第22話:精霊たちの怒り。愛する家族を守る、絶対的な意志
泥と汗にまみれ、強烈な悪臭を放つレオンハルトの手が、エレインの華奢な腕へと伸びる。
かつての彼女であれば、その傲慢な態度と王族の威光に怯え、身をすくませていただろう。
しかし、今のエレインは一歩も後ろへ下がることはなかった。
恐怖など微塵もない。ただ、目の前の男が発する鼻の曲がるような瘴気に、微かに眉をひそめただけだ。
なぜなら、彼女自身が指一本動かすよりも早く、彼女を愛し彼女に愛された「家族」たちが、その無礼を絶対に許しはしないと知っていたからだ。
『――汚らわしい手で、我らが愛娘に触れるな、ゴミ屑が』
人間の耳には本来「獣の咆哮」としてしか聞こえないはずの、古代精霊語。
しかし限界まで圧縮されたその怒りの魔力は、レオンハルトの脳髄に直接、絶対的な意味を持った言葉として叩き込まれた。
「……な、なんだッ!?」
レオンハルトの動きが、不自然にピタリと止まった。
いや、止められたのだ。
エレインに伸ばそうとしていた右腕が、肘から指先にかけて、一瞬にして分厚い霜に覆われていた。
ピキ、ピキピキピキッ!!
それは、ただの氷ではない。
三尾の雪狐ギルが放った、細胞の動きすら完全に停止させる絶対零度の冷気。
不潔な垢にまみれていた軍服の袖ごと、彼の右腕は美しい氷の彫刻のように凍りつき、ピクリとも動かすことができなくなった。
「あ……が、ああああッ! う、腕がッ!! 動か、ないッ!?」
激痛と、それ以上の恐怖に顔を歪め、レオンハルトが悲鳴を上げる。
その背後で、銀色の毛並みを怒りで逆立たせたギルが、喉の奥から地響きのような唸り声を上げていた。
『身の程をわきまえろ、下等なニンゲン。……次にその汚い手を伸ばせば、腕ごと粉々に砕け散ると思え』
サファイアの瞳から放たれる、明確な殺意。
かつてギルは、森の奥で一人、傷を抱えたまま凍えていた。
人間に罠をかけられ、裏切られ、誰も信じないまま孤独に生きていた。
しかし今、彼には守るべき家族がいる。
その瞳に宿っているのは、獣の本能的な怒りではない。
家族を傷つけようとする者への、冷たくて純粋な「意志」だった。
その圧倒的な威圧感に、護衛の近衛騎士たちが悲鳴を上げながら腰の剣を抜こうとした。
「で、殿下をお守りしろォォッ!!」
――しかし、彼らの剣がエレインに届くことは、永遠になかった。
『エレインニ、ヤイバヲムケルヤツハ、ワタシガユルサナイ!!』
ポポは王都のサラマンダーたちが放つような、鉄をドロドロに溶かすほどの高火力は持っていない。
しかし彼には、誰にも負けない絶対的な力がある。
それは『対象を決して焦がさず、ゆっくりと、しかし確実に芯の芯まで熱を通す』という、逃れようのない優しい炎の魔法だ。
ポポの小さな身体から、音もなく、柔らかなオレンジ色の光の波が放たれた。
その光の波を浴びた騎士たちの剣と甲冑は、一瞬にして「煮えたぎる鍋の底」と同じ温度に達した。
鉄は溶けない。
しかし、素手で持つことなど到底不可能な、じわりじわりと肉を焼き切るような恐ろしい熱を帯びたのだ。
「あ、熱ッッ!! 剣が、鎧が……熱いッ!!」
騎士たちが剣を石畳の上に放り投げる。
しかし彼らを覆う分厚い鋼の甲冑もまた、ポポの逃げ場のない熱を芯まで吸い込み、巨大なオーブンのように内側から彼らの身体をローストし始めていた。
「脱げ! 鎧を脱げぇぇっ、中から蒸し焼きにされるッ!!」
「留め金が熱くて外れないッ! ぎぃぃっ、助けてくれぇっ!」
決して表面を焦がさない、しかし身体の奥底まで容赦なく浸透してくる極上の火加減。
料理にとっては奇跡の温度も、分厚い鎧を着込んだ人間にとっては、真綿で首を絞められるような地獄の釜茹ででしかない。
熱射病と酸欠に襲われた騎士たちは、次々と兜をかなぐり捨て、無様に地を転げ回った。
彼らの退路もまた、すでに完全に塞がれていた。
『……ニガサナイ……。エレインヲ、ナカセタヤツラ……』
トランクの上から滑り落ちたラムが、地面で異常なスピードで増殖し、粘着性のある巨大な沼を作り出していたのだ。
時間をかけて発酵させた、極上の粘り気を持つ琥珀色の泥。
逃げようとした騎士たちの足がズブズブとその沼に沈み込み、もがき苦しむほどに強固に絡め取られていく。
さらに、彼らの足元の影が、突如としてどす黒く広がり始めた。
ソラだ。
心地よい木漏れ日を作り出す光と影のバランスは完全に崩され、騎士たちの視界を這い回る「恐怖の影」が彼らの精神を直接締め上げていく。
眩しすぎる光の点滅と、一切の光を奪う漆黒の闇が交互に襲いかかり、彼らの三半規管と平衡感覚を完全に破壊した。
「あ、ああ……ッ! 足が、抜けない! 前が、見えないッ!」
「だ、誰か……ッ! 助け……ッ!」
屈強な騎士たちが、見えない恐怖と拘束に泣き叫び、無様に地に這いつくばる。
