第20話:潮風の香りと、星降る港町への到着
風鳴りの渓谷を抜け、平緩な街道を歩き続けること数日。
その日の午後、エレインの頬を撫でる風の質が、明確に変わった。
乾いた風とは違う。ほんのりと湿り気を帯び、生命力に満ちた塩気を孕んだ、涼やかで力強い風だ。
「……潮の匂い……!」
思わず足を止め、大きく息を吸い込んだ。
トランクの上のラムが「フニャァン……ショッパイニオイ……」とぷるぷると震え、肩のポポが「ウミ! ウミダネ!」とパチパチと炎を弾かせる。
エレインの影に潜むソラも、足元から期待に満ちた淡い光を漏らしていた。
視界を遮っていた最後の小高い丘を越えた瞬間。
「――わぁっ……!」
世界の果てまで続くかのような、圧倒的な「青」が飛び込んできた。
見渡す限りの広大な海。
太陽の光を反射して無数の宝石を散りばめたように輝く水面は、琥珀の湖とはまた違う、雄大で力強い美しさに満ちていた。
頭上では真っ白な海鳥たちが円を描くように飛び回り、ピィーヒョロロという澄んだ鳴き声が波の音に混ざって心地よく響き渡っている。
そして、海岸線に沿って広がる、活気に満ちた石造りの巨大な街並み。
赤や青の鮮やかな屋根瓦が並び、港には帆を畳んだ巨大な交易船が何隻も停泊している。
初代翻訳官の手帳に記されていた、次なる舞台にして別大陸への玄関口――『星降る港町』だ。
エレインは丘の上で立ち尽くし、その絶景をしばらくの間、ただ黙って眺めていた。
静寂の森の薄暗い緑。琥珀の湖の黄金色。風鳴りの渓谷の乾いた岩肌。
旅してきたすべての場所が、それぞれに美しかった。
しかし、この海の青は、それらとは全く違う種類の感動で、エレインの胸を満たした。
広い。
ただただ、広い。
どこまでも続く水平線が、「世界はこんなにも大きい」と、無言で語りかけてくるようだった。
『……フン。水がやたらと多い場所だな。俺の銀毛が潮風でベタつかないか心配だ』
ギルがわざとらしく顔をしかめて鼻を鳴らした。
しかしそのサファイアの瞳は、街の方角から漂ってくる「ある匂い」に完全に釘付けになっていた。
「ふふっ。ギルのお鼻は誤魔化せないわね。……すっごく、美味しそうな匂いがするもの」
エレインも喉を鳴らした。
発酵調味料が焦げる香ばしい匂いと、バターとニンニクで新鮮な貝や魚を炒める、暴力的なまでのシズル感を伴う香り。
王城の地下室でカビ臭い空気を吸っていた頃には、想像することすらできなかった命の匂いだ。
「さあ、行きましょう! まずは街を散策して、海鮮のお料理を探すわよ!」
港町の中は、活気と熱気に溢れていた。
石畳の路地には網を繕う漁師たちの威勢の良い声が響き、屋台の店先には氷の上に並べられた銀色に輝く新鮮な魚、大人の拳ほどもある巨大な牡蠣、透き通るような桜色の海老が山積みにされている。
「いらっしゃいお嬢ちゃん! 獲れたてのイカ焼き、特製の香草バター醤油ダレがたっぷり絡んでるよ!」
「大粒ホタテの串焼きもあるぞ! 一口噛めば、海のエキスがジュワッと溢れ出す極上品だ!」
次々と声をかけられ、その度に漂う芳醇な匂いに、エレインのお腹が悲鳴を上げていた。
ギルに至っては、屋台の魚を食い入るように見つめ、口の端からよだれを滴らせている。
「美味しそう……。でも、せっかくなら、海の見える静かな場所で、みんなでゆっくり食べたいわね」
屋台の喧騒から少し離れ、波打ち際へと続く静かな砂浜へと足を進めた。
ざばぁぁ……ん。しゅわわわ……。
寄せては返す波の音が、心地よいリズムを刻んでいる。
真っ白な砂浜には色とりどりの貝殻が点在し、夕暮れが近づくにつれて空のオレンジ色が海面を優しく染め上げ始めていた。
その時。
