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第19話:水彩の朝焼けとチーズの雑炊。次なる舞台は星降る港町

 夜明けの風鳴りの渓谷は、どこまでも澄み切った冷気と、新しい一日の始まりを告げる静寂に包まれていた。

 東の空は、深い夜の藍色から柔らかな桃色、そして透き通るような薄紅色へと、まるで濡れた絵筆でカンバスに色を落としたように、美しく滲んで混ざり合っている。

 谷底から吹き上げる冷たい風が巨大な風車をゆっくりと回し、ゴォン、ゴォンという重厚で穏やかな木組みの音を響かせていた。

「……ん、ふぁぁ……」

 小高い丘の上の木陰。

 エレインは長いまつ毛をゆっくりと揺らして目を覚ました。

 一晩中、身体を冷気から守ってくれていたのは、ギルの巨大でふかふかな銀色の尾だ。

 その極上の毛並みに頬をすり寄せると、まだ眠っているのか、スゥスゥと規則正しい寝息を立てながら、無意識に尾をキュッとエレインの身体に巻き付けてくれた。

「ふふっ。おはよう、ギル。とっても温かかったわ」

 そっとギルの尾から抜け出し、頭上を見上げる。

 木漏れ日の精霊ソラが、すでに起きていた。

 エレインのまぶたに直接朝日が当たらないよう、葉の影を巧みに操りながら、淡い金色の光の粒をキラキラと降らせて「おはよう」の挨拶をしてくれている。

「おはよう、ソラ。すっごく綺麗な朝焼けね」

『……オハヨウ、エレイン。……アサノヒカリ、キモチイイ……』

 ソラの空間は、朝の刺すような冷気を和らげ、春の陽だまりのような温度を保ってくれていた。

 エレインは大きく伸びをして、新鮮な渓谷の空気を胸いっぱいに吸い込む。

 王城での朝は、常に焦燥感と共にあった。

 冷たい水で顔を洗い、固いパンを胃に流し込み、インクの匂いが充満する地下室へ急がなければならなかった。

 しかし今は、急ぐ理由など何一つない。

 この美しい朝焼けを大好きな家族たちと眺め、美味しい朝食の準備をする。ただそれだけの時間が待っている。


  コトッ。ふつ、ふつふつふつ……。

 少し離れた岩場で、ポポが鉄鍋の下で元気よく炎を揺らしていた。

 トランクの上ではラムが、ぷるぷると心地よさそうに揺れている。

「おはよう、ポポ、ラム。朝ごはんの準備、手伝ってくれる?」

『ウンッ! オハヨウ、エレイン! オナカスイタネ!』

『……フニャァン……オイシイモノ、タベタイ……』

 エレインはトランクを開け、昨日の残りを取り出した。

 少し硬くなった田舎パン、熟成肉の端切れ、三年熟成の山羊チーズの欠片だ。

「今日は肌寒いから、身体の芯から温まるものがいいわね」

 ナイフで田舎パンを一口大に切り分け、鍋に注いだ清らかな水の中へ放り込んだ。

 細かく刻んだ熟成肉の端切れを加え、ポポの絶妙な火加減でゆっくりと温めていく。

 コトコト、コトコト。

 熟成肉から濃厚な旨味のスープがじゅわりと溶け出し、鍋の中のお湯が美しい琥珀色へと染まっていく。

 グツグツと乱暴に煮立てることは決してない。ポポの優しい炎は、硬かったパンの芯までスープの旨味をじっくりと浸透させ、ふんわりと柔らかく戻していく。

「よし、最後にこれを……」

 砕いた山羊チーズを鍋の中にたっぷりと振り入れた。

 ――とろぉり……。

 熱いスープに触れた瞬間、チーズがゆっくりとその形を崩し、乳の芳醇な香りを爆発させる。

 熟成肉の野性的な旨味と、チーズの濃厚なコクと、パンの麦の香ばしさが混ざり合い、朝の冷たい空気の中に暴力的なまでのシズル感が立ち昇った。

『オォォッ! スッゴク、イイニオイ!』

「匂いにつられてギルも起きてきたわね」

 のっそりと近づいてきたギルは威厳を取り繕っているが、サファイアの瞳は完全に鍋に釘付けで、口の端からキラリとよだれが光っていた。

「ふふっ、ちょうど出来上がったところよ。特製、熟成肉とチーズのパン雑炊!」


  木彫りの器にたっぷりとよそい、みんなの前に並べる。

「フーフー……いただきます!」

 木のスプーンで掬い上げると、とろとろに溶けたチーズがどこまでも糸を引く。

 少し大きめに口を開けてパクリと頬張った。

「――んんっ……!!」

 目を見開き、熱い吐息が漏れた。

 スープをたっぷりと吸い込んだパンが、淡雪のようにほろりと舌の上で崩れる。

 そこから溢れ出したのは、熟成肉のガツンとくる強烈な旨味と、山羊チーズの奥深い塩気とコクだ。

 それがポポの優しい温度によって完璧に調和し、寝起きの冷えた胃の腑へと、じんわりと温かく滑り落ちていく。

