3-1.思考を止める、抱擁
舞う銀髪を掴み、地面へ引きずり倒した。のしかかり、股間へ太ももを押し入れる。
握っていた剣を捨て、その手で首を絞めた。
それでも彼女は何もしない。なんの感情も浮かべはしない。
赤い瞳はここではないどこかを、見ている。
かぶりつくように口づけをした。かさついた唇を塞いだ。肢体は動かないままだった。
不意に液体が、こぷりと口腔に入ってくる。血の味。鉄臭い匂い。
唇を離せば、彼女が舌を噛み切ったのがわかる。
涙の代わりに血を流し、どこまでも己を拒絶する彼女に、ただ首を振った。
悲哀なのか怒りなのか、それとも恐怖なのかすらわからない。
微動だにしない彼女の上で、感じる怖気と寒さに耐えることしか、できなかった。
※ ※ ※
アシャンテは結局、初夜と呼ぶべきか不明な初日を、寝ずに過ごした。
剣を側に置いたヴィグジュードがいたから、というのもあるが、彼もまた眠りについてはいない。一方的にアシャンテが故郷や自分のことを話し、それをヴィグジュードが聞く。たまに相づちや質問はされたが、夜明け近くまで話しっぱなしだったのだ。
「姫さま、大丈夫ですか」
「ええ。少し、眠いだけですわ」
隣の自室に帰ったアシャンテを迎えてくれたのは、マリーンだった。侍女を束ねるコルが配慮してくれたのだろう。ささやかな気遣いがありがたかった。
外はもう明るい。山稜から太陽が顔を覗かせている。鳥の鳴き声、マリーンが入れる茶の香り、小窓から入る心地よい風が、今になって眠気をいざなってきた。
「無理をしたんじゃないですか……そのぅ、眠いだなんて」
「無理も何も、彼と肌を重ねてはいませんの」
「えっ? え、それって」
「単に話していただけですわ。自国のことやわたくしのことを。無理強いされなかったのが不思議だけれど」
「そうなんですね。でも、無事ならいいんです」
マリーンが長椅子の前、丸いテーブルに茶を置いてくれる。乳とスパイスの入った、独特な匂いを漂わせるお茶を。飲み慣れたものを出してくれることが、アシャンテにとっては嬉しい。
「陛下は何か伝言を?」
「はい、侍女長からことづてをもらってます。朝食はいいから眠れ、だそうで」
「わかりましたわ。お言葉に甘えて、少し眠らせてもらおうかしら」
「侍女長には、あたしの方から伝えておきます。姫さま、ゆっくり休んで下さい」
「そうしますわね、ありがとう。あなたも休めるときに休んで下さいまし」
ガウンの前を閉じ、微笑む。うなずいたマリーンも笑みを返し、退室していった。
アシャンテは温かい茶を飲み、ため息をつく。
「国のことはいいとして」
風味豊かな飲みもので喉をうるおし、独りごちた。
「どうして、わたくしのことを聞く必要があったのかしら」
『相手を知りたい、というのは、悪いことではないと思うよ?』
不意に、耳に覚えのある鳴き声が聞こえる。
はっとして小窓を見れば、あの褐色の鳥が羽を上げ、縁に止まっていた。
「あなたは……」
『やあ。名無しの鳥だよ、おはようアシャンテ』
「……おはようございます」
立派な冠羽を風にくゆらせ、それは小さい体を押しこみ、隙間から中に入ってくる。謎の鳥はすぐ側にある長椅子の背もたれに足をかけ、愛らしく首をかしげた。
アシャンテは警戒を解かず、赤い目を少しすがめる。
「どういう意味ですの?」
『何がかな』
「今の言葉ですわ。相手を知りたいと……陛下がそう思ったとおっしゃるの?」
『そうだよ。そうじゃなくてはそんなセリフ、出てこないと思うよ』
「ただ単に、ザハ王に対しての会話の糸口、交渉の材料を探っていたのでは」
『ふうむ。アシャンテはなかなか頑固だね。ヴィグジュードも苦労するだろうなあ』
鳥はヴィグジュードの名を呼び捨てにし、うなった。
そこでアシャンテは思う。彼関係の間者であるなら、あるじに最低限の敬意を払うはずだ。だが、今の口ぶりからは敬服が全く感じられなかった。もしかすれば、本当にヴィグジュードとは無関係なのかもしれない。
それでも、全ての警戒心を解けるわけではなかった。唇に指の関節を当て、鳥へ問う。
「あなたは陛下のことを、どこまでご存じなの?」
『おや、アシャンテも彼に興味があるのかな』
「わからないことばかりを言ってくるんですもの。興味があるもないも」
『だから気になる、と』
「ええ。百合の痣のことだって、ファラーニさまのことだって。頭痛のことも、そうですけれど」
『知るものが自分の知識や思いを口にできない感情を、なんと呼ぶか知っているかな?』
