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第16話:風鳴りの渓谷への到着。光と影の精霊との出会い

6月もよろしくお願いします

 琥珀の湖に別れを告げ、西へ向かって数日。

 なだらかな丘陵地帯は、いつしか切り立った険しい岩山へと姿を変えていた。

 空を遮る森の天蓋はなく、見上げれば吸い込まれそうなほどに高い秋晴れの空がどこまでも広がっている。

 ゴォォォォ……ッ。

 巨大な岩と岩の隙間を縫うように、常に一定の強い風が吹き抜けていく。

 湿気を含まない、カラリと乾いた心地よい風だ。

 その風に乗って、巨大な木製の羽根が空気を切る重厚な音が、遠くから規則正しく響いてくる。

「わあ……すごい! あんなに大きな風車が!」

 エレインは手を目の上にかざし、歓声を上げた。

 切り立った渓谷の斜面にへばりつくように広がる、石造りの広大な街並み。

 そのあちこちに、風の力を利用するための巨大な風車がそびえ立っている。

 手帳に記されていた次なる目的地、『風鳴りの渓谷』の街だ。

『オォォ! カゼガ、イッパイフイテルネ!』

『……俺の美しい毛並みが乱れるではないか。だが……』

 ポポが風に煽られまいとエレインの肩にしがみつき、ギルが不満げに鼻を鳴らす。

 しかしそのサファイアの瞳は、街から漂ってくる「ある匂い」に釘付けになっていた。

 トランクの横に張り付いている琥珀色のスライム、ラムもぷるぷると身体を震わせて反応している。

「ふふっ。ギルもラムも、お腹が空いたのね」

 エレインが深呼吸をすると、乾いた風に乗って、暴力的なまでの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。

 樫の木を燃やしたスモーキーな煙の香りと、熟成された獣肉の濃厚な匂い。そして、発酵した乳の芳醇な香り。

 この渓谷の乾燥した風が、肉やチーズから余分な水分を抜き、旨味を極限まで凝縮させているのだ。

「さあ、行きましょう! 今日は美味しいお肉とチーズをたっぷり買い込んで、最高のピクニックにするわよ!」

 精霊たちが一斉に歓喜の声を上げた。


  街の中は、活気に満ち溢れていた。

 石畳の路地の両脇には無数の露店が立ち並び、威勢のいい商人たちの声が飛び交っている。

 店先に吊るされているのは、大人の足ほどもある巨大な骨付きの熟成肉(生ハム)や、香草を練り込んだスパイシーな腸詰め。

 そして、黄金色に輝く巨大な車輪のようなチーズの山だ。

 通り過ぎるだけで、食欲を直接揺さぶるような香りが次々と押し寄せてくる。

「お嬢ちゃん、見ない顔だね! うちの『三年熟成の山羊チーズ』、一口味見していきな!」

「あ、ありがとうございます!」

 恰幅の良いチーズ屋の主人が、小刀で削り取った薄いチーズの欠片を差し出してくれた。

 そっと口に含む。

 まずはシャリッとしたアミノ酸の結晶の歯ごたえ。

 次の瞬間、体温で溶け出したチーズから、ナッツのような香ばしさと途方もなく濃厚な乳のコクが津波のように押し寄せてきた。

「んんっ……! すっごく味が濃くて、美味しい……っ!」

「はははっ、だろう! この渓谷の風が、余分な水分を飛ばして旨味だけを残してくれるんだ。……それにしても、お嬢ちゃんの後ろの大きなワンちゃん(狐)も、よだれ垂らしてるぜ」

『……ワ、ワンちゃんだと!? 俺は気高き幻獣だぞ! ……だが、その黄色い塊は悪くない匂いだ。ひと塊、いや、三塊ほど買え、ニンゲン』

 ギルが威嚇するふりをしながらも、尻尾を千切れんばかりに振ってエレインの背中を押す。

 エレインはクスクスと笑いながら、味見をしたチーズと、赤身の美しい熟成肉をたっぷりと買い込んだ。

 それだけでは終わらなかった。

 腸詰めの露店では、ひと切れの試食が「もう一本」「もう一本」と積み重なり、ドライフルーツの店では、風で凝縮された甘みのひと粒が舌の上でとろけてラムがぷるぷると震え上がり、燻製ナッツの香りにポポが炎を揺らして歓喜した。