波打ち際でしゃがみ込んでいる、小さな影を見つけた。
子供ほどの背丈の、ひどく透明感のある姿だった。
淡い水色と翡翠色が混ざり合った、波の泡をそのまま固めて人の形にしたような、不思議な精霊だ。
その精霊は、波が運んできた漂流物を小さな両手で一つ一つ拾い上げては、悲しそうにため息をついていた。
『……コレモ、ゴミ。……コレモ、ガラクタ。……ワタシガアツメルモノハ、ミンナ、イラナイモノバカリ……』
ぽろぽろと、真珠のような涙をこぼしながら、小さな精霊が古代精霊語で呟く。
「――(驚かせてごめんなさい。貴方は、どうして泣いているの?)」
エレインが美しい発音で語りかけると、精霊はビクッと肩を震わせ、振り返った。
その瞳は、深い海の色をしていた。
『……オマエ、ニンゲンナノニ、コトバガワカルノ?』
「――(ええ。私はエレイン。貴方は、この波打ち際の精霊さんね?)」
『……ワタシハ、ナギ。ウミドコロカ、リクノセイレイタチニモ、バカニサレテル……』
ナギと名乗った精霊は、足元に積み上げられた漂流物の山を小さな身体で隠すようにした。
『……ウミのオオキナセイレイタチハ、フネヲウゴカシタリ、アラナミヲオコシタリデキル。リクノセイレイタチハ、オオキナキヲソダテル。……デモ、ワタシハ、ハザマニイテ、ナミガハコンデキタ「ガラクタ」ヲ、アツメルコトシカデキナイ……。ニンゲンノリョウシタチモ、コレヲミテ「なんだ、ただのゴミか」ッテ、ケリトバス。……ダカラ、ワタシモ、ガラクタ……』
ナギの言葉に、ポポが悲しそうに炎を揺らし、ソラがそっと同情の波長を送る。
役に立たない、ガラクタだ、ゴミだ。
それは、彼らがかつて幾度となく投げつけられてきた、呪いの言葉だった。
エレインは砂浜に膝をついた。
旅装束の裾が濡れるのも構わず、ナギの足元にあった水色のガラス片をそっと拾い上げる。
「――(見て、ナギ。太陽の光に透かすと、海そのものを閉じ込めたみたいに、とっても綺麗に光るわ)」
『……エ?』
それは、長い年月をかけて海を漂ってきた瓶のガラスが、波に揉まれて角が取れ、すりガラスのように美しく丸くなったものだった。
水色、深緑、淡い茶色。それぞれが太陽の光を透かし、まるで本物の宝石のように輝いている。
「――(このお皿だってそう。欠けてはいるけれど、こんなに繊細な模様、王城の食器でも見たことがないわ。波に揉まれて、途方もない時間を旅して、貴方の元へたどり着いた。……これはガラクタなんかじゃない。『アンティーク』と呼ばれる、素敵な宝物よ)」
『……タカラ、モノ……』
「――(海にも陸にも属さない貴方だからこそ、世界中から流れ着くこの宝物たちを見つけて、愛してあげることができる。……それは、とっても素敵な役目じゃない)」
エレインの言葉が、ナギの胸の奥に静かに落ちていく。
誰かに必要とされたことも、誰かに「貴方じゃなければ」と言われたことも、一度もなかった。
それが今、目の前の人間の女の子が、真剣な目で、自分の集めたものを宝物だと言ってくれている。
『……ホントウニ、ホントウニ、コレハ、タカラモノ? ワタシハ、ガラクタジャナイ……?』
「――(ええ、絶対に。貴方の集めた宝物、私、とっても好きよ)」
エレインが極上の笑顔で頷いた瞬間、ナギの身体からパァァッと虹色の光の泡が弾け飛んだ。
『……ウワァァァンッ! エレイン、エレインッ!! アリガトウ、アリガトウッ!!』
ナギは泣きじゃくりながら、エレインの胸に飛び込んだ。
冷たい海水の感触ではない。優しく包み込むような、温かい春の海のような心地よい温度だった。
ひとしきり泣いて笑顔を取り戻したナギが、パンッと両手を合わせると、波打ち際から次々と新鮮な海の幸が砂浜に打ち上げられた。
