最高よ。ナギがさっき届けてくれた白身魚のカルパッチョを乗せて……」
シャキシャキの野菜の上に、ナギが餞別にくれた新鮮な白身魚を乗せ、船特製の柑橘ドレッシングを回しかける。
プリプリとした魚の甘みと、柑橘の爽やかな酸味が、バターで満たされた口の中をさっぱりとリセットし、次の一口への欲求を無限に引き出していく。
温かいベーコンの燻香。とろとろのスクランブルエッグ。
すべてが完璧だった。
ソラが作ってくれる最高の木漏れ日の下。
どこまでも続く青い海と、波の音をBGMにしながら、最高の家族たちと囲む朝の食卓。
そこにあるのは、純度百パーセントの『自由』と『幸福』だった。
すっかりお腹を満たし、食後の香り高い紅茶で一息ついた後。
エレインはデッキチェアに深く身体を預けた。
ギルが「腹ごなしの毛繕いを許可する」とばかりに、彼女の膝の上に顎を乗せてくる。
指先から伝わる、力強い命の鼓動。
静寂の森で出会った時は、人間を警戒し牙を剥いていたギルが、今ではこうして完全に無防備に、喉を鳴らしているのだ。
「……ねえ、みんな。私ね、本当に、お城を出てよかったって思ってるの」
精霊たちが一斉に彼女を見上げた。
「役に立たないとか、不気味だとか。そんな言葉なんて、もうどうでもいいわ。……だって、みんなはこんなに優しくて、こんなに素晴らしい魔法を持っているんだもの」
『エレイン……』
『……フニャァン……』
「ポポの火加減のおかげで、私は世界で一番温かいスープを知った。ラムの発酵のおかげで、待つことの贅沢を知った。ソラのおかげで、心地よいお昼寝を知った。ナギのおかげで、海に眠る宝物を知った」
エレインは、ギルの柔らかな毛並みを抱きしめ、極上の笑顔を向けた。
「そしてギルがいてくれたから、私はもう、一人ぼっちの夜を怖いと思わなくなったわ」
『……フ、フン。当然だ。俺は誇り高き幻獣だからな。ニンゲンの小娘一人、守ってやらねば寝覚めが悪い』
ギルはそっぽを向きながらも、三本の尾をパタパタと揺らし、エレインの膝にさらに深く顔を埋めた。
「ふふっ。……みんな、本当にありがとう。これからも、ずっと一緒よ」
『ウンッ! ズットイッショ!』
『……ソラモ、ズット、コモレビツクル……』
空を見上げれば、雲一つない完璧な青空が広がっていた。
豪華客船は白い航跡を真っ直ぐに引きながら、未知なる新大陸へと進んでいく。
そこには、まだ見ぬ絶景があるだろう。
まだ食べたことのない、極上の美食が待っているだろう。
そして、孤独に追いやられている新しい精霊の仲間たちとの出会いが、きっと彼女を待っている。
「さあ、行きましょう。私たちの本当の人生は、ここから始まるのよ!」
潮風に薄藍色の髪をなびかせ、氷の令嬢は――いや、世界で一番自由で幸せな精霊翻訳官は、希望に満ちた大海原へ向かって、力強く微笑んだ。
以前の地下室では、彼女の周りに広がっていたのは、カビ臭い闇と、重い鎖だけだった。
今の彼女の周りには、心地よい潮風と、愛する家族たちの温もりだけがある。
彼女たちの極上で、温かくて、美味しいスローライフの旅は、まだ始まったばかりなのだ。
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次回お楽しみに。