「はぁぁ……美味しい……。身体の奥から、ポカポカしてくるわ……っ」

 両手で頬を包み込み、とろんとした目で微笑む。

 昨夜のガッツリとした炙り肉も最高だった。

 しかし、朝の肌寒い空気の中で食べるこの温かく優しい味わいは、また全く別の感動がある。

 胃の腑を温めながら、同時に心までじんわりと解きほぐしてくれるような、癒やしの力だ。

『ガツッ! ハフハフッ!! 美味いぞエレイン! この黄色いドロドロは、何度食っても最高だな!』

 ギルが顔中をチーズだらけにしながら凄まじい勢いで器を舐め回し、ポポが「オカワリ!オカワリ!」と飛び跳ね、ラムが「フニャァ……」と幸せそうに気泡を弾かせる。

 ソラが作ってくれた木漏れ日の下で、家族全員で囲む温かい朝の食卓。

 王城の地下室で、固いパンを一人でかじっていたエレインには、永遠に手の届かないものだと思っていた。

 それが今、こんなにも自然に、当たり前のものとしてそこにある。

 エレインはスプーンを置き、精霊たちの顔を一人ずつ見渡した。

 チーズだらけのギル。喜びで飛び回るポポ。とろけるラム。柔らかく光るソラ。

(……ありがとう、みんな)

 声には出さなかった。

 でも、きっと伝わっていると思った。


  すっかりお腹を満たし、食後のお湯でほっと一息ついた後。

 エレインは、初代翻訳官の古ぼけた手帳を膝の上に開いた。

「ええと……静寂の森、琥珀の湖、風鳴りの渓谷……。次はいよいよ、手帳に記されている『最後の目的地』ね」

 指先が日に焼けた羊皮紙のページをなぞる。

 緻密な線画でスケッチされていたのは、見渡す限りの広大な海と、水面に幾千もの星々を反射して輝く、美しい港町の風景だった。

「『星降る港町』」

 エレインがその名前を口にすると、精霊たちが一斉に顔を上げた。

「手帳にはこう書いてあるわ。『夜になれば、海面に満天の星空が映り込み、まるで宇宙の中を歩いているかのような錯覚に陥る絶景の港』……。そして、ここから、まだ見ぬ別の大陸へと向かう巨大な客船が出ているそうよ」

『ベツノタイリク! ウミ!』

『……フニャァ。……ウミ、ショッパイオミズ、イッパイアルトコロ……』

 ポポがワクワクと炎を揺らし、ラムが物知り顔でぷるぷると震える。

「それに、海には私たちの知らない美味しいお魚や、新鮮な貝がたくさんあるはずよ。港町の屋台で、獲れたての海鮮シチューを食べるなんて、最高じゃない?」

『カイセンシチュー!!』

『……ほう。肉の次は魚か。俺の気高き舌を満足させられる代物かどうか、確かめに行かなくてはなるまいな』

 ギルが三本の尾をゆったりと揺らしながら、いかにも「仕方なく付き合ってやる」という態度で立ち上がった。

 しかしその瞳が、期待でキラキラと輝いているのをエレインは見逃さなかった。

「ふふっ、決まりね。次なる目的地は、星降る港町!」

 手帳をパタンと閉じ、トランクの留め金をカチンと鳴らす。

 ラムが定位置のトランクの上にペタリと張り付き、ポポがエレインの肩に乗る。

『……エレイン。ワタシモ、イッショニ、イク……。ドコニデモ、ツイテイク……』

 ソラの淡い輪郭がエレインの足元に伸びる影の中にスゥッと溶け込んだ。

 これからは、エレインの影に潜みながら、いつでも彼女の頭上に最高の木漏れ日を作り出してくれるのだろう。

「ええ、もちろんよソラ。私たち、ずっと一緒の家族だもの」


  エレインは大きく両手を広げ、渓谷の乾いた風を胸いっぱいに吸い込んだ。

 王城での息苦しい日々は、完全に過去のものとなった。

 理不尽に怒鳴る人間も、重圧を押し付けてくる書類も、締め付けてくるコルセットも、もうどこにもない。

 ただ、彼女を愛し、彼女が愛する、最高の家族たちだけがいる。

「さあ、出発よ! 潮風と、美味しい海の幸が待ってるわ!」

 太陽が高く昇り、風鳴りの渓谷を明るく照らし出している。

 风車がゴォンと鳴り、草が風に揺れ、小鳥たちのさえずりが澄んだ空に溶けていく。

 氷の令嬢と呼ばれた少女は、これまでの人生で最も晴れやかな笑顔を咲かせながら、次なる絶景へと続く道を歩き始めた。

 背後に残すのは、かつての王城でも、孤独な地下室でもない。

 大好きな家族と共に過ごした、温かくて美しい記憶だけだ。

 ――その記憶は、これからも、旅の荷物の中でずっと、彼女の背中を押し続けるだろう。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。


次回お楽しみに。

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