手のひらよりも大きな真牡蠣。ピチピチと跳ねる銀色の魚。殻から身がはみ出しそうなほど丸々と太った大粒の帆立とアサリ。
『オォォッ!! でかしたぞ水色のチビ! 俺の腹はもう限界だったのだ!』
「ふふっ、ありがとうナギ! この新鮮な魚介と、街で買ってきたスープを使って、最高の海鮮シチューを作りましょう!」
エレインはトランクから鉄鍋を取り出し、屋台で買っておいた濃厚なクリームスープの素を注いだ。
そこに、ナギが届けてくれた魚介類を殻ごと豪快に放り込む。
――ふつ、ふつふつふつ……。
ポポの絶妙な火加減が鍋を包み込む。
魚介の身を絶対に硬く縮ませない、奇跡の温度。
鍋が温まるにつれて、パカッ、パカッと小気味よい音を立てて貝殻が開き、中からふっくらとした身が顔を出す。
貝や魚から溶け出した極上の旨味エキスが、クリームスープにジュワァッと溶け込んでいく。
そこに、ラムが熟成させた白ワインを数滴垂らすと、生臭さは完全に消え去り、代わりに芳醇で暴力的なまでの海鮮の香りが砂浜に立ち込めた。
「完成よ! 星降る港町の、特製・濃厚海鮮シチュー!」
エレインはナギが集めたアンティークのお皿を綺麗に洗い、たっぷりとシチューをよそった。
日が完全に落ちた港町。
ふと海面を見渡すと、夜空に瞬く無数の星々が、穏やかな水面に鏡のように映り込んでいた。
まるで宇宙の真ん中に浮かんでいるような、息を呑むほどの絶景。
初代翻訳官の手帳が「星降る港」と記した理由が、今はっきりとわかった。
その絶景を背景に、エレインはスプーンで熱々のシチューを掬い上げた。
大きな帆立の身と、とろとろのクリームを一緒に口へ運ぶ。
「――っっっ!!!」
あまりの衝撃に、言葉を失った。
帆立の身は舌に触れた瞬間にほろりと崩れ、中から熱々の旨味のジュースが爆発的に溢れ出した。
魚介の圧倒的な旨味。ポポの火加減による完璧な食感。ラムの白ワインがもたらす奥深いコク。
それらが濃厚なクリームの甘みと完璧に融合し、食道を通り抜けていく。
「んんっ……! あぁ……っ、お、美味しい……っ!!」
身体の芯から温まり、細胞の一つ一つが歓喜の声を上げるような多幸感の極致。
一口ごとに、スプーンを置くのが惜しくなる。
次の帆立はどうしよう。牡蠣も食べたい。魚の旨味がスープに溶け込んでいて、クリームだけすすっても最高だ。
食べながら次の一口を考え、考えながらまた食べる。
こんな食べ方ができることを、エレインはこれまで知らなかった。
『ガウッ! ハフッ、ハフハフッ!! 美味いぞエレイン! 海とは、こんなにも美味いものが隠されていたのか!!』
ギルがシチューで口の周りを真っ白にしながら、恍惚とした表情で器を舐め回している。
ポポもラムもソラも、そして新たに加わったナギも、みんなが笑顔で、温かいシチューを囲んで笑い合っていた。
満天の星空と、それを映し出す鏡のような海。
潮風に吹かれながら、最高の仲間たちと囲む極上の食卓。
王城を出てから今まで旅してきた道のりが、走馬灯のように脳裏を流れた。
静寂の森でギルと出会った夜のスープ。琥珀の湖でラムが作ってくれた果実酒。風鳴りの渓谷のチーズ炙り肉。
そして今夜のシチュー。
どれも、かけがえのない記憶だ。
(私の旅は、まだ始まったばかりなのね)
エレインは星降る海を見渡しながら、ふにゃりと頬を緩ませた。
この先に、別の大陸がある。
見たことのない景色と、知らない精霊と、食べたことのない美味しいものが、きっと待っている。
氷の令嬢と呼ばれた少女の心は、この星降る港町で、これ以上ないほどの幸福に満たされながら――次なる旅への、抑えきれない期待に、静かに燃え始めていた。