 買い物を終える頃には、トランクはとっくにいっぱいで、エレインは両手に溢れんばかりの紙袋を提げていた。

「……買いすぎたかしら」

『モット、カエバヨカッタ』

 ラムが至って真剣な顔で言い、エレインは吹き出した。


  街の喧騒から少し離れ、渓谷を見下ろす高台の公園へとやってきた。

 太い枝葉を広げた巨木が何本も生い茂り、乾いた風を心地よく遮ってくれている。

 ふかふかの芝生が広がり、絶好のピクニック・スポットだ。

「ふうっ、重かった。でも、これで最高のランチが……ん?」

 木陰にトランクを下ろそうとした時。

 ふと、足元の影の形が「不自然」であることに気がついた。

 風で葉が揺れているわけでもないのに、木陰と日向の境界線が、チカチカと落ち着きなく瞬いている。

 目を凝らすと、その光と影の狭間の空間に、ぼんやりとした人型の輪郭が浮かび上がっているのが見えた。

『……コッチニ、コナイデ……』

 微かな古代精霊語の響き。

 怯えと諦めに満ちた、今にも消え入りそうな声だった。

「え……?」

 エレインがゆっくりと近づくと、その輪郭はビクッと震え、影の奥へと逃げ込もうとした。

『……ミナイデ。ワタシハ、ヒカリデモ、ヤミデモナイ。チュウトハンパナ、ガラクタダカラ……』


  声の主は、光と影の境界線そのものだった。

 純粋な光のように周囲を眩しく照らすこともできず、かといって、闇のように全てを覆い隠すこともできない。

 淡い金色と、柔らかな薄墨色が混ざり合ったような、ひどく曖昧な色彩を持った精霊だった。

「――(驚かせてごめんなさい。私はエレイン。貴方はどうして、こんなところで隠れているの?)」

 エレインが古代精霊語を紡ぐと、精霊はハッと顔を上げ、信じられないというように輪郭を揺らした。

『……コトバガ、ワカルノ……?』

「――(ええ。貴方は、光の精霊? それとも、闇の精霊?)」

『……ドッチデモナイ』

 精霊の言葉には、深い悲しみがこびりついていた。

『……オウキュウノ、ヒカリノセイレイタチニハ「クラクテ、ウスマル」トイワレテ、オイダサレタ。ヤミノセイレイタチニハ「マブシクテ、メザワリダ」ト、イシヲナゲラレタ……。ドコニモ、イラナイ、イキモノナノダ……』

 その言葉を聞いて、エレインの胸がギュッと締め付けられた。

 白か黒か。役に立つか、立たないか。

 王城の人間たちが押し付けてくる、あまりにも乱暴で極端な物差し。

 ポポが「火力が弱い」と捨てられたように。ラムが「遅すぎる」と忘れ去られたように。この精霊もまた、「どっちつかずだ」という理由だけで、世界から居場所を奪われていたのだ。

 どこかで聞いたような言葉だと、エレインは思った。

 ――裏で小難しい書類を書くだけの、地味で不気味な女は不要だ。

 王城でレオンハルトが放った言葉は、この精霊たちが浴びせられてきた言葉と、本質的に何も変わらなかった。

「――(……そんなこと、絶対にないわ)」

 エレインは静かに、けれど確かな怒りと深い慈愛を込めて紡いだ。

 そして一切の躊躇なく、精霊が潜んでいる『光と影の狭間』へと足を踏み入れた。

『……ッ! ダメダヨ、ワタシノチカクニイタラ、オマエモ、チュウトハンパニナッテシマウ……!』

「――(いいえ。私は、ここが一番好きよ)」

 エレインは、頭上の葉の隙間から落ちてくる淡い光の粒を、手のひらでそっと受け止めた。

 純粋な光の精霊が放つような、肌をジリジリと焼く刺すような直射日光ではない。

 闇の精霊が作り出すような、前も見えないほど冷たく恐ろしい暗闇でもない。

 光の温かさと、影の涼しさが、完璧なバランスで混ざり合った空間。

「――(夏の強い日差しの下を歩いていて、大きな木の陰を見つけると、ホッとするでしょう? 眩しすぎず、暗すぎない。心地よい風が吹き抜けて、ずっとそこでまどろんでいたくなるような――最高の居場所)」

『……サイコウノ、イバショ……』

「――(ええ。貴方は、ガラクタなんかじゃない。光と影が優しく手を繋いだ、この世で一番優しい空間……『木漏れ日』の精霊よ)」

 エレインの透き通るような言葉が、曖昧だった精霊の輪郭に、確かな意味と命を吹き込んでいく。

「――(ねえ、私、貴方にぴったりの名前を知っているわ。『ソラ(空)』よ。太陽の光も、夜の闇も、全部優しく包み込んでくれる、大きなお空の名前)」

『……ソラ。……ワタシノ、ナマエ。……ワタシハ、コモレビ……』

 ソラの淡い金色と薄墨色の輪郭が、パァァッと輝いた。

 エレインの立っている場所だけが、絶妙な温度の、光の粒が舞い踊る極上の『木漏れ日』の空間へと変わっていく。

『……ネエ。ワタシノ、コモレビ……キモチイイ……?』

「とっても。世界で一番、心地よいわ」

 エレインが微笑みかけると、ソラはしばらく無言のままだった。

 その輪郭がゆらゆらと揺れ、震え、やがて一滴の光の粒がエレインの手のひらに落ちた。

 それはまるで、涙のようだった。

『……ワタシモ、イッショニ、イッテイイカ……。オマエノ、タビ……ワタシノ、コモレビデ、テラシテヤル……』

「もちろんよ。ソラが来てくれたら、どこでも最高の木漏れ日になるわね」

『……フン。悪くない温度だ。俺の氷の魔力を使わずとも、涼しく昼寝ができそうだな』

『エヘヘ! ソラ、ヨロシクネ! ワタシハ、ポポダヨ!』

『……フニャァン……ヨロシクゥ……』

 ギルが木陰の一番心地よい場所にドサリと横たわり、ポポとラムが新しい家族の元へと集まってくる。

 どっちつかずだと排斥された孤独な精霊は今、自分の曖昧さを「心地よさ」として全肯定してくれる、温かい家族を手に入れた。

 エレインは立ち上がり、ソラの木漏れ日の下で大きく伸びをした。

 頭上の葉がさわさわと揺れ、金と薄墨の光の粒が、エレインの薄藍色のワンピースをきらきらと照らしている。

「さあ、最高の場所も決まったし……いよいよ、買ってきたお肉とチーズの出番ね!」

 エレインはトランクを開け、腕まくりをした。

 ポポが鉄板を温め始め、ラムが食材を見て身体をぷるぷると震わせ、ギルが鼻をヒクヒクとさせる。

 ソラの木漏れ日が、その賑やかな家族の輪を、柔らかく、優しく照らしていた。

 王城を飛び出した氷の令嬢の旅は、仲間一人一人と共に、ゆっくりと、確かに豊かになっていく。

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