2-4.警鐘のはざまにある何か
彼女を一目見た瞬間、アシャンテの胸が一つ、鳴った。動悸のような形で。
(これは……何?)
悪寒を感じさせる高鳴りだった。異変は、ヴィグジュードをはじめて見たときと似たようなものだ。だが、彼女――ファラーニに対して抱く思いは、悲哀と失意の混ざったもので、殺意とは程遠い。
「誰も来させるな、俺は周りにそう命じていた」
「あいさつくらいお許し下さい。この雷鳴城で、同じときを過ごす女同士になるのですから」
ファラーニの声は甘やかで、柔らかかった。だが隠しきれない棘がある。当然だろう、懸想している男の側に、見知らぬ女が突如、配偶者として現れたのだから。
(動悸は気のせい……? ともかく礼を失さないようにしなければ)
アシャンテはこめかみの痛みをこらえつつ、ゆっくり椅子から立ち上がる。ギギターの横に並び、ドレスの上側をつまんで一つ腰を落とした。
「はじめてお目にかかりますわ、ファラーニさま。わたくしはアシャンテと申します」
「……ファラーニと申します」
アシャンテへの返答に、一瞬、間がある。相対すればよりわかるが、彼女はこちらを探るような視線で、ぶしつけとも思えるほど強い視線を送ってきていた。
妬みと同時に怒りと、あざけりを含んだ眼光で。
「アシャンテさま、何か困りごとがございましたら、私がお力になります」
「心強いお言葉、感謝いたしますわ」
答えたはいいが、敵がい心をあらわにされ、アシャンテは曖昧に笑むことしかできない。そのうち頭痛がひどくなってくる。笑顔を浮かべるのも辛いほどだ。
「これであいさつはできただろう。下がれ、ファラーニ」
「わがままを失礼しました……アシャンテさま、今度お茶を共にしましょうね」
「え、ええ」
「それでは皆々様、ごゆるりと」
笑っていない目のまま、ファラーニがきびすを返す。
頭を下げるコルたちの前を過ぎ去り、城の角を曲がって彼女は姿を消した。それまで、一体どのくらいの時間が過ぎたのか。
「あ……」
頭を苛む頭痛に、アシャンテはついにふらりと前のめりとなる。
「おっと」
体を支えてくれたのはギギターだ。肩を掴むという乱暴なやり方だったが、おかげで我に返ることもできた。彼の手はすぐに離れる。
「こりゃ失礼」
「いいえ、ありがとうございます、ギギターさま」
「アシャンテさま、顔色が……」
横で固唾をのんでいたマリーンが、心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫、少し緊張しただけ」
「具合が悪いのか」
「もう平気ですわ、陛下」
ヴィグジュードの言葉にかぶりを振り、再度椅子へ腰を下ろす。ギギターもまた、アシャンテの横から離れ、マリーンの側へと戻った。
(頭痛が……治った……なんだったのかしら、一体)
ヴィグジュードたちに気づかれないよう、アシャンテは静かにため息をつく。残った茶を一気に飲み、目をつむる。頭の痛みはすっかり引いていた。ぼんやりともしていない。
空になったカップを見てか、マリーンが飲みものをそそいでくれた。茶菓子も並び終えると、ティーポットを机に置いて数歩、彼女は下がる。
その後アシャンテたちの横に現れたのは、コルだ。気難しいおもてを作り、深々と礼をする。
「申し訳ありません、陛下。ファラーニさまをお止めしたのですが」
「気にするな、お前の落ち度ではない」
淡々と答えたヴィグジュードは、静かに茶を嚥下してカップをソーサーに戻した。
「みな、下がれ。まだ二人で話したいこともある」
「承知しました。それでは陛下、アシャンテさま、我らは失礼いたします」
ギギターはまだ菓子に熱い視線を送っていたものの、コルとマリーンが退席していくのに気づき、慌ててそのあとを追っていく。
「面白い人ですのね、ギギターさまという方は」
三者が姿を消したところで、アシャンテは一人うなずいた。直後、ヴィグジュードが紫の瞳をすがめる。
「ああいう男が好みなのか」
「人として好ましい、という意味ですの。他意はありませんわ」
刹那、言い訳じみた物言いになってしまったとアシャンテは気づいた。
しかしその言葉でだろうか、それとも他の要因でだろうか――安堵したように、嬉しそうに、ヴィグジュードの口元が少しだけ、ほころんだ。
そうすると冷酷な顔が、ほんのわずかに若く見える。凍土から顔を覗かせる若芽のような柔らかさ。そんな印象を受け、アシャンテは呆けて軽く口を開いてしまった。
