第13話:琥珀色のティータイム。極上のふんわりパンケーキと甘い果実酒
西の空へと傾いた太陽が、湖面を琥珀色へと染め上げていく。
風に揺れる木々のシルエットが水際に浮かび上がり、エレインたちのいる湖畔を、夢のような光で包み込んでいた。
そんな絶景の中、極上の「音」と「匂い」が静寂を満たし始めた。
――ジューッ……、パチパチッ。
ポポの優しい炎で熱せられた鉄板の上で、黄金色のバターが溶けていく音だ。
焦げることのない完璧な温度。乳脂肪の濃厚で甘い香りが、そよ風に乗ってふわりと舞い上がる。
「ポポ、温度は完璧ね。いくわよ」
『ウンッ! いつでもいいよ!』
エレインは、ラムの力で限界までふっくらと発酵した生地のボウルを持ち上げた。
お玉ですくい上げると、もったりとした重みの生地が、ゆっくりと鉄板の上へ滑り落ちていく。
――とろぉり。
鉄板に触れた瞬間、ジュワッという軽やかな音と共に、生地が美しい円を描いて広がった。
そこからが、ラムの魔法の真骨頂だった。
ペチャンコになるはずの生地が、熱を通されるにつれ、まるで自ら命を持って呼吸するかのように、ぷくぅっ、ぷくぅっと縦に向かって力強く膨らみ始めたのだ。
「わあ……こんなに分厚く……!」
『フニャァ……ワタシノマホウ、イッパイカケタカラ……フワフワダゾォ……』
ラムが上空を漂いながら、嬉しそうに琥珀色の気泡を降らせる。
表面に無数の小さな穴が開き、端がうっすらと色づいてきたところで、エレインは木べらをスッと差し込んだ。
「そぉれっ!」
手首を返し、パンケーキを宙で裏返す。
――ポスッ。
着地した表面は、ムラ一つない完璧な「きつね色」に焼き上がっていた。
焦げ目は一切なく、水彩絵の具で丁寧に色を置いたような、美しく優しい焼き色だ。
『オォォ……ッ!』
『……美味そうな匂いだな。早く俺の皿に乗せろ』
ポポが火の粉を散らして歓喜の舞を踊り、ギルは前足で地面をトントンと叩いている。
「もうちょっとだけ待ってね。中まで優しい熱を通すから」
エレインはもう一枚、さらにもう一枚と焼き上げていく。
焼き上がったものから順に木彫りの皿に三枚重ねると、ちょっとした塔のような高さになった。
その上に冷たいバターの塊を乗せ、野生の蜂から集めた琥珀色の蜂蜜をとろぉりとたっぷりと回しかける。
熱々のパンケーキの熱でバターがゆっくりと溶け崩れ、黄金色の蜂蜜と絡み合いながら、分厚い生地の側面を伝って滴り落ちていく。
なんという、視覚的暴力だろうか。
「よし、パンケーキは完成! あとは……」
岩の上で冷やしておいたガラス瓶を手に取る。
ラムが半日かけて熟成させた、深いルビー色のベリーの果実酒だ。
木製カップに注ぐと、とろりとした液体が心地よい音を立て、芳醇な香りが蜂蜜の甘い匂いと混ざり合った。
「お待たせ。みんな、一緒にいただきましょう!」
湖畔の草花の上に腰を下ろし、エレインは両手を合わせた。
まずは果実酒のカップに口をつける。
「……っ」
一口含んだ瞬間、白い頬がほんのりと薄紅色に染まった。
摘みたてのベリーの甘みと酸味が、ラムの熟成によって角が取れ、ベルベットのような滑らかな舌触りへと変化している。
食道を通り、胃の腑に落ちた瞬間、じんわりとした熱が胸の奥底から全身へと広がっていく。
強いお酒ではない。しかし、心を極限まで解きほぐす、甘く危険な多幸感がそこにはあった。
「はぁぁ……美味しい……すごく、落ち着くわ……」
熱い吐息を漏らし、とろんとした目でパンケーキへと向き直る。
ナイフなど必要ない。木製のフォークを突き立てただけで、分厚い生地は「ふしゅっ」という心地よい音を立てて切り裂かれた。
断面からきめ細やかなスポンジ状の生地が顔を出し、溶けたバターと蜂蜜がジュワッと染み込んでいく。
一口を大きく頬張る。
「…………っ!!」
全身に、雷に打たれたような衝撃が走った。
