幕間:愚王の絶望と、北の公爵の優雅なティータイム
王都から遠く離れた、北の辺境。
一年を通して冷涼な風が吹き抜けるエルシュタット公爵領は、今、この国で最も美しく、そして最も豊かな場所として確かな輝きを放っていた。
領都を囲む堅牢な城壁の内側では、澄み切った青空の下、領民たちの穏やかな笑い声が響き渡っている。
街のあちこちを流れる水路には、透き通るような清らかな水が絶え間なく溢れ、陽光を反射してきらきらと光の粒を跳ね返していた。
広場の魔導炉からは、上質な薪が燃える心地よい香りと共に、温かい空気が街全体を包み込むように循環している。
王都のインフラが完全に崩壊し、人々が泥水をすすり、寒さと悪臭に震えている地獄絵図とは、まるで別世界だった。
なぜなら、このエルシュタット公爵領では、建国以来の古い教えである「精霊への感謝と敬意」が、領主の徹底した教育によって領民の隅々にまで行き届いていたからである。
彼らは精霊を「便利な道具」とは決して呼ばない。共に生きる隣人として接し、常に感謝の祈りと適正な魔力結晶を捧げていた。
ゆえに、王都を見捨てた精霊たちの一部すらもがこの居心地の良い北の領地に集まり、かつてないほどの豊穣と恩恵をもたらしていたのだ。
そしてそれは偶然ではない。
エルシュタット家の「精霊との向き合い方」は、代々の領主が命をかけて守り続けてきた家訓だった。
エレインの翻訳官としての才能と慈愛も、そのような土壌から生まれたものだったのである。
エルシュタット公爵邸の、陽当たりの良い豪奢なサンルーム。
そこでは今、極上の多幸感に満ちた、優雅なティータイムが執り行われていた。
「……ふむ。今日の紅茶は、一段と香りが素晴らしいな」
エルシュタット公爵――エレインの父親であるアルベルトは、純白の磁器を静かに傾け、深く息を吸い込んだ。
カップに注がれた琥珀色の液体からは、ベルガモットの爽やかで気品のある香りがふわりと立ち昇っている。
暖炉に住まう火の精霊が、お茶を淹れるのに最も適した「完璧な温度」で湯を沸かしてくれたおかげで、茶葉の奥深い渋みと旨味が限界まで引き出されていた。
一口含めば、鼻腔を抜ける華やかな香りと、舌の上に広がる芳醇なコクが、日々の執務の疲れを優しく解きほぐしていく。
「ええ、本当に。水の精霊たちが、いつもよりさらに澄んだお水を運んできてくれたおかげですわ」
向かいの席で微笑むのは、公爵夫人のエルノアだ。
美しく磨き上げられた銀の三段スタンドには、厨房の精霊たちと料理長が腕によりをかけた、芸術品のようなお茶菓子が並んでいる。
アルベルトは、焼き立てのスコーンを一つ手に取った。
まだほんのりと温かいスコーンを両手でふたつに割ると、サクッという軽やかな音と共に、たっぷりと練り込まれたバターの甘い匂いが広がる。
そこに、濃厚な黄金色のクロテッドクリームと、果肉がゴロゴロと残った真っ赤な苺のジャムを、こぼれ落ちそうなほどたっぷりと乗せる。
「いただきます」
大きく口を開けて頬張ると、表面のサクサクとした食感の直後、中のふんわりとした生地が舌の上でほどけた。
甘さ控えめの生地に、クロテッドクリームの暴力的なまでの濃厚なミルクのコクと、苺ジャムの鮮烈な酸味が完璧に絡み合い、噛むほどに多幸感が押し寄せてくる。
その甘い余韻を、完璧な温度の紅茶でゆっくりと胃の腑へと流し込む。
「……美味い。平和とは、これほどまでに美味なものだったか」
思わず漏れた言葉の裏に、アルベルトは長年抱えてきた痛みが含まれていることを、妻だけが知っていた。
娘を失っていた間、彼はこのスコーンを一度も美味しいと思えなかった。
その時だった。
――バンッ!!!
