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第18話:崩壊する王都。腐臭と絶望、そして狂気の追跡指令

 風鳴りの渓谷を吹き抜ける風が、昼間の陽気を帯びたものから、ひんやりとした夕暮れのそれへと変わっていく。

 西の空に沈みかけた太陽が、空を茜色と深い紫のグラデーションに染め上げ、ソラが作り出していた木漏れ日の影をゆっくりと長く引き伸ばしていた。

「……ん、んぅ……」

 エレインは、心地よい微睡みの中からゆっくりと意識を浮上させた。

 身体のどこにも痛みも強張りもない。

 背中を預けていたギルの毛並みは、夕方の冷え込みに合わせてほんの少しだけ温度を上げており、極上の羽毛布団のようにエレインを包み込んでいた。

『……起きたか、ニンゲン。随分と幸せそうな顔で寝ていたな』

「ふふっ、おはよう……こんばんは、かな。とってもよく眠れたわ。ありがとう、ギル」

 首元にすりすりすると、ギルは満更でもなさそうに喉の奥でグルグルと音を鳴らした。

 足元ではポポが夜の準備の焚き火を灯し、ラムが「フニャァ……」ととろけている。

 頭上ではソラが夕陽の角度に合わせて光と影を微調整し、最後までエレインの目を守ってくれていた。

 深呼吸をすると、渓谷の乾いた風と、ほんのりと残る昼の香ばしい匂いが胸を満たす。

 焦燥感も、恐怖もない。

 ただ完璧に穏やかな夕暮れが、そこにはあった。






  一方で、その頃。

 王都の空は、茜色など微塵も存在しない、どす黒く濁った鉛色に淀んでいた。

「……くそっ。……なんだ、この水は……泥水ではないかッ!」

 ガシャンッ!!

 王城の執務室。

 レオンハルトは銀のゴブレットを壁に向かって投げつけた。

 褐色の液体が壁にぶちまけられ、鉄の錆びたような生臭い匂いが部屋中に充満する。

 風の精霊が去り、空気の循環が完全に止まった執務室は、密閉された地下牢のようだった。

 入れない風呂、汗と皮脂の匂い、腐敗した食糧の悪臭が混ざり合い、息をするだけで肺が汚れそうな瘴気が漂っている。

 レオンハルトの姿は、かつての華やかさなど見る影もなかった。

 金糸雀のように美しかった金髪は、洗う水がないために脂でベタベタに張り付き、不潔な束となって額に垂れ下がっている。

 目の下には真っ黒な隈が刻まれ、頬はげっそりとこけ、血走った目は絶えず神経質に動いていた。

「……痒い。……痒いッ!!」

 彼は血の滲むような勢いで、自らの腕と首すじを掻きむしった。

 浄化の精霊に見捨てられた最高級のシルクの服は、何日分もの汗と汚れでガチガチに硬くなり、まるでヤスリのように彼の肌を削り取っていた。

 動くたびに肌が擦れ、赤く腫れ上がり、耐え難い不快感が精神をゴリゴリと削っていく。

 食事は腐り、水は濁り、灯りは消え、服がカビる。

 そして今日もまた、何か新しい最悪の報告が来るのだろう。

 彼は、そのことをもう知っていた。



  バンッ!!


「レ、レオンハルト殿下ぁっ!」

 廊下から悲鳴のような声が響いた。

 桃色のドレスのミアが、涙目で走り込んでくる。

 過剰な薔薇の香水が部屋の悪臭と混ざり合い、レオンハルトは強烈な吐き気を催した。

「殿下、怖いですぅ! でも大丈夫です、私の『光の祈り』で、すぐに結界の精霊さんたちを呼び戻して――」

「黙れッッッ!!!」

 鼓膜を劈くような怒号が執務室を震わせた。

 ミアはビクッと肩を跳ねさせ、硬直する。

「お前のその耳障りな祈りのせいで、事態がどれだけ悪化しているか分からんのか! お前が祈るたびに、魔導灯は砕け、厨房の火は爆発し、水は腐るのだ! お前の力など、ただの騒音に過ぎんッ!!」

「え……? あ、あ……殿下……?」

 ミアはポロポロと涙をこぼした。

 しかし今のレオンハルトに、彼女を慰める余裕など一ミリも残されていなかった。


  水が出ない。灯りが消える。食糧が腐る。服がカビる。

 そしてついに、結界が消え、命の安全すらも脅かされた。

 この数週間で起きたすべての崩壊のタイミングが、ただ一つの出来事と完璧に重なっていた。

(……エレイン……ッ!)