噛む必要など、ほとんどなかった。
舌の上に乗せた瞬間、しゅわわ……と儚く溶けて消えてしまったのだ。
後に残ったのは、小麦の香ばしさ、バターの強烈なコク、蜂蜜の脳を直接揺さぶるような甘みだけ。
「んんっ……! あぁ……っ、おい、しい……っ」
両手で頬を包み込み、目をギュッと閉じて身悶えする。
王城での冷え切った食事の記憶など、この一瞬で宇宙の彼方へと吹き飛んだ。
甘く、温かく、柔らかい。
その感触が、過酷な労働で強張っていた心を、これ以上ないほど甘やかして解きほぐしていく。
『……おい、ニンゲン。俺にも早く寄越せと言っているだろう!』
痺れを切らしたギルが、鼻先でエレインの肩をツンツンと小突く。
エレインは慌てて目を開け、蜂蜜をたっぷりと染み込ませたパンケーキをギル用の大きな皿に切り分けて差し出した。
ギルはサファイアの瞳を輝かせ、大きな口を開けてそれを丸呑みにしようとしたが――パンケーキがあまりにも柔らかすぎたため、フガッ、と鼻の頭にたっぷりと蜂蜜をつけてしまった。
『……ッ!? な、なんだこれは……口の中で、消えたぞ!?』
「あははっ、ギル、お鼻にクリームがついてるわよ!」
『う、うるさい! 幻獣をからかうな! ……だ、だが、悪くない。もう一口寄越せ!』
威厳を取り繕おうとするものの、鼻の頭を黄金色にしたまま尻尾をブンブンと振るギルの姿は、愛らしさの極みだった。
ポポも誇らしげに飛び回り、ラムはうとうとしながらその光景を見守っている。
夕陽に照らされた琥珀の湖畔。
甘い香りと、笑い声。
時間など気にせず、ただ「美味しい」という感覚だけに身を委ねる。
これが、本当の豊かさだ。
その頃、王城では。
第一王子のダイニングルームは、どんよりとした重苦しい空気に支配されていた。
魔導灯の精霊たちが完全に沈黙し、昼間だというのに廊下は薄暗い。粗悪な蝋燭の煙たい匂いが城内に充満していた。
氷室の崩壊で生鮮食品はすべて全滅。城に残っているのは、カビを免れた硬い小麦粉と、塩漬けの干し肉だけだった。
「……なぜ、パンひとつまともに焼けんのだ」
レオンハルトは、目の前の銀皿に乗せられた「それ」を見て、虚ろな声で呟いた。
一切膨らんでいない、泥を固めて焼いたような灰色の円盤。
発酵を司る精霊たちが去った今、生地は一ミリも膨らまない。火精霊の調整が効かず、表面は焦げて中は生焼けだ。
「も、申し訳ございません殿下……。何度やり直しても、酵母が全く働かず……」
レオンハルトは無言でナイフを突き立てた。
カンッ!
ナイフが弾き返された。石のように硬いのだ。
彼は忌々しげに手で引きちぎり、口へと運んだ。
「――っ! ガッ、ペッ!!」
ひと噛みした瞬間、顔を歪めてナプキンに吐き出す。
発酵に失敗した生地の、鼻を突く強烈な酸味。
顎が外れそうな硬さと、生焼け小麦粉の粉っぽさが、喉の奥にねっとりと張り付く。
「こんなゴミが食えるかッ!!」
ガシャァァァンッ!!
テーブルの上の皿もグラスも、すべてを床になぎ払った。
グラスに入っていたのは、酸化して完全な「酢」と化したかつての最高級ワインだ。絨毯に染み込み、さらに酸烈な悪臭が部屋中に広がる。
「エレイン! あの不気味な女はどこまで逃げた!!」
「で、殿下、落ち着いて……私の祈りで……」
「黙れミア! お前の耳障りな祈りのせいで、昨日も厨房の鍋が三つ爆発しただろうが!!」
「ひっ……!」
怒鳴られたミアが、涙目で肩を竦める。
エレインが地下室で冷え切ったパンをかじりながら支えていた「当たり前の豊かな食卓」。
それを自らの手で破壊した王子は今、極度の空腹と、すべてが思い通りにならないという強烈なストレスによって、完全に理性を失いかけていた。
湖畔で溶けるようなパンケーキに身悶えするエレインのことなど、知る由もなく。
レオンハルトの王城は、じわりじわりと、取り返しのつかない破滅へと沈んでいく。




