第21話:星降る港町の朝。迫り来る狂気の追跡者と、別大陸への切符
星降る港町の朝は、海鳥たちの活気ある鳴き声と、波止場に打ち寄せる潮騒の音で幕を開ける。
東の水平線から昇る太陽が広大な海面を黄金色に染め上げ、昨夜の星空を映し出していた静かな水面は、今度はきらきらと無数の宝石を散りばめたような眩い輝きへと姿を変えていた。
海からの風は心地よく冷たく、ほんのりと塩気を帯びている。
エレインは港のターミナルに建つ石造りの建物を背に、手にした分厚い羊皮紙の束を愛おしそうに胸に抱きしめていた。
「ふふっ……買えちゃった。別大陸へ渡る豪華客船の、特等席のチケット!」
『トクトウセキ! スッゴクオオキナフネダネ!』
『……フン。これくらい広くなければ、俺の三本の尾が窮屈だからな。当然の選択だ』
肩のポポがパチパチと嬉しそうに炎を弾かせ、ギルが波止場に停泊している巨大な白い外輪船を見上げて得意げに鼻を鳴らす。
ラムが「フニャァン……フネ、ユレルカナ……」と心配そうに震え、足元の影からソラが「ダイジョウブ……ワタシガ、コモレビデ、マモルカラ……」と優しい波長を送ってくれていた。
波打ち際からはナギも顔を出し、水色の瞳をキラキラと輝かせて新しい旅の始まりを祝福してくれている。
「出航は明日の朝よ。今日は港町でゆっくりと最後の買い出しと、美味しいご飯を楽しみましょう!」
精霊たちが一斉に歓喜の声を上げた。
港の通りは朝から凄まじい活気に満ちていた。
その喧騒から少し外れた、海を見渡せる静かなテラス席。
エレインはそこで、朝の冷えた身体を温める朝食の準備に取り掛かっていた。
ナギが今朝一番で海に潜って採ってきてくれたのは、手のひらほどもある巨大な殻付きの海老と、艶やかな紫色の殻を持つ新鮮なアサリだ。
「ポポ、鉄板とお鍋、両方お願いできるかしら?」
『マカセテ! コッチハアツク、コッチハユックリ、カンペキニヤルヨ!』
ポポが二手に分かれるように小さな炎を灯し、完璧な温度管理を始める。
まずはアサリのお吸い物だ。
水を入れた小鍋にアサリを放り込み、ポポの優しい熱でゆっくりと温度を上げていく。
――パカッ、パカッ。
貝殻が開き、中からふっくらとした乳白色の身が顔を出す。同時に、海のエキスがたっぷりと溶け出した白濁した極上のスープが完成した。
味付けは、ほんの少しの塩と、ラムが熟成させた果実酒を数滴垂らすだけ。それだけで、生臭さが消え、五臓六腑に染み渡るような上品な旨味の塊へと変化した。
「次は、メインの海老のオープンサンドね」
エレインは街で買った焼き立てのバゲットを厚めにスライスし、ラムが一晩かけて熟成発酵させた「特製のサワークリーム」をたっぷりと塗りたくった。
ナギが採ってきてくれた巨大な海老の殻を剥き、鉄板の上でサッと炙る。
――ジュゥゥゥゥッ!!
ポポの炎が海老の表面を一瞬で香ばしく焼き上げ、甲殻類特有の甘く濃厚な匂いが爆発的に広がった。
中はほんのりとレアな状態を残したまま、熱々の海老をバゲットの上に豪快に乗せ、港町特産の粗塩と野生のハーブを散らす。
「完成! ぷりぷり海老と熟成クリームのオープンサンド、アサリの濃厚スープ添えよ!」
潮風に吹かれながら、エレインは大きく口を開けてオープンサンドにかぶりついた。
――サクッ、ぷりっ!!
「――っっっ!!」
バゲットの香ばしい歯ごたえの直後、海老の身が弾けるような凄まじい弾力で歯を押し返してくる。
そこから溢れ出したのは、海老が持つ極限の甘みと、熱い肉汁だ。
その暴力的なまでの旨味を、ラムのサワークリームの爽やかな酸味と奥深いコクが、完璧なバランスで包み込んでいく。
「んんっ……! お、美味しいっ!!」
熱々の海老と、冷たい熟成クリームの温度差。
サクサクとぷりぷりの食感のコントラスト。
その濃厚な余韻を、熱いアサリのスープで一気に胃の腑へと流し込む。
「はぁぁ……っ。身体の芯から温まるわ……」
両手で頬を包み込み、とろんとした目で海を見つめた。
『ガツッ! バリボリッ!! 美味いぞエレイン! この赤い生き物、見かけによらず途方もない旨味の塊だな!』
ギルが海老の尻尾ごと豪快に噛み砕きながら、サファイアの瞳を輝かせている。
ポポもラムもソラも、海面から顔を出しているナギも、みんなが嬉しそうにエレインの笑顔を見守っていた。
王城の地下室で、味のしない冷たいパンを齧っていた日々は、もう遠い昔の幻のようだ。
心地よい潮風と、満たされた胃袋。そして、新しい世界への切符。
これ以上ないほどの絶対的な幸福が、エレインの全身を温めていた。
しかし。
その極上の平和は突如として、港町の入り口から立ち昇った「異臭」と「狂気」によって引き裂かれた。
「……え?」
エレインはオープンサンドを口に運ぶ手を止め、顔を上げた。
潮風の爽やかな香りを叩き潰すようにして、強烈な腐敗臭と生乾きのカビの匂いが、風に乗って流れてきたのだ。
港の入り口付近が、騒がしい。
行き交う商人や漁師たちが怯えたように道をあけ、ひそひそと囁き合っている。
その視線の先に現れたのは、まるで地獄の底から這い出してきたかのような、おぞましい集団だった。