サンルームの重厚な扉が、無作法に乱暴に開け放たれた。
微かに眉をひそめて視線を向けると、公爵家の冷静な老執事に両脇を抱えられた、一人のボロボロの男の姿があった。
「申し訳ございません、旦那様。王都より『大至急の使者』と名乗る者が、強引に押し入ってまいりまして……」
「離せッ! 私は国王陛下よりの特使だぞ!! 公爵閣下、どうか、どうかお助けをッ!!」
男は執事の手を振り払い、美しい絨毯の上に無様に這いつくばった。
かつて王都の人間が誇っていた華やかさなど微塵もない。
立派だったであろう軍服は泥と魔物の返り血でどす黒く汚れ、数週間風呂に入っていないであろう体臭と生乾きのカビの匂いが、サンルームの甘い紅茶の香りを暴力的に叩き潰す。
エルノアが静かにハンカチで鼻を押さえた。
アルベルトはナプキンで口元を拭い、冷ややかな視線で男を見下ろした。
「……王都の特使殿が、我が辺境にどのようなご用件かな。そのような悪臭を放ちながら、私の妻のティータイムを邪魔するだけの理由があるのだろうな?」
「あ、悪臭などと言っている場合ではございませんッ! 王都は……王都は今、地獄でございます!!」
特使の男は、血走った目で床を掻きむしりながら、絶望に満ちた声で叫んだ。
「すべての精霊が結界を放棄し、市街地にまで低級魔物が溢れ返っております! 水は腐り、火は爆発し、食糧はすべてカビとウジの山……っ! レ、レオンハルト殿下も、港町へ向かわれたまま行方知れずとなり、騎士団は完全に崩壊いたしましたッ!!」
それは、エルシュタット公爵家の情報網ですでに把握していた事実だった。
自業自得の極致。精霊に依存しながら彼らを虐げ続けた愚か者たちの末路である。
アルベルトは表情を変えなかった。
「公爵閣下! このエルシュタット領には、まだ多数の精霊が留まっていると聞き及びました! どうか我が軍に精霊たちを貸与していただき、王都の魔物を討伐してください! そして……っ!」
男は、すがるような目でアルベルトを見上げた。
「そして、貴方様の愛娘である『エレイン様』を、至急捜索し、王都へお連れください! あの御方が戻り、精霊どもを翻訳し、再び契約を結び直してさえくれれば、この地獄は終わるのですッ!!」
特使の口から『エレイン』という名前が出た瞬間。
サンルームの空気が、絶対零度のごとく凍りついた。
アルベルトの目から、先ほどまでの穏やかな光が完全に消え失せた。
代わりに放たれたのは、北の猛禽類のような、鋭く冷酷な殺意だった。
「……我が娘を、再びあの薄暗い地下室へ連れ戻せと?」
その声は静かだった。
しかし、静かだからこそ、本物の怒りが含まれていることが、部屋にいる全員に伝わった。
「都合が悪くなったから、もう一度あの『氷の檻』に戻って、お前たちのために死ぬまで働けと言うのか?」
「そ、それは……っ! しかし、彼女はレオンハルト殿下の婚約者であり、次期王妃としての義務が――」
「黙れッッ!!!」
アルベルトの怒号が、ガラス張りのサンルームをビリビリと震わせた。
特使の男はビクッと肩を跳ねさせ、恐怖に顔を引きつらせる。
「婚約者だと? ふざけるな。あれは『保護』という名目で、前国王が我が娘から精霊翻訳官の力を搾取するためだけに仕組んだ、人質という名の軟禁だろうがッ!!」
それが、エルシュタット公爵家と王家との間に隠された真実だった。
数百年ぶりに現れた、精霊の言葉を完璧に理解する天才。
その力が他国や他の貴族に渡ることを恐れた前国王は、王族の威信を守るためだけに、当時まだ幼かったエレインを「第一王子の婚約者」という鎖で縛り付け、王宮の地下室へと幽閉したのだ。
アルベルトがどれほど反対しようとも、王命には逆らえなかった。
娘が日の当たらない部屋で、感情を殺して「氷の令嬢」と呼ばれるようになるまで、血を吐くような努力で国のインフラを支え続けていたことを、父親として誰よりも知っていた。
何もできない己の無力さを、毎夜のように呪い、涙を流した。
いっそ王命に逆らって娘を連れ戻し、一族もろとも滅びてやろうかと、何度思ったかわからない。
しかし、そうすれば娘を危険に晒す。
アルベルトは歯を食いしばり、ただ機会を待ち続けた。
「何も知らない愚かな王子が、我が娘を『不気味だ』と罵り、追放を言い渡したあの日……。私が、どれほど歓喜したか、お前たちに分かるか?」
