2-1.優しさと怯えに隠れるもの
彼女は笑わない。
普段、村人に見せていた快活な笑みは消え失せ、人形のようなおもてでこちらを見る。
赤い瞳にはなんの感情もなく、虚ろ。銀の髪はすっかり色あせていた。
そんな彼女が、今、首筋に鏡のかけらを当てている。
次の瞬間の血飛沫は、小さな部屋一面を染めるのに十分すぎる量だった。
なんと言えばいいのだろう。どう言えば、終わるのだろう。
答えはなく、ただ手のひらについた血潮を、見つめるだけしかできない。
※ ※ ※
(砂の香りが、しない)
どこまでも続く草原と、森。アシャンテが名も知らない広葉樹は青々と梢を広げ、通り過ぎる馬車へと影を落とす。窓から覗ける草木は色彩豊かだが、色あいは故郷の記憶を反映せず、郷愁を胸にこみ上げさせた。
荒ぶのは潮の匂い。グラモーズの王都の港につき、それからは馬車に乗せられて数時間が経過している。似たばかりの景色は砂漠を彷彿とさせるも、陽射しの熱は柔らかい。
窓にやる横目で、自分の目の前に腰かけるヴィグジュードを見た。
彼は相変わらず目を閉じ、無言だ。きれを脱いだ中にある軍服は瑠璃色と金色。細緻な刺繍や飾りは意外にも少なめで、勲章の類いなどは着用していなかった。
対して、アシャンテは、渡航の最中に渡された白いローブを着ている。彼いわく「見苦しくないように」だそうで、いやみったらしい言い方にいらいらしてしまった。
(本当におかしい……どうして知らない相手を、こんなに毛嫌いしてしまうの?)
つい、眉を寄せる。ぎゅっと目をつむり、こめかみに指先を当てた。
「頭でも痛いのか」
「……いいえ」
「体調を崩したら、すぐに言え。慣れない土地だ。風邪を引くこともある」
いつの間にかまぶたを開け、こちらを見ていた彼の声は相変わらず冷たい。が、言葉そのものは優しく、落差にますます頭が混乱した。
「離宮にはそろそろ?」
そもそもヴィグジュードが連れてきたのだろう、とも思ったが、これ以上喧嘩をしても何も得られない。心を静め、首をかしげれば、彼は視線を下にやったまま唇を開いた。
「もう、つく。王城で暮らすのは離宮に慣れてからでいい。お前の連れ以外にも数人、使用人を用意している。生活に不自由はしないはずだ」
「それは助かりますわ。ですが、先にこの国の龍官と会いたいのですけれど」
彼の顔が、翳る。いや、翳るというより歪んだ、という方が正しい。
「それと会ってどうする」
「大国では各国に訪れた際、龍官と顔あわせするのが一般的ですわ。グラモーズでは別ですの? もしかして、いらっしゃらないのかしら」
アシャンテは疑問に思い、目をまたたかせる。
龍官は、いわば神である龍に一生を捧げたものの総称だ。神体に祈りを捧げる他にも、学び舎を開き学問を教えたり、炊き出しなどをおこなっている。少なくとも、アシャンテのいた火隆の国ではそうだった。
ヴィグジュードが、いよいよ口角をつり上げた。笑ったのではなく、あざけりという形で。
「確かにこの国にも龍官はいる。神殿もある。だが、奴らに何ができる」
「民のために祈り、施しをしているのでしょう? 立派なことですわ」
「奴らが、真に祈りを捧げているというなら、龍はそれに応えるべきだ。だが」
彼の瞳が苛烈な光を帯びた。凍てついた紫の水晶、そう謳われる瞳が、遠慮なくアシャンテを射貫く。
「事実、どうだ? 邪獣が現れ土地を腐らせ、人は苦しみの中にいる。龍は応えない。平和への祈りも、個人への祈りも、全て無視して天から俺たちを笑っているだけだ」
憎しみ極まりないとばかりに吐き捨てるヴィグジュードに、思わず間抜けに口が開いた。
「……あがめることで慰められる心があり、拠り所とする方がいらっしゃるのなら。やみくもに廃するのは愚行というものでは?」
物言いに毒気すら抜かれ、アシャンテがただ思うことを言えば、彼のおもてが苦いものを食べたときのようなものになる。
「別に信徒を廃しているわけでも、国教からしりぞけているわけでもない。在り方が気に食わないだけで」
どこか、幼子がたしなめられたときに近い言い方だった。事実声が少し、小さい。瞳もすがめられ、視線がさ迷っていた。
龍を信奉することをやめさせられないか、アシャンテは不安になる。信仰をやめるのは、それこそ巫女として生きてきた今までを、自ら否定するようで。
「わたくし、すぐさま信奉する対象を変えられるとは思いませんわ」
「……俺になんでも追従してほしいわけじゃない」
