6-5.眠るもの残るもの
※ ※ ※
「……テ。……アシャンテ……!」
自分の名を呼ぶ声が遠くから聞こえ、アシャンテはゆっくりと、閉じていたまぶたを開いた。
アシャンテを自らの膝の上で抱きとめ、手を握り、泣き出しそうな顔をしているのは、ヴィグジュードだ。
「……ジュード」
目を覚まし、アシャンテは微笑む。
心地よいまどろみから、次第に現実感が形を成しはじめ、肌を撫でる風に吐息を漏らした。
ファラーニに刺された痛みが消えていることに気づき、腹部をまさぐる。突き立てられた短刀も、流れ出る血も、何もない。
「ファラーニたちにさらわれたと聞いた。ハヤブサからの伝言で駆けつけたんだ」
「ありがとうございます。わたくしは、もう平気」
「お前もギーも、護衛たちも倒れ伏していたんだ。一体何があった? 痕まで消えて。リーリは未だ、龍への祈祷を済ませていないと言っていたが」
泣き笑いを浮かべる彼の言葉に、アシャンテは左腕を上げてみる。そこにあったはずの黒い痕が、消えていた。
祟りが消滅したと理解し、周囲を見渡す。
空は夜明けの光に満ち、雲の切れ目からはまばゆい輝きが漏れ出ていた。辺りにはギーたちを介抱し、立ち上がらせている護衛隊の姿がある。
アシャンテが覚醒したことを見て取ったのだろう。ヴィグジュードは身動ぐアシャンテから体を離し、そっと優しく立たせた。
「邪龍信徒どもとファラーニの行方が問題だ。どこに行ったのか、わかるか」
「……眠りについたのだと思いますわ」
「眠った、だと?」
アシャンテはヴィグジュードの疑問に答えず、もう一度辺りを確認した。
彼の背後、奥まったところに、かげろうのように靄がかったファラーニの姿がある。
彼女は目を伏せ、唇だけを動かした。
(わたしはゼルザさまが好きだっただけ)
アシャンテは何も言わない。脳内に響く思念を受け取り、ファラーニの独白を聞く。
(夢の中で会った彼に、懸想して。ゼルザさまといつか結ばれたらと思ってしまった)
彼女の横には、シェトリーネとして出会った青年――龍たるレルマがいた。
彼は穏やかな眼差しと面持ちでファラーニを見つめている。
(陛下の今を、ヴィグジュードという人間を見ようとしなかったのは愚かなわたし。あなたの言うとおりですね、アシャンテさま)
(それでもあなたの思いは、ゼルザに向けての気持ちは本物だったのでしょう)
(そう、ですね。結局は報われないまま終わりましたけど。だからこそ、すぐにお二人を祝福なんて、どう考えてもできません)
アシャンテが脳内で思えば、彼女はそれを読み取ったかのようにまぶたを開けた。
(眠ることはわたしの罰なのかもしれない。皆さまから忘れられ、アシャンテさま、あなたが陛下の子を産んでその子どもたちも大きくなって……時が経てば次第に、今日のことは風化していく。わたしを口に出すものは誰もいなくなる)
ファラーニは笑う。いっそ清々しいほど、泣き出しそうな笑みを浮かべてみせる。
(それがわたしに対する罰ならば、この龍と共に眠りましょう)
アシャンテは彼女の言葉に笑顔を浮かべることもせず、かといってうなずきもしなかった。何もいうことなく、恨み言も述べることもしなかった。
悪意をぶつけられ、しかし千年の輪廻は自分が、シェトリーネが素直になれなかったからこそ起こった惨劇なのだと今では理解できる。
ルゥミ、レフィア、フレス――それだけではない。たくさんのシェトリーネが無残に自害していったのも、彼女たちが、ゼルザに対しての憎しみしか抱いていなかったからだろう。根底に愛情があったことに蓋をして、彼を拒絶し続けていたために。
誰かが一人でも素直に、シェトリーネを説き伏せていたなら。根本に眠っていた愛に気づけていたなら、もっと早く苦しまずに済んだのかもしれない。
(許されない思いなんてない、とあなたはシェティに言ったそうですね、アシャンテさま)
(ええ、確かに)
(わたしの思いも、いつか、報われることを願います)
悲しく微笑み、再び目を閉じたファラーニの姿が、消える。声だけをアシャンテに残して。残されているのはレルマだけだ。
(……レルマ、いえ、偉大なる龍よ。ファラーニさまとフィアさまを、どうか)
(大丈夫だよアシャンテ。邪龍、邪獣たちと共に私は眠る。彼女にももちろん長い年月を与えよう。その中でファラーニとフィアが両方、気持ちを整理できればいい)
レルマの姿もまた、足下から消えていく。ゆっくりと、金の泡になって消えていく。
(さようなら、アシャンテ。君からもらった名前は忘れない)
(ありがとうレルマ。どうか、よき眠りとなりますように)
レルマが泡沫となって消滅したのを見計らい、アシャンテは一度、目をつむる。
「アシャンテ……大丈夫か?」
ヴィグジュードの優しい声に、笑顔を浮かべて振り返った。
「全て、終わりましたわ。ジュード、あなたの悪夢もこれからは別のものになる」
「それはどういう意味だろうか」
「どこから話せばいいのか、長くなりますわね。でも、わたくしたちはもう何にも怯えなくていいのです」
言い切ったアシャンテの言葉に、驚いてだろうか、彼が目を見張る。
その瞳が弧を描いたのは、すぐあとのことだ。
「痣が、消えたな」
「え……?」
「胸元の痣だ。百合の痣が、消えている」
言われて、アシャンテは自らの胸を確認してみた。
生まれついて持った赤い痣、それが奇麗さっぱり消え失せている。
「……これでわたくしは、完全にあなたが求める娘ではなくなりましたわ」
少し震える声で、ささやいた。
「それでも、その……わたくしを」
「アシャンテ」
一歩近づき、ヴィグジュードは微笑みを浮かべたまま、アシャンテの頬に手を伸ばした。これ以上なく優しく、静かな手つきで頬を撫でられ、アシャンテはただ吐息を漏らす。
「愛している。お前をもっと知りたい。側にいてほしい。百合の痣を持つ娘だから、ではなく、アシャンテ・ナルシュという存在を、俺は心から慕っている」
きっぱりと告白され、胸が高鳴った。全身が心臓に成り代わったかのような勢いで、熱を帯びて脈動している。
「改めてになるが……故郷のことを除いてでも、俺の側にいてくれるだろうか」
「ええ、ジュード。わたくしでよければ……いえ、わたくしもあなたを愛しております」
言うが早いか、きつく強く抱きしめられた。さらさらとした黒髪が白い肌に重なり、くすぐったさにアシャンテは破顔する。
額に口づけを落とされ、痕が消えた左の頬にもキスをされた。
互いに見つめ合い、笑い合う。それがどんなに素晴らしいことなのか、今のアシャンテには痛感できた。
ただのアシャンテとして、ヴィグジュードと今から紡ぎ上げる未来を想起すれば、心が躍るというものだ。
今、ここにいない――まどろみを受け入れた龍に感謝し、温もりの中、目を閉じる。
それでもほんの少しだけ、胸の奥がうずく。
ファラーニとフィアの思いが報われること、彼女たちも幸せになることを願うのは、きっと傲慢で欲深いのだろう、と。