そして、仕上げを行うのは、この港町そのものを支配する存在だった。
『……ガラクタト、ケリトバシタコト、ワタシハ、ユルシテイナイ!』
ナギが両手を高く掲げる。
今まで穏やかだった港の海面が、突如として大きく盛り上がった。
ザバァァァァァッ!!という轟音と共に、数十メートルにも及ぶ巨大な海水の壁が立ち上がり、レオンハルトたちの頭上を覆い尽くす。
圧倒的な質量。
それが崩れ落ちるかと思われた瞬間――水壁は途中でピタリと止まり、凄まじい水圧を持った細い水流となってレオンハルトの頭上から叩きつけられた。
「ゴボァッ!? ガハッ、ゲホッ、ゲホォォッ!!」
大量の海水を飲まされ、レオンハルトは石畳の上へと叩き伏せられた。
彼の身を包んでいた不潔な垢と耐え難い悪臭を放っていたカビが、ナギの容赦ない塩水と水圧によって乱暴に洗い流されていく。
しかしそれは決して彼を浄化するためではない。ただ、彼らの穢れがこの町を汚すことを、精霊たちが許さなかっただけだ。
「ゼェ、ゼェ……っ。な、なんだ……これは……っ」
全身ずぶ濡れ、右腕は凍りつき、地面に這いつくばったまま、レオンハルトは震える声を絞り出した。
なぜだ。
なぜ精霊たちが、陰気な翻訳官の女一人のために、束になって次期国王を蹂躙するのだ。
彼の狭い器では、目の前で起きている現実を何一つ理解することができなかった。
「エ、エレイン……っ。お前、一体、何をした……ッ! 私に逆らえば、どうなるか分かっているのか……!」
威厳を取り繕おうとする声は、みっともなく裏返り、ガタガタと震えていた。
ここに至ってもなお、自分が彼女の生死を握っていると勘違いしている。
その滑稽な姿を、エレインは一歩も動くことなく、ただ静かに見下ろしていた。
「……何をしたか、ですか。私は何もしていませんよ」
エレインの声は、氷のように冷たく、しかしどこまでも澄み切っていた。
怒りでも、悲しみでもない。
道端の石ころに語りかけるような、完全なる「無関心」の響きだ。
「彼らは、私の大切な家族です。そして彼らは、自分たちを蔑み、利用するだけの貴方たちを、心から軽蔑している。……ただ、それだけのことです」
「か、家族だと……!? たかが精霊どもが、人間の家族になど……なるはずがないだろうがッ!!」
レオンハルトが叫ぶ。
しかしエレインは、もうその言葉に何も感じなかった。
彼女の心は、すでにギルとの初めての夜のスープ、ポポが焼いてくれたパンケーキ、ラムの熟成した果実酒、ソラの木漏れ日の下でのお昼寝、ナギが笑顔で差し出してくれた海の幸だけで、満たされていたからだ。
過去の亡霊が入り込む隙間など、もうどこにも存在しなかった。
「お分かりになりませんか、レオンハルト殿下。彼らは、もう貴方たちの声など聞くつもりはないのです」
エレインは静かに目を伏せ、薄藍色のスカートの裾を翻した。
「私からも、貴方に差し出す言葉はもう一つもありません」
踵を返し、倒れ伏すレオンハルトに完全に背を向ける。
そして、肩越しに、ただ一度だけ振り返り、最後の言葉を告げた。
「……さようなら、レオンハルト殿下。二度と、私の前にその姿を現さないでください」
「ま、待て……! 待て、エレインッ!! 私を置いていくなァァァッ!!」
絶望に満ちた叫び声が、星降る港町にこだまする。
しかしエレインの足取りは、一度も止まることがなかった。
『……フン。これに懲りたら、二度と我らの前にその面を晒すな』
ギルが最後に冷ややかな一瞥を投げかけ、三本の尾を揺らしてエレインの後を追う。
ポポも、ラムも、ソラも、そしてナギも。
彼らは地の底を這いつくばる者たちに一切の情をかけることなく、誇り高く、気高い足取りで、エレインの元へと帰っていった。
波打ち際に残されたのは、ずぶ濡れのレオンハルトと、鎧を脱ぎ捨てて呻く騎士たちだけだ。
すべてを失った男の慟哭が、波の音にかき消されていく。
レオンハルトはしばらくの間、石畳の上に伏したまま、エレインが歩み去っていった方向をただ見つめ続けた。
彼女の背中は、もう見えない。
しかし、その足取りがいかに軽やかで、いかに晴れやかだったか。
それだけが、なぜか彼の脳裏に焼き付いて離れなかった。
王城の地下室で、三日三晩一睡もせず書類を書き続けていたあの頃。
彼女はいつも、あんなにも軽やかな足取りで歩いていただろうか。
いや、違う。
あの頃の彼女は、重いドレスを引きずりながら、折れそうな背筋で歩いていた。
今の彼女の足取りは、まるで羽が生えているかのようだった。
(……あれが、解放された人間の、歩き方か)
波の音だけが、虚しく石畳を打ち続ける。
レオンハルトの目から、一筋の涙が、気づけば頬を伝っていた。
それが後悔の涙なのか、悔しさの涙なのか、あるいはただの疲弊からくる涙なのか。
彼自身にも、もうわからなかった。




