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第15話:新たなる美食の予感。湖との別れと、風鳴りの渓谷へ

 朝陽が、琥珀の湖を静かに照らし出していた。

 湖面から立ち昇る薄靄が、朝の光を乱反射してきらきらと輝いている。

 吹き抜ける風は冷たくも清らかで、湖畔の花々の甘い香りを乗せてエレインの旅装束を優しく揺らした。

「……本当に、綺麗な場所だったわね」

 荷物を詰め終えたトランクを足元に置き、エレインは名残惜しそうに湖を見渡した。

 ここで過ごした数日間は、彼女の人生で最も幸福な時間だった。

 時間をかけて発酵させたパンケーキの暴力的な柔らかさ。熟成肉と果実酒が織りなす、舌の上でとろける奇跡の味わい。

 そして何より、誰にも急かされることなく仲間たちと寄り添って微睡む「待つことの贅沢」。

 過酷な労働で氷のように強張っていた心は、この湖畔での時間を通して、すっかり解きほぐされていた。

『……フニャァン……エレイン、モウ、イッチャウノカ……?』

 背後から、間延びした寂しそうな声が聞こえた。

 ラムが水面すれすれを漂いながら、しゅんと身体を萎ませている。

「ええ。世界には、まだ私の知らない美味しいものや、美しい景色がたくさんあるはずだから。……ラム、貴方のおかげで、本当に素敵な時間を過ごせたわ。ありがとう」

 エレインが微笑みかけ、もっちりとした身体を両手で優しく包み込むと、ラムは心地よさそうに目を細め、頬にすりすりと顔を擦り付けてきた。

『……ワタシ、ズット、コノミズウミデ、ネテタ……。ニンゲンハ、ミンナ、ワタシヲオイテイッタカラ……』

 ラムの言葉には、長い孤独の記憶が滲んでいた。

 しかし次の瞬間、ラムは上目遣いで、おずおずと問いかけてきた。

『……エレイン。ワタシモ、イッショニ、イッテイイカ……?』

「え……?」

『……オマエノタベルモノ、モットモット、オイシクシテヤル……。ダカラ、ワタシモ、オマエノカゾクニ、シテホシイ……』

 その健気な言葉に、エレインの胸の奥がじんわりと温かくなった。

 断る理由など、どこにもない。

「もちろんよ! ラムが一緒に来てくれたら、百人力だわ。これからもよろしくね!」

『フニャァァッ! ヤッタァ……!』

 ラムは歓喜の声と共に、ポンッという軽い音を立てた。

 巨大なマシュマロのようだった姿が、キュッと圧縮されて、両手で包み込めるほどの小さなスライム状へと変化する。

 そしてふわりと宙を舞い、トランクの上にちょこんと乗っかって、琥珀色の飾りのようにペタリと張り付いた。

『エヘヘ! ラムモ、イッショダネ! コレカラモ、イッパイ、オイシイモノツクロウネ!』

『……フン。まあ、こいつの熟成した肉の味は認めてやらんこともない。足手まといにだけはなるなよ』

 ポポが火の粉を散らして歓迎し、ギルがツンデレな言葉を投げかける。

 最高の仲間が、また一人増えた。




  エレインは嬉しそうに頷くと、初代翻訳官の古ぼけた手帳をパラリと開いた。

「さて、次の目的地だけれど……琥珀の湖を西へ抜けた先に、『風鳴りの渓谷』という場所があるみたい」

 羊皮紙のページには、切り立った巨大な岩山と、その間を縫うように吹く風を利用した無数の大きな風車が、緻密な線画でスケッチされていた。

「一年中、乾燥した心地よい風が吹き抜けているらしくて……その風を利用した『極上の熟成肉』と、『濃厚なチーズ』作りが盛んな街なんだって」

『チーズ! オニク!』

『……ほう。それは聞き捨てならないな。チーズとやらも、俺の舌を満足させられるのだろうな』

 ポポとギルが分かりやすく身を乗り出してくる。

 エレインも想像しただけで、口の中にじゅわりと唾液が広がるのを感じた。

「風の力で旨味を凝縮させたお肉を、ポポの優しい炎でサッと炙って……。そこに、とろとろに溶かした濃厚なチーズをたっぷりと……」

『アブリニク! トロトロチーズ!』

『……おい、ニンゲン。急ぐぞ』

 先ほどまでのんびり構えていたギルが、誰よりも早く西の空へ向かって歩き出し、振り返ってエレインを急かしてくる。

 その現金な態度に、エレインはたまらず吹き出した。

「あははっ! 待ってよギル。のんびり行くのが、私たちの旅のルールでしょ?」

 澄み切った青空の下。

 ラムをトランクに乗せ、ポポを肩に止まらせ、ギルを隣に従えて、エレインは軽やかな足取りで歩き始めた。

 この道の先に、どんな美食と絶景が待っているのか。

 その期待だけで、足は羽が生えたように軽い。

 新しい家族と共に、エレインの旅は次の章へと続いていく。




  しかし同じ頃、王都の空は、泥水をぶちまけたようなどんよりとした鉛色に覆われていた。

 王城の執務室。

 レオンハルトは目の下に濃い土気色の隈を作りながら、苛立たしげに自らの腕を掻きむしっていた。

 城内は今、地獄の様相だった。

 水精霊が去り、飲み水すら濁り始めた。

 風精霊が去り、空気の循環が止まった城内には、生乾きの衣服の悪臭と腐敗した食糧の匂いがねっとりと滞留している。

 光精霊が去り、昼間でも薄暗い廊下は、呪われた廃城のようだった。

 だが、事態はそれだけにとどまらなかった。

 バンッ!!