「口にできない? いいえ」
『恐怖だよ』
恐れ、という鳥の言葉に、アシャンテは思わず目を丸くした。
ヴィグジュードは、見た限り傲岸不遜で冷徹で、他人をかえりみない男だ。そんな彼が、怯えなど抱くというのだろうか。
(……けれど、無理強いもしなかった。わたくしを、支えてくれた)
思い浮かぶのは昨日の出来事だ。馬車で見た顔、冷たい手のひら、思わず出したような笑顔――そのどれもが、アシャンテが嫌悪する冷酷な彼と乖離している。
だが、吐き気にも近い憎しみで、自然と歪んだ笑みが浮かんだ。
「皇帝とあろうものが恐怖心を抱くなんて、笑ってしまいますわ」
『そうかな? 人の子だ、あれもね。いいかなアシャンテ、人には人の歴史がある。人生がある。その背後にあるもの、苦しみと悲しみを感じることを、忘れてはいけないよ』
「わたくしの苦しみや怒りは無視されてもいいと、あなたはおっしゃるの」
『そうではないよ。それらを癒やすに必要なものは、言えない。口にしてしまえば陳腐なものだからね』
鳥は羽ばたき、テーブルの上に乗る。用意された砂糖入れをじっと見つめていた。
アシャンテは大きいため息をつく。砂糖入れを開けて中身を軽くソーサーにこぼし、鳥の方へと押しやった。
「あなたも謎のことばかりおっしゃるのね」
『時が満ちていないから、仕方がないのだよ』
「もう、またそうやって」
砂糖をついばむ鳥を見つめ、しょうがない、とあきらめる。
本当に謎の鳥だ。何かを知っていると思しき存在。だが、アシャンテが懇願すれば答えてくれるかもしれない。百合の痣のこと、感情のるつぼのこと、頭痛のこと、全てを。
しかし他者から聞いたことを鵜呑みにし、判断を下すのは危険だ。マリーンや他の教師から、昔「自分の頭で考えなさい」と言われてもいる。
「……レルマ」
『うん?』
「あなたの名前、ですわ」
『龍信仰での「思考」を表す単語だね。うん、いい、気に入ったよ』
嬉しいのか、鳥――レルマはぴっぴっ、とさえずり、踊るようなしぐさを見せた。
「あら、可愛らしい。そんなステップもできるなんて」
『だろう? もっと褒めたたえてくれたまえ』
小躍りするレルマに、アシャンテは思わず笑い声をこぼす。
快い笑い声が室内に響いた、刹那――突如、部屋の扉が音を立てて開いた。
ヴィグジュードだ。振り返ったアシャンテが見たのは、どこか焦燥し、泣き出しそうなおもてをした皇帝の姿だった。
「陛下?」
「……笑い声が、した」
「あ、あの。鳥が面白くて」
悲哀と感嘆が入り交じる不思議な顔つきで、彼は近づいてくる。剣はなくマントも羽織っていない。それでもヴィグジュードの凜然としたさまは、少しも損なわれていなかった。
彼を迎えに立ち上がろうと、アシャンテは腰を浮かせる。ヴィグジュードが首を振り、それを止めた。
彼はソファーの近くにやってくると、座り直したアシャンテを、じっと探るように見つめてくる。
「その鳥はなんだ」
「レルマですわ。なつかれてしまって……名前をつけたら、踊りを見せてくれましたの」
ぴぴ、とレルマがさえずった。緊張で満ちた空気を、なごませるように。
ぎこちない雰囲気の中、アシャンテは笑みを消して小首をかしげた。
「何かご用がおありかしら、陛下」
「……笑い声が聞こえたからな。一体何で面白がっているかと思えば」
ヴィグジュードの顔が、いつもの不機嫌そうな野性味のあるものに変わる。切れ長の瞳をレルマに向け、睨むように眺めていた。
「鳥が好きだと聞いていない」
「砂猫の方が好みですけれど、生きもの全般好ましいですわ」
「その鳥を、飼いたいか」
「いいえ、たまに来てもらえるだけで。鳥には空が似合いますもの」
「お前の作る庭園に住まわせればいいとも思ったが」
「自由を奪えば生きる活力すら、失わせますわ」
アシャンテがそう答えた直後だった。
ヴィグジュードが思いきり、体を抱きしめてきたのは。
耳元に吐息がかかる。腕から、手から、彼の震えが伝わってくる。アシャンテはとっさのことで声が出ない。
異性に強く抱擁されるなどこれがはじめてだ。呆気にとられたのち、困惑を声にしようとしたが――
「へい……」
「黙れ」
まるで逃がさないとするように抱きしめられ、まばたきを繰り返す。体中から力を抜く。混乱と疑心が頭の中を占めていた。
確実に震えている背中へ手を回すこともなく、されるがまま、ただ抱きしめられていた。
羽ばたきを耳にして、レルマが窓から空の向こうへ消えても、なお。




