第14話:琥珀の湖畔の休日。温かい水浴びと、ほどける心
小鳥たちのさえずりと、さぁわ、さぁわと打ち寄せる波音。
それが、エレインをまどろみからゆっくりと引き上げてくれた。
「……んん……」
目を閉じたまま背伸びをしようとして、身体の上に不思議な重みがあることに気がついた。
そっと薄目を開ける。
ひんやりと滑らかな銀色の毛並みと、淡い琥珀色のマシュマロのような半透明の塊。
『……スゥ……フニャァン……』
お腹の上では、ラムがスライムのようにとろけた姿で無防備な寝息を立てている。
右半身はギルの三本の尾にすっぽりと包まれ、足元ではポポが朝の冷え込みからエレインを守るように、小さな炎をチロチロと灯したままこっくりこっくりと船を漕いでいた。
「……ふふっ」
自然と笑みがこぼれた。
王城での孤独な目覚めとは、何もかもが違う。
エレインはお腹の上のラムをそっと両手で包み込み、頬にすりすりと押し当てた。
絹ごし豆腐のようなひんやりともっちりとした感触がたまらない。
『フニャ……? ……エレイン、オハヨウ……』
「おはよう、ラム。よく眠れたわ。……ギルも、ポポも、おはよう」
『ハッ! オハヨウ、エレイン!!』
『……フン。よく寝る小娘だ。俺の毛並みが寝癖で台無しになっていないだろうな』
ポポが飛び起き、ギルが目をこすりながら大きなあくびをする。
エレインは愛おしい家族たちの顔を見渡しながら、森の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
朝食に昨日残しておいたパンケーキと果実酒を軽くつまんだ後、エレインはずっと気になっていたことを口にした。
「ねえ、ポポ、ギル。この近くに、少し入り組んだ入り江みたいな場所はないかしら? ……王城を出てからずっと歩き通しだったから、少し身体を綺麗にしたくて」
薄藍色の旅装束は丈夫だが、数日間の野宿で汗や森の土埃が染み付いていた。
『イリエ? アッチノホウニ、イワデカコマレタ、チイサナミズタマリミタイナトコロガアルヨ!』
「本当? ありがとう、ポポ!」
ポポの案内で湖畔を少し歩くと、背の高い岩にぐるりと囲まれた、小さな天然のプールのような場所があった。
周囲から死角になっており、水浴びにはうってつけだ。
しかし、足先を水につけた瞬間、エレインはビクッと肩を震わせた。
「ひゃっ……冷たいっ」
琥珀の湖は、見た目こそ温かそうだが、森の奥深くから流れ込む雪解け水のように冷たかった。
『エレイン、サムイノ? ジャア、ワタシガ、オミズヲアタタメテアゲル!』
ポポがポンッと炎を弾かせ、水面すれすれへと飛んでいく。
小さな身体からオレンジ色の優しい熱波がじわじわと水中に放たれ始めた。
――ぽこっ、ぽこぽこっ。
岩に囲まれた水辺の温度が、ポポの『絶対に熱くなりすぎない火加減』によってゆっくりと上昇していく。
水面からふわりと、心地よい白い湯気が立ち昇り始めた。
「すごいわ、ポポ! 天然の温水プールになっちゃった!」
『エヘヘ! ギル、ミズガアツクナリスギナイヨウニ、コオリデカベヲツクッテ!』
『……人使いの荒いチビ火だ。まあいい』
ギルが入り江の入り口に冷気を放ち、湖の冷水とポポのお湯が交わる境界に、見事な氷のフィルターを作り出した。
中の温度は常に「完璧な適温」に保たれる。
「二人とも、ありがとう! ……それじゃあ、みんなは向こうを向いててちょうだい」
『? ニンゲンハ、ミズアビヲスルノニ、ナゼカクレルンダ?』
「い、いいから! ギルはあっち!」
不思議そうに首を傾げる三人を岩の向こうへと追いやり、エレインはそっと衣服を脱ぎ捨てた。
――ちゃぷん。
「……はぁぁぁ…………っ」
肩まで沈んだ瞬間、魂が抜けていくような甘い吐息がこぼれた。
過労で凝り固まっていた肩の筋肉が、ポポの優しい熱によって芯からじんわりと解きほぐされていく。
微かに香る湖畔の野花の甘い匂い。
ラムが気を利かせてくれたのか、お湯の中には肌をすべすべにする琥珀色の細かい気泡がシュワシュワと溶け込んでいて、エレインの肌を優しくマッサージしてくれた。
王城の大浴場など、比べ物にならない。
「……あんなに息苦しかったのに。今はこんなに、息をするのが楽しい」
両足を伸ばし、青空を見上げながらポツリと呟いた。
精霊の言葉を翻訳し、契約書に落とし込む。
それはかつて、エレインにとって重圧であり呪いだった。
少しでも間違えれば国が滅ぶという恐怖に急き立てられ、ただ義務感だけで言葉を紡いでいた。
しかし今は違う。
ギルに「痛くない?」と聞くために。ポポに「美味しいよ」と伝えるために。ラムに「ゆっくりでいいよ」と微笑みかけるために。
大好きな家族と心を通わせるための言葉として、古代精霊語を紡いでいる。
お湯の温もりに包まれながら、エレインはふにゃりと、年相応の無防備な笑顔を浮かべた。
さっぱりとした顔で拠点に戻ると、ギルが前足を揃え、いかにも待ちくたびれたという顔で座っていた。
『……遅いぞ、ニンゲン。俺の腹の虫が鳴きそうだ』
