百合はなく、それでもその名を知るものよ
ここ数年、アシャンテはラオラの庭で過ごすことが多くなった。王都から全てのはじまりである雷鳴城に居住を移し、もう、幾年になるのだろう。
グラモーズ帝国は立憲君主制となり、君主の座にはアシャンテたちの息子が就任している。今は夫であるヴィグジュードと共に、ただ、二人で穏やかな時間を過ごしていた。
邪獣はあの日、レルマが眠りについたときから姿を消し、国や民の脅威となるものはすでにいない。グラモーズでも、四大国でも、未だ龍を崇めていることには変わりないが。
天気は快晴。多少痛む腰を我慢して椅子から立ち、すっかり茂ったオリーブの葉に手を添える。今年のオリーブもいい出来だ。実もたんとつけてくれることを期待してしまう。
「わたくしにとっては長い時間だったけれど、あなたにとってはどうなのかしら」
ささやきが、爽やかな風に乗って溶け消えた。答えなど当然になく、それでもアシャンテは微笑んでラオラの庭を見渡す。
小鳥のさえずりにハーブの匂い。葉同士がこすれるさざめき。陽射しを受けてきらめく花々。
世界は本当に美しい――としみじみ思い、嘆息した。歳をとっていくうちに、涙腺が緩みやすくなっている。
ヴィグジュードと一緒に過ごす時間は、幸せなものだ。息子や娘たちにも恵まれ、今ではひ孫までいる。顔に皺も多くなった。若かりし頃と違い足腰も弱まり、もう踊ることも叶わなくなったが、それ以上の幸福を得たとアシャンテは断言できる。
それでも刺となり、胸に刺さるのは彼女のことだ。
邪龍が眠りについたことを、アシャンテはヴィグジュード以外の誰にも言わなかった。それでも邪龍信徒だったものや、彼女……ファラーニのやってきた事実が変わるわけではない。
現にファラーニは、王族の名に泥を塗ったものとして、系譜から存在を抹消されている。その名をささやくことすらタブーとなっていた。
ヴィグジュードとの間でも彼女の名を出さなくなり、久しい。それでもアシャンテにとっては、その名は忘れてはいけないものだと、胸にしまい続けているのだ。
「こんにちは、ひいおばあさまっ」
「あら、ジーク。こんにちは。城に来てらっしゃったの?」
「うん……じゃなくて、はいっ」
嘆息と同時に、通路から飛び出してやってきたのは、銀髪と紫の目を持つ少年――アシャンテのひ孫であるジークラインだ。今年で九才になる。
ジークラインはあちこちに視線をやりつつ、アシャンテの座る椅子近くにちょこんと腰かけた。
「今日はあの人、いませんか」
「あの人?」
はにかむひ孫の言葉に、アシャンテは小首をかしげる。
「あのね、ぼくね、見るの。すごくきれいな人」
「まあ。それは一体どんな方?」
「緑の髪でね、青い目をした女の人。ぼくがじっと見ると、すぐどこかに消えちゃうの」
茶を入れようとティーポットに伸ばした手が、止まる。指先が少し、震えた。
「それは」
答えようとした直後、ぴりり、と昔聞いたなじみ深い鳥の声がする。
上空を見れば、青空に褐色の鳥が旋回しているのがわかった。
アシャンテの目が、潤む。瞳の奥がじんわりと熱くなる。
「ひいおばあさま、どうしたの? どこか、いたいの?」
「……いいえ、嬉しくて」
(その子は彼女を見つけたようだね、アシャンテ)
旧友の、穏やかな声音が思念となって伝わった。
(彼女は輪廻の終わりを受け入れた。じきにその子と会うだろう)
「レルマ……」
涙があふれる。思いは無駄ではないと、許されない思いなどないと口にしたあの日から、ずっとしこりになっていた一つの懸念。
彼女の心と名前。
泣き腫らすアシャンテを心配そうに見つめながら、ジークラインはおずおずと切り出してくる。
「レルマ? あの鳥の名前?」
「そうですわ。……ねえ、ジーク。あなたが見た女性は、どんな顔をしてますの?」
「困ったように笑ってる。ぼくが見るときは、いつもそうだよ。このおしろに住んでるのかなって思ってたけど、ちがうの?」
「……そうですわね、ジーク。彼女を見たあなたになら、昔の話をしてもいいでしょう」
アシャンテは涙を指でぬぐい、穏やかに笑む。
「けれど、いずれ出会う彼女の名前を、ちゃんと呼んであげて下さいまし。今から話す昔の名前ではなく、彼女自身をきちんと見てあげて」
「……? よくわからないけど。ぼく、名前を覚えるの得意だよ」
「いい子ですわ。彼女はね、彼女の名前は」
破顔するひ孫に首肯し、アシャンテは数十年ぶりに名を告げる。
決して忘れられない、忘れてはいけなかった彼女の名――ファラーニとフィアの名前を。
燦々とした陽射しの下、おとぎ話という形の昔語りは、続いた。
夕暮れの橙色が辺りを制しても、なお。
ヴィグジュードたちが二人を迎えにくるまでの間、ずっと。
――優しい祝福を得た輪廻は、ここに終わりを迎える。
【了】