「どうした。間抜けな顔をして」
「……いいえ。取り立てて何もありませんわ」
間抜けと言われたことが、不思議と気にならない。それでも多少慌て、貝殻の形をした菓子をつまんで食べてみた。ほろほろした生地が口の中でほどけ、溶けていく。
甘さだけでいうと、故郷の味より遙かに弱い。だが、大量の砂糖と香辛料ばかりが主張する菓子より、なんとなく口に合う気がした。
「さっきは、何かあったのか」
「え?」
「ファラーニと話したあとにだ。お前は倒れそうになっただろう」
「少し頭痛がしただけですの。ご心配には及びませんわ」
「頭痛だけで済んだか」
「それはどういう意味ですの?」
アシャンテは茶を飲みつつ、彼のつぶやきを聞き逃さない。
「意味はない、特に」
ヴィグジュードの目線が心持ち、下がる。嘘をついているとアシャンテの直感が告げた。
「あなたには隠しごとが多いようですわね。この百合の痣についても。一体何の意味がこれにありますの?」
「それこそこちらのセリフだ。偽りか、冗談の類いか?」
「百合はグラモーズで大切な意味がある……のでは」
自信なさげに考えを口にすれば、歪んだ笑みを彼は浮かべる。
「笑えない。ずいぶんと下手な芝居だな。隠しごとをしているのはどちらの方だ」
「一体何をおっしゃってるの? この痣は生まれついてのもの。龍官たちにも意味がわからないと言われましたわ。その答えを、あなたは持っているのかしら」
たたみかければ、ヴィグジュードの瞳がよりけわしいものとなった。眉根を寄せ、鋭い眼光を浴びせてくる。
「……本当に、知らないというのか」
「ええ、龍に誓っても構いませんわ」
「ならば何も言えない。むしろその方がいい」
はっきりと答えあわせを拒絶され、アシャンテの胃がまた、むかつきを覚えた。苛立ちと嫌悪がとぐろを巻き、腹の底で暴れているようだ。
ただ感じた衝動のまま睨みつければ、ヴィグジュードはかすかに笑う。
「強い殺意を感じる。お前の目は正直すぎるな」
「わたくしの殺意など、稚児のものにも等しいのではないかしら」
「そうだな。邪獣と比べても痛痒を感じない……が。それでいい。お前はそれでいい」
謎めいた言葉を吐き捨て、彼は無造作に立ち上がった。
茶会を終わらせるのか、と思ったアシャンテも腰を浮かせる。
だが次の瞬間、近づいてきたヴィグジュードが、帯刀していた長剣を不意に抜き放った。その銀の切っ先が、怪訝な表情をしているであろう自分の顔へと向けられる。
「柔弱なその腕では、この剣は使えないな」
「……使う必要がありませんわ」
「いいや。お前は俺を殺したいはずだ。証拠に、憎しみと苛立ちを隠しきれていない」
額すれすれに、アシャンテは冷たい刃の気配を感じとった。しかし殺気は、ない。
鳥が鳴く。物騒な空気の中、無邪気な小鳥の声がする。
(目をくり抜かれても、頬を切られたとしても、わたくしが屈することはない)
アシャンテはすぐに思う。いっそ清々しい気持ちで。
腰を宙に浮かせたまま止まっていたが、少し体を前のめりにし、刃の先へ額を当てた。目をつむらず、剣を持つ男を見つめたまま。
小鳥が飛び去る。風に梢が揺れる。花弁がこすれ合い宙へ飛ぶ。
長く感じる時間の中、ようやく彼は剣を鞘に収めた。
「これをお前に渡しておく。いつでも俺を狙うといい」
ヴィグジュードは言い、腰につけていた曲がった短刀を無造作に、テーブルへと置く。
「どういう腹づもりですの?」
「さてな。その答えはお前自身が探せ」
不思議な鳥と似たことを言う、とアシャンテは眉を跳ね上げ、椅子に腰を下ろした。
「この国から逃げるなよ。マリーンを殺されたくなければ」
「わざわざそうおっしゃるのに、こんな物騒なものを渡すのは変ではないかしら」
大げさに肩をすくめてみせても、彼はなんら変わらない冷ややかな目で、こちらを見下ろすだけだ。
「今日のところはまだ仕事がない。部屋で大人しく過ごせ」
アシャンテは返答しなかった。
それでも構わないという様子で、ヴィグジュードはマントをひるがえし、一人城の方へと戻っていく。
立ち去る背中を睨んでも、なんの意味はない。アシャンテは隠れて嘆息し、テーブルを見た。男性の手のひら分ほどの刃を持つ短刀に、触れる。柄の部分がとても冷たい。
ひえびえとした感触が、なぜか心を落ち着けてくれる気がした。短刀を胸元に押しつける。鞘があるにも関わらず伝わる凍てついた感触が、不思議となじみがあるようで、怖かった。