「ふふっ、ごめんなさい。でも、お待たせしただけの価値はあるわよ!」
エレインはトランクから、昨夜のうちに仕込んでおいた「あるもの」を取り出した。
道中の村で買っておいた干し肉を、ラムが熟成させたベリーの果実酒に一晩じっくりと漬け込んだものだ。
密封された木箱を開けた瞬間、赤ワインをさらに濃縮したような芳醇な香りが広がる。
カチカチだった干し肉は、果実酒のアルコールとラムの魔法によって繊維が解きほぐされ、生肉以上にプルプルとした柔らかさを取り戻していた。
「ポポ、お鍋をお願いできる?」
『マカセテ! キョウモ、ゼッタイニ、コガサナイヨ!』
鉄鍋に果実酒ごと肉を放り込み、野草と一緒にコトコトと煮込む。
――ふつ、ふつふつふつ……。
ポポの優しい炎が鍋を包み込むと、アルコール分が心地よい音と共に飛んでいき、代わりに強烈な旨味となって肉にコーティングされていく。
透き通っていたスープがみるみるうちに深いルビー色へと煮詰まり、とろりとした極上のソースへと姿を変えた。
香ばしい肉の匂いと、果実酒の甘酸っぱい深い香りが混ざり合い、湖畔の空気を暴力的なまでのシズル感で支配する。
『オォォ……ッ! 俺の鼻が、これ以上待てないと悲鳴を上げているぞ!』
ギルがたまらず立ち上がり、鼻をヒクヒクとさせながら鍋の周りをうろうろと歩き回り始めた。
「はい、完成! 特製・熟成肉の果実酒煮込みよ!」
厚切りの肉に艶やかなルビー色のソースがとろりと絡みつき、立ち昇る湯気と香りは、もはや芸術品の域だった。
「さあ、冷めないうちに!」
木製のフォークを分厚い肉の塊に突き立てる。
――すぅっ。
「えっ……」
フォークは何の抵抗もなく、プリンに刺すように肉の底まで沈み込んだ。
軽く持ち上げただけで、肉は繊維に沿ってほろり……と自重で崩れ落ちていく。
慌ててその欠片をすくい上げ、フーフーと息を吹きかけてパクリと口に運んだ。
「……っ!! んんっ……!!」
噛むまでもなかった。
舌の上に乗せた瞬間、ホロホロと口の中でほどけ、溶えて消える。
後に残ったのは、獣の強烈な旨味と、ラムの果実酒がもたらすコク深くも爽やかな酸味と甘みだけ。
それがポポの優しい熱によって完璧に一つにまとまり、味覚の暴力となってエレインの脳を揺さぶった。
「おい、しい……っ。お肉なのに、舌の上でとろけちゃった……っ」
両手で頬を押さえ、目を潤ませる。
『ガツッ! ハフッ! ムシャァッ!!』
隣では、ギルが顔をルビー色のソースでベタベタに汚しながら、凄まじい勢いで肉を丸呑みにしていた。
上品さも幻獣のプライドも、この絶品の前では何の役にも立たない。
『美味い! 美味いぞエレイン! 肉が、汁が、口の中で爆発している! 鍋ごと俺に食わせろ!』
「あははっ! ダメよギル、ちゃんと噛んで! ポポ、ラムも、お味見する?」
『エヘヘ、ワタシハ、エレインガ、オイシソウニタベテクレレバ、ソレデイイノ!』
『……フニャァン……ワタシノマホウ、ヤクニタッタカ……?』
「ええ、もちろん! ラムの魔法がなかったら、絶対にこんなに美味しくならなかったわ!」
エレインがラムの柔らかな身体をギュッと抱きしめると、ラムは照れくさそうに甘い気泡を空中に散らした。
美味しい料理を囲み、顔を汚して笑い合う。
もはや「契約で結ばれた主従」などではない。
互いを必要とし、互いを思いやる、本物の家族の風景だった。
その頃、王城では。
「……くそっ! なんだこの悪臭は! 私の服が、こんなに臭いわけがないだろうがッ!!」
レオンハルトが純白の軍服を床に叩きつけた。
「ひぃっ! も、申し訳ございません殿下……っ!!」
叩きつけられた軍服から、汗とカビと生乾きの強烈な悪臭が立ち昇る。
王城の洗濯と衣服の浄化を担っていた水と風の下級精霊たちも、契約の更新が途絶えてから数日前に一斉に城を去っていた。
侍女たちが泥水で必死に汚れを落とそうとしても、精霊の加護を失った高級布地は一向に綺麗にならない。風の精霊もいないため城内に湿気がこもり、生乾きの服には黒カビが繁殖し始めていた。
「風呂にも入れず、こんな雑巾のような臭い服を着ろと言うのか! 王族たるこの私に!!」
レオンハルトは目を血走らせ、自らの髪をかきむしった。
食事は腐り、水は濁り、灯りは消え、衣服まで汚物と化した。
華やかで美しいものしか愛せなかった彼にとって、この「五感を直接破壊してくる悪臭と不快感」は、どんな暴力よりも精神を削り取っていった。
「エレイン……! あの忌々しい女め……! 騎士団を動かせ! 何が何でも城に引きずり戻して、精霊どもを従わせるのだ!!」
謝罪も反省も、微塵もなかった。
ただ、自分の快適な生活を取り戻すための便利な道具として、彼女を連れ戻すことしか頭になかった。
一方、琥珀の湖畔では。
エレインがホロホロに解けた肉に頬を染めながら、この上なく幸せな笑顔を浮かべていた。
騎士団が出動したことなど、今の彼女には、知る由もない。
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