6-4.赦しはきっと愛と知れ
刹那、両腕があたしの体を包んでくる。一体何が起きたのか、最初は理解できなかった。
だがすぐに気づく。抱きしめられているのだと。ゼルザがあたしを抱きとめているのだと。
「シェトリーネ」
名を、呼ばれた。はじめて自分の名前を呼ばれたと理解した途端、甘い痺れが背筋を駆けめぐる。目の奥が熱くなり、今にも泣き出しそうだ。
彼の胸元で困惑と不安、そして驚きにうろたえるだけのあたしに、ゼルザは腕の力を強めながら背中をかき抱いてくる。
「シェトリーネ。お前だけが私を殺した。戦士の私を殺した。我が身を赤い目で見つめ、白き手で握った剣にて私を貶めた。なればこそお前が私に落ちる姿が見たい。我が醜悪さを浴び、さりとて凛とした姿を保つであろう、この世唯一のものよ」
回りくどい言い方に、それでも彼の声が弾んでいることを理解してしまう。低音の声音が、存外優しいということも。
たくましい胸板に額をつけてしまえば、あたしの口は自然と開いていた。
「……あたしは淑女になんてなれない。乙女のままでもいられない。でも、血潮と祟りを浴びて穢れたこの身を、心を、理解するのはお前だけだと信じてる」
「祟りを放ったのは、お前を我が手中に収めるためだ。お前が苦しみ、病み、精神をおかしくすれば、もっと私を見るだろう。だから」
「あたしは、ゼルザ。あたしは最初から、はじめからお前しか見てないよ」
ささやいて顔を上げた。赤い双眸がすぐ側にある。これ以上なく穏やかで、切なげな瞳が。戦うときとはまた別の穏やかな目つきに、あたしの心臓は一つ、脈打つ。
「剣を合わせるたび、お前の虚しさと悲しみを一緒にした。あたしはそれが嬉しくて。でも、でも、乙女だからだめだろうって。せ、戦士のお前を思うなんて、みんなへの裏切りだって」
「どこまでも同じだ、シェトリーネ。私たちはとてもよく、似ているのだろう」
あたしの短い髪を優しく撫で、ゼルザが額へ唇を落としてくる。温かな感触に、あたしの体がびくりと跳ねた。少しの恐怖と、決まり悪さと、嬉しさで。
「最初は龍を恨んだ。邪龍を憎んだ。なぜ私たちなのだろうかと。だが、戦う中でお前のことがよく知れた。強気なところも活発なところも、素直ではないところも、全てが愛おしく思う」
愛おしい――その言葉に、胸が打ち震えた。涙腺が緩む。目頭が余計熱くなる。
「お前のことが好きだ。ゼルザ」
手を、腕を彼の背中に回す。目をつむって抱きしめ合う。
英雄の呼び名などいらない。勝利の栄光もいらない。乙女の宿命も、いらない。
あたしが欲しいのは、心から望むのはただ、彼一人だ。
「やはり、そうなりましたね」
は、と吐息を漏らしたとき、ゼルザの背後から声がした。
静かにゼルザが体を離す。
少し後ろのところに立っていたのは、フィアだ。
「……わかっていたんです、わたくし。理解したくないものから目を背け、ずっと考えることをやめていました」
「フィア」
「二人の間に、入る余地がないほどの感情が渦巻いていたことを知っていました。ですが……わたくしはゼルザ様に惹かれていた」
ドレスを握り、彼女はこぶしをわななかせる。泣くまいと堪えるように。
「一度でも彼にわたくしの名を呼んでもらえれば、何かが変わるかもと。シェティ、あなたではなく、わたくしのほうに風向きが変わるかと期待したのです。そのためにゼルザ様にすがり、しばらく共に過ごしましたが……所詮は夢でしたね」
軽くうつむかせていた顔を上げ、フィアは微笑む。寂しそうに、辛そうに。
「ごめん、フィア。あたしは乙女としての役割も捨てて、あなたすらも傷つけた」
「謝らないで、シェティ。みじめになるから」
首を振り、彼女はそこだけはっきりと言い切った。
「嫌いだったの。ゼルザ様に愛されているあなたが。ゼルザ様と唯一、踊れるあなたが。ずるい、ひどい、無神経……そう思ってばかりいて。でも、きっと本当に嫌いなのは、そんなことばかり思うわたくし自身ね」
自嘲気味に笑うフィアに、あたしは何も言えない。言う資格も、甘さも持ってはいけないと、心のどこかで歯止めがかかる。