思わず漏らしたささやきに、眉を寄せたのはヴィグジュードの方だった。そのセリフにアシャンテはますます困惑する。まいってしまう。
相手は無理やり自分をさらい、これから故郷と同盟を結ぼうとしている皇帝だ。だというのに、今の言い方は、アシャンテに自由があると勘違いさせるものではないだろうか。
いっそ反発したかったが、彼の子どもじみた様子に、少しだけ心が軽くなる。警戒心がほどかれる。
「では、わたくしが龍官と会うことを認めて下さいますか? 下手なことは言いませんわ」
「そっちの心配はしていない。お前は、自分の置かれている立場が理解できないわけではないだろう。後日、茶会の席を設けたときにでも呼び寄せる」
「ありがとうございます、陛下」
「ジュード」
「はい?」
「二人のときはジュードと……そう、呼べばいい」
ヴィグジュードの顔が、今度は打って変わって、不安そうな面持ちになる。機嫌を損ねまいとする幼児、あるいは母親の気をうかがう赤子にも似た。野獣の強さを保つ顔が、今や台無しだ。繊細さばかりが強調され、多少神経質な様子をかもし出している。
(不思議な顔)
先ほどまでの不遜なおもては、態度は、どこへやったのだろう。アシャンテは疑問に思うも、なぜか相反する要素がいやなものだと捉えることができなかった。
「それでは、あの、ジュードと。そう呼ばせていただきますわね」
「ああ」
吐息にも似た答えが、ヴィグジュードの唇から漏れる。そのまま彼が窓へ視線をやった。アシャンテもつられてそちらを見つめる。
どうやら馬車は、小さな丘に向かっているようだ。見える頂にあるのは薄黄色の城で、各大国の丸みを帯びた王宮とは違った風情があった。
(文化はどれくらい違うのかしら)
ふと、不安になる。
グラモーズは北方大陸からの移民と、大国を出た民族があわさって作り上げた国々を束ねる帝国だ。言葉や文字にほとんど差異はない。ただ、ヴィグジュードの言葉からして、龍信仰は若干薄れている可能性がある。
(……慣れてしまえば気にもならない、か)
膝に置いた手でこぶしを作り、思う。
帝国のことは、王宮にいた頃と慰安の旅の中で、小耳に挟んでいる程度しか知らない。礼儀作法が正しいかも不明のままだ。
そこまで考え、自分の中ですでにあきらめがついていることに気づく。
彼がどう動くかは未知数に過ぎ、父たるザハ王が同盟を受け入れるかもわからない。今、自分にできることは、ともかくマリーンと共に、無事生き長らえる方法を模索するのみだ。
(死んでもいいと、いつでもそう、思っていたのに)
祝福されて生まれたあと、失望された命。民への罪滅ぼしとして、野盗や邪獣に殺されることも考慮の上で旅に出た。
しかしここで自分が死ねば、祖国の窮地を助けるすべがなくなる。王族としての責任はとうに消え失せたと思っていたが、再び重圧となって心を沈ませた。
「俺も離宮で過ごすことにしている」
不意に口を開き、つぶやいたのはヴィグジュードだ。窓に視線を向けたまま、遠くを見つめて。
「皇帝ともあろう方がよろしいの?」
「少しは休めと言われた。お前の故郷でいうところの都……この帝国では州と呼ぶが、それらも各貴族に任せてある。邪獣狩りは別としてな」
「ご自身も出陣を?」
「王が見本にならなくてどうする。ザハ王も武人として誉れ高いのだろう」
「詳しいのですのね。……わたくしが無力なせいで、王には迷惑をかけてしまっておりますの」
アシャンテの言葉に、彼は何も答えなかった。否定も肯定もなかった。そのことになぜか、ほっとする。
二日前、力持たずとののしってきた男の内面がほとんど読めない。だが、民のために身を挺しているという部分は、素直に賞賛すべきだろう。
また沈黙が降りる。それでも、最初のときよりかはましな静けさだ。肌を刺すようなひりつく空気は、今はない。
揺れる馬車により、アシャンテはサンダルがずれたことに気づく。腰を浮かして直そうとした瞬間。
「きゃっ……」
車輪が小石につまずいたのか、より大きい揺れで体が崩れる。膝をついてしまうと思ったとき、腕が伸びてきた。肩と腰を、ヴィグジュードが支えてくれる。
「あ、ありがとうございます」
温かく、大きい手のひら。だが、その指や手自体が、小刻みに震えていた。
体を正したのちすぐに腕は離れたものの、視線を外した彼の顔は少し、青ざめている。
露骨な優しさと怯えに、アシャンテはまた混乱した。
どれが本当のヴィグジュードなのだろうか――と。