「か、歓喜……?」
「そうだ。王家が自ら、我が娘を縛り付けていた鎖を断ち切ってくれたのだからな!!」
アルベルトは、口元に凶悪なほどの笑みを浮かべた。
レオンハルトが追放を言い渡した直後。
密かに王城の裏口へ手を回したアルベルトは、ひっそりと城を出ようとしていたエレインの元へ、公爵家の影の者を走らせた。
そして、旅の資金と必要な道具を詰め込んだ頑丈なトランクと、公爵家の宝物庫に何十年も隠し持っていた『初代翻訳官の手帳』を、愛する娘への餞別としてこっそりと渡したのである。
同封した手紙にはこう書いた。
『絶対に、実家には帰ってくるな。戻れば、またあの愚か者たちが、お前を連れ戻しに来る。……身分を捨て、自由に、世界で一番美味しいものを食べて、美しい景色を見てきなさい。パパとママは、お前の幸せだけを祈っている』
その手紙を読んだエレインが、どれほど美しい涙を流し、笑顔でトランクを受け取って旅立っていったか。
それを影の者から報告された夜、アルベルトと妻のエルノアは、一晩中、歓喜の祝杯を上げ続けたのだ。
あの日から、アルベルトはずっとエレインの旅を影で追っていた。
静寂の森で幻獣の精霊と出会ったこと。琥珀の湖で発酵の精霊を目覚めさせたこと。風鳴りの渓谷で木漏れ日の精霊と友になったこと。そして、星降る港町で大陸を渡る船に乗り込んだこと。
報告が届くたびに、アルベルトとエルノアは抱き合って泣いた。
これが、我が娘の本来の姿だと。
ようやく、本物の笑顔を取り戻してくれたと。
「公爵閣下! し、しかし、このままでは本当に国が滅びますッ! 貴方様もこの国の貴族であるならば――」
「国が滅びる? ……それがどうした」
アルベルトは、冷酷な目で特使を一瞥した。
「我が領地は、結界がなくとも精霊たちとの絆で守られている。水も、火も、食糧も、すべて自給自足で完璧に回っているのだ。……精霊を虐げ、身勝手な振る舞いで自滅していくお前たちに手を差し伸べる理由など、我々からすればまるで存在しない」
「そ、そんな……っ! 見捨てるというのですかッ!?」
「精霊たちは手を差し伸べる相手を選ぶ。それだけのことだ。……セバス。このひどく臭うゴミを、国境の外へつまみ出せ。二度と我が領土の土を踏ませるな」
「はっ。承知いたしました」
屈強な執事たちに両脇を抱えられ、特使の男は絶望の悲鳴を上げながらサンルームから引きずり出されていった。
「お、お待ちをッ! 公爵閣下ァァァッ!! 助けてくれェェェッ!!」
無様な叫び声が、次第に遠ざかり、やがて完全に消え去る。
静寂が戻ったサンルームで、アルベルトはゆっくりと椅子に座り直した。
冷めかけた紅茶を一口飲み、ふう、と深く息を吐き出す。
「……まったく。せっかくの美味しいスコーンが、台無しになってしまった」
「ふふっ。でも、あなた。……これで本当に、あの子を縛るものは何一つなくなりましたわね」
エルノアが、優しい笑顔でアルベルトの空になったカップに、新しい温かい紅茶を注ぎ足した。
「ああ。国は滅びるだろうが、自業自得だ。……今頃、あの子はどこで何をしているだろうな」
「きっと、手帳に記された素晴らしい場所で、美味しいものをたくさん食べて、大好きな精霊たちに囲まれて……最高のお昼寝でもしているのでしょうね」
アルベルトは、妻の言葉に、思わず口元を緩めた。
最高のお昼寝。
それを想像するだけで、胸の奥が温かくなる。
あの子は、子供の頃から昼寝が好きだった。
縁側に転がって、猫のようにうとうとしていたあの笑顔が、いつしか「氷の令嬢」と呼ばれる無表情の下に隠れてしまった。
それが今、取り戻されているのだ。
「……ああ。そうであってほしい。エレイン、私の愛しい娘よ。どうか、この世界を心ゆくまで味わい尽くしてくれ」
窓の外を見上げれば、どこまでも澄み切った北の青空が広がっている。
その空は、はるか遠く、エレインが旅立った星降る海へと、確実に繋がっていた。
アルベルトは再び極上のスコーンにたっぷりとクロテッドクリームを乗せ、今度こそ、心から美味しいと思いながら、優雅な午後のティータイムを再開するのだった。
娘の絶対的な自由と幸福を、北の空の彼方へ向けて、静かに、確かに祈りながら。