「せめてこの願いを浄化したいと思います。醜い思いも、儚い恋も、全て。多分わたくしがここにいるのは、神子として最後の力を振り絞るため」
「……何をする気だ」
立ち上がり、問うゼルザに、フィアは目を伏せて両手を組み合わせた。
「神子にできるのは、戦うことではなく祈ること。龍と交信し、そのお告げを聞くこと。わたくしはあなたたちを祝福できないけれど、全てを許す龍なら、きっと」
胸元で組んだ彼女の手が、淡く光る。柔らかな金色、暁光にも似た明るい光。
フィアが天を仰ぐ。その頬に、涙は伝っていない。
「龍よ。全ての命を作り上げし偉大なる龍よ。神子のフィアが祈る。使徒たる乙女と代理の戦士のさだめが終わるよう。悲しき関係が今、ここで終息するように」
延々と続く稲穂の色にも見える輝き――フィアがそれに、包まれる。
光は彼女を中心として収束し、天井のない暗闇の中、一本の円柱と化す。
見上げるあたしがふらつきながら立ち上がると、ゼルザが手をとってくれた。
空が、闇が、晴れる。昼間よりもまばゆい、ほとばしる金色にあたしとゼルザが目をつむった、直後だ。
「願いは全て聞き届けられた」
厳かな、優しい声が響いた。
あたしは目を開ける。フィアの横に、褐色肌と金髪を持つ男が一人、いた。
「……レルマ?」
不意に名前を口にしてしまい、しかしどこから閃いた名なのか、理解できなかった。
思わず口元に手をやったあたしを見て、男は笑う。
「レルマとは、千年後、ここではない時空でもらった名前。それでもシェトリーネ。君がこの名をつぶやいたということは、彼女は君の中にいるのだろうね」
豪奢なローブをまとった男――レルマはうなずく。
「私は龍。今の神子、フィアの願いによってここに呼ばれた」
金の瞳が、あたしを穏やかに見つめた。
「起点はここだったのだよ。少し違う未来で君たちが殺し合ったのち、ゼルザが私に祟りを放った。そして私は鳥になり、千年の間飛び続けた。悲しみの繰り返しがあった。だが、私に名を与え呪いのくびきを解くきっかけになった娘は、シェトリーネ。君の来世だ」
「あたしの、来世……」
「君に似て強情で、素直ではなく、それでも凜とした存在だよ。ゼルザ、君の来世もすぐ側に。フィア、君の来世もまた、名と姿を変えて存在している」
「私たちは許されるのか、龍よ。元を正せばお前たちが作り上げた宿命だが」
「君たちが私を恨むのも当然だね。すまない、ゼルザ、シェトリーネ。だが安心してほしい。君たちが心を解きほぐしたことで、未来は変わるのだから」
言って、レルマはすぐ横のフィアを見下ろす。
「私の神子よ。君にも悲しい末路をとらせてしまったね。優しい君が願うのであれば、私が邪龍と眠るとき、共に眠りにつくこともできよう」
「眠りに、ですか」
「思いを昇華できるまで。心から二人を許せるときまで、時間という施しを君にあげることはできる。時が全てを解決するとは言わないけれども」
「……そう、ですね。眠ります、わたくし。まだ二人を祝えそうにありませんから」
首肯するフィアの肩に手を置き、彼は笑みを深めた。そのまま片手をゆらりと上げる。
「我が映し身にして影たる邪龍、その配下の邪獣たち。まどろむ時間を受け入れよ。ここに全ての輪廻は完結する」
言うが早いか、レルマの体が光の粒子と変わった。
光の渦はあたしたちを、空を、地を、全てを包みこむ。体にまとわりつくきらめきは温かく、それでもどこか、怖い。
「私がいる」
震える手を浮かせれば、その手を、体を、ゼルザが抱きとめてくれた。
「ずっとお前を愛する、シェトリーネ。だから、平気だ」
「……うん」
はじまりは、愛ではなかったかもしれない。
憎しみの果てに絶望を見たのかもしれない。
それでも千年もの間繰り返したという悲しみの連鎖は、たった一つ、素直になることでほどかれた。
(よかったですわ、本当に)
ゼルザに抱かれたあたしの中で、もう一人のあたし――来世のあたしがただ、微笑む。