かつては白銀に輝いていたであろう甲冑は、泥と魔物の返り血でどす黒く汚れ、赤錆が浮いている。
乗っている馬は限界を超えて泡を吹き、今にも倒れそうに足を震わせていた。
そして、その集団の先頭を歩く男の姿は、異様だった。
純白だったはずの軍服は、汗とカビでまだらな灰色に変色し、遠目からでもわかるほどの強烈な悪臭を放っている。
金糸雀のように美しかった金髪は、脂でベタベタに張り付いて不潔な束となり、頬は病的にこけ落ちていた。
その血走った目は、瞬きすら忘れたように限界まで見開かれ、狂気を孕んでギョロギョロと港町を徘徊している。
「……レオンハルト、殿下……?」
エレインの口から、微かな呟きが漏れた。
間違いない。かつての婚約者であり、この国の第一王子だ。
しかし、その姿からは、王族としての威厳や華やかさなど微塵も感じられなかった。
まともな食事も睡眠もとれず、風呂にも入れない数週間。
結界が崩壊し魔物が侵入した王都から、不眠不休の強行軍でここまで馬を飛ばしてきたのだ。
彼の精神と肉体は、すでに完全に崩壊の極致にあった。
エレインは静かにオープンサンドを皿に置いた。
かつての彼女なら、彼の姿を見ただけで恐怖に萎縮し、言われるがままに頭を下げていただろう。
しかし今の彼女の心にあるのは、恐怖でもなく、未練でもない。
路傍の石ころを見るような、絶対的な「無関心」と、ほんの少しの哀れみだけだった。
人は、自分の手で守っていたものの価値を、失って初めて知るのだ。
ギルが低い唸り声を上げた。
『……グルルルルルッ……!!』
周囲の空気が急激に冷え込み、ポポの炎が怒りで赤黒く変色する。
ラムもソラもナギも、かつて自分たちを虐げ、エレインを傷つけた人間の登場に、明確な拒絶の波長を放ち始めていた。
「待って、ギル、みんな。大丈夫よ」
エレインは静かに立ち上がり、精霊たちを制した。
「……いた……」
レオンハルトの血走った目が、テラス席に立つエレインの姿を捉えた。
「いたぞォォォッ!! エレインッ!! あの魔女め、こんなところに隠れていやがったかァァァッ!!」
鼓膜を劈くような狂気に満ちた叫び声。
港町の住人たちが悲鳴を上げて逃げ惑う中、レオンハルトはフラフラとした足取りで、しかし凄まじい執念を燃やして歩み寄ってきた。
「エレイン……! よくも私に恥をかかせてくれたな! お前が精霊どもをそそのかしたせいで、王城はめちゃくちゃだ! 水は腐り、服はカビ、魔物が結界を抜けてきているのだぞ!!」
数メートル手前まで近づいたレオンハルトから、鼻が曲がりそうなほどの悪臭が放たれる。
しかしエレインは眉一つ動かさず、ただ冷ややかな視線で彼を見ていた。
近くで見れば、その変わりようは凄まじかった。
かつて金糸雀の羽のように輝いていた肌は、脂と不潔が積み重なって粉を吹き、唇はガサガサに荒れ果てている。
王族としての誇りを体現していた姿勢は完全に崩れ、まるで枯れ木が折れそうに傾いているような、危うさがあった。
これが、精霊たちと誠実に向き合うことを拒み続けた、末路だ。
「……私のせい、ですか」
エレインは静かに口を開いた。
怒りも、嘆きも、声の中にはない。ただ、穏やかで揺るぎない確信だけがある。
「精霊たちとの契約を蔑ろにし、私を不気味だと言って追放したのは、殿下ご自身ではありませんか」
「うるさいッ! 言い訳など聞きたくない! お前のその陰険な復讐のせいで、私がどれだけ不快な思いをしたと思っている!」
レオンハルトはギリギリと歯ぎしりをした後、突然、ひきつったような笑みを浮かべた。
「……だが、もう許してやる。お前の価値は十分に理解した。今すぐ城へ戻れ! 精霊どもを従わせ、服を洗い、極上の食事を用意するのだ! そうすれば、お前の罪は不問に付してやろう!」
どこまでも身勝手な論理。
自分がエレインに許される立場であることを、今もまだ理解していない。
「さあ、来い! グズグズするな!」
レオンハルトは叫びながら、泥にまみれた不潔な手で、エレインの腕を掴もうと手を伸ばした。
その手が、エレインの肌に触れるよりも、ほんの一瞬早く。
――ピキッ。
港町の空気が、完全に凍りついた。
『――汚らわしい手で、我らが愛娘に触れるな、ゴミ屑が』
それは、エレインが発した言葉ではない。
人間の耳には決して理解できないはずの『古代精霊語』が、あまりの怒りと強大な魔力の圧縮によって、直接レオンハルトの脳髄に叩き込まれた「絶対的な拒絶」の声だった。
レオンハルトの伸ばした手が、ぴたりと止まる。
彼の目の前に、いつの間にか三尾の雪狐ギルが立ちはだかっていた。
その全身から放たれる極寒の冷気が、周囲の石畳を一瞬で霜で覆い、夏の港町の空気を真冬の底へと引きずり落とす。
レオンハルトの伸ばした手の甲に、みるみると白い霜が張り始めた。
「ひっ……」
かつて、ギルは誰にも懐かない孤高の幻獣だった。
傷つけられ、裏切られ、誰も信じないまま、一人で凍えていた。
しかし今の彼には、守るべきものがある。
ギルの青い瞳に宿っているのは、獣の本能的な怒りではない。
家族を傷つけようとする者への、冷たくて純粋な「意志」だった。