 レオンハルトの脳裏に、あの薄暗い地下室の光景がフラッシュバックする。

 三日三晩一睡もせず書類に向かっていた、青白い横顔。

 コルセットに締め付けられながら、それでも黙々とペンを走らせていた、小柄な後ろ姿。

 自分の追放宣告を受けて、なぜか解放されたように微笑んで去っていった、あの足取り。

 そして、王都全体が、その背中を見送るように崩れ始めたのだ。

 ようやく、彼は完全に理解した。

 この国の豊かで快適な生活は、聖女の祈りでも、王族の威光でもなく、ただ一人の精霊翻訳官の血の滲むような努力によってのみ、辛うじて成り立っていた砂上の楼閣だったという事実を。

 しかし、彼の歪んだ自尊心は、そこで「後悔」や「謝罪」に至ることを決して許さなかった。

(あの女……自分が追放された腹いせに、わざと精霊どもをそそのかしてストライキを起こさせたのだ! この私に頭を下げさせるために……ッ!)

 あまりにも自分勝手な責任転嫁。

 しかし、限界まで追い詰められた彼の精神は、その妄想にしがみつくことしかできなかった。

 彼は知らない。

 エレインが王城を去った後も、誰かに精霊たちを扇動する理由も時間も、そして何より「意志」がないことを。

 彼女は今頃、とっくに王都のことなど忘れて、自由を謳歌しているはずだということを。

「……騎士団長」

 レオンハルトは血走った目で騎士団長を睨みつけた。

「すぐに近衛騎士団の精鋭をすべて集めよ。我々は直ちに王都を出る!」

「は……!? 王都を出る!? 殿下、お待ちください、それでは下町で魔物に襲われている民草たちはどうなるのですかッ!」

「下民どもなど放っておけ! それよりも、すべての元凶である『エレイン・エルシュタット』を捕縛することが先決だ!」

「エ、エレイン様を……?」

「そうだ! あの魔女が、精霊どもを操り国を滅ぼそうとしているのだ! 這ってでも見つけ出し、首に縄をつけてでも王城へ引きずり戻せ! あの女さえ戻れば、結界も水もすべて元通りになるのだ!!」

「しかし殿下、騎士たちはまともな食事もとれず、疲労の極地に――」

「逆らう気かッ!! 私を誰だと思っている、次期国王たるレオンハルトだぞ!! 行けッ、今すぐ馬を出せェェェッ!!」

 狂気に満ちた怒声に、騎士団長は絶望に顔を歪めながら、重い足取りで部屋を後にした。


  王都の空に、魔物の侵入を知らせる半鐘の音が鳴り響いている。

 一度、また一度。止まることなく、絶え間なく。

 その音は、かつて静かで安全だったこの街が、取り返しのつかない場所へと変わりつつあることの証だった。

 民の悲鳴を背に受けながら、まともな食事も睡眠もとれていないボロボロの騎士団が、身勝手な主君の命令によって王都を出発していく。

 彼らが向かうのは西の方角。

 しかし彼らは知らない。

 自分たちが追う女が、今まさにどこで何をしているかを。

 風鳴りの渓谷の丘の上で。

 木漏れ日に照らされながら、大好きな家族たちと共に、穏やかな夕暮れを眺めていることを。

 そして何より――彼らが追えば追うほど、精霊たちの怒りはさらに深まり、王都の崩壊は加速していくだけだということを。

 半鐘の音が、夜の王都に虚しく響き続けていた。

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