 乱暴に執務室の扉が開かれ、泥と汗にまみれた近衛騎士が息を切らして転がり込んできた。

「で、殿下ぁっ!! 緊急事態でございますッ!!」

「騒々しい! なんだ、また厨房の鍋でも爆発したか!?」

「ち、違います! 外壁です! 王都を守護していた大地と結界の精霊たちが……持ち場を完全に放棄し、結界が消失いたしましたッ!!」

「……は?」

 レオンハルトの動きが、ピタリと止まった。

 王都の外壁には、凶悪な魔物の侵入を防ぐため、常に不可視の強力な結界が張られていた。

 それもまた、エレインが日夜、精霊たちの要望を聞き入れ、魔力結晶の配分を緻密に計算して維持していた「最も重要な契約」の一つだった。

「け、結界が消えただと……!? 馬鹿な、建国以来、一度たりとも……っ!」

「事実でございます! すでに王都の南区画……下町のはずれに、静寂の森から溢れ出した低級の魔物どもが侵入を開始しております! 『泥這い(マッド・クロウラー)』や『腐肉ネズミ』の群れが、民家を……っ!」

 騎士の言葉を聞いた瞬間、レオンハルトの顔からサッと血の気が引いた。

 低級とはいえ、魔物は魔物だ。

 結界という絶対的な安全圏に守られ、何百年も平和ボケしていた王都の住民たちにとって、それは純粋な恐怖の象徴だった。

「な、なぜだ……。なぜ精霊どもは、我々を見捨てる! 我々は彼らに住まう場所を与えてやっているというのにッ!!」

「殿下、恐れながら……精霊たちは、明確な『怒り』を放っております! 我々人間に……王族に対する、強烈な拒絶を……っ!」

「黙れッ!!」

 机を両手で叩き、血走った目で騎士を睨みつける。

「すぐに討伐隊を編成しろ! 騎士団を総動員して、魔物どもを根絶やしにするのだ!!」

「そ、それが……騎士たちも、まともな食事と睡眠がとれておらず、疲労の極致にありまして……」

 当然だった。

 腐りかけの食事を無理やり胃に流し込み、悪臭の中で眠り、水浴びすらできない日々が続いているのだ。

 屈強な騎士たちでさえ、まともに剣を振るう体力など残っていなかった。



 レオンハルトの脳裏に、エレインの顔が浮かんだ。

 あの薄暗い地下室で、三日三晩一睡もせず書き続けていた、青白い顔。

 インクで汚れた指先。目の下の濃い隈。

 コルセットに締め付けられながら、息をするのも苦しそうに、それでも黙々とペンを走らせていた、あの小柄な後ろ姿。

 その記憶が、今の惨状と重なった瞬間――レオンハルトの胸の奥を、何か冷たいものが走り抜けた。

 しかし、彼はその感覚を、すぐに怒りで塗り潰した。

「……あの女が、わざと精霊どもをそそのかしてストライキを起こさせているに違いない。そうだ、そうに決まっている!」

 傲慢な王子は、歪んだ論理で自らを正当化する。

 血走った目を窓の外――鉛色に濁った王都の空へと向けた。



  澄み切った青空の下、琥珀の湖から続く緑の野を歩くエレインには、当然知る由もない。

 王都で何が起きているかも。

 騎士たちが自分を追って出立したことも。

「ねえ、ギル。渓谷に着いたら、まず何を食べたい?」

『当然、炙り肉だ。チーズとやらも気になるが、まず肉だ。それもたっぷりと』

「ふふっ。ポポは?」

『ワタシハ、ナンデモ! エレインノ、ニコニコガ、ミタイカラ!』

『……フニャァン……クダモノ、アル……?』

 ラムがうとうとしながら、トランクの上で小さな声を上げる。

「あるかもしれないわね。渓谷の乾燥した風で熟成させた干し果物……美味しそう!」

 笑い声が、草原に溶けていく。

 騎士団が足を踏み入れようとしているのは、精霊たちが見限り始めた薄暗い森だ。

 一方、エレインたちが向かうのは、風と光に満ちた新しい地平線。

 その距離は、ただの地理的な隔たりではなかった。

 引き返せない選択の、確かな証だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。


次回お楽しみに。

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