5-4.現実に溺れていくように
……龍官長のリーリが雷鳴城へやってきたのは、昼も間近になってのことだ。
「陛下から聞きました。祟りと、そう言われたんですね?」
部屋に入るなり開口一番、挨拶もなく彼女に鋭く問われたアシャンテは、ソファーから浮かせた腰をそのままに小さくうなずく。
今は、肩も胸も出ていないドレスに手袋を着用していた。顔は痕を見えないようにするため、コルが化粧を施してくれている。
「リーリさま、これは流行病や風土病の類いですの?」
「いえいえ、違います。一応、その、痕を見せてもらっても?」
「ええ……どうぞお座りに。詳しく話を聞かせて下さいまし」
厳しいおもてで首肯したリーリは、いつものローブを重たそうに引きずりつつ、アシャンテの腰かける前に机を挟んで座った。
「失礼します」
よっぽど喉が渇いていたのだろう。アシャンテがカップを手で指し示す前に、彼女は茶を一気に飲み干して嘆息する。
「……はぁ。すみません、無作法で」
「気になさらないで。急に呼び出してしまったのはこちらですもの」
「それこそ気にしないで下さいですね。でも驚きましたよ。祟りだなんて、おとぎ話にしか出てこないと思ってたんで」
「おとぎ話……呪いはある程度想像がつきますけれど」
困惑しつつ、アシャンテは長い手袋を静かに外した。左腕には蛇がのたうつように、黒の痕がまざまざと浮かび上がっている。
「これが……うぅん、こんなの病気じゃ見たことがないので、やっぱり祟りかなぁ」
「あの、祟りとは一体なんですの?」
「邪龍の力の総称です」
リーリの言葉に、手袋をはめ直す動きを止めた。
「邪龍の?」
「あっ、もちろん魔術や魔法めいたものじゃなくてですね。邪龍信奉者が得られる加護? のような。誰かへの恨み辛み、妬みを媒体として、相手を精神的に傷つけるっていう」
「それは十分、魔術めいたものではないのかしら……」
「噂にすぎないんですよ。基本は常套句みたいな使われ方をします」
「簡単に言えば、脅し文句ですのね? 『悪い子は邪龍に食べられる』のように」
「ですです。でも」
リーリが腕を組む。難しそうなおもてに、アシャンテはこくりと小さく唾を飲んだ。緊張のまま手袋を着用し、彼女の次の言葉を待つ。
「これ、本当は龍官長しか見ちゃだめなものなんですけど、役立つかと思って」
リーリがローブのふところから取り出したのは、古めかしい巻子本だ。
彼女は巻物を広げ、眉間に皺を寄せつつ、書いてあるだろうことをつぶやいた。
「これによれば『邪龍の祟りは使徒たる乙女を覆った。黒く染まった体でなお、戦いを求める姿はまさに獣である』とあります。この巻物は、初代の龍官……龍の神子だったフィアさまの手記と言われていますが」
「……フィア?」
名を聞いた刹那、こめかみが痛む。視界が白くぼやけた。
蜃気楼のような視界の先、誰かがいる。顔も、姿も見えない。だが確かに誰かいる。
「『使徒たる乙女シェトリーネのなんと醜いことか。祟りで見るも無惨な体に成り果てながら、未だに代理の戦士たるゼルザと戦い合うとは、滑稽だ』……と」
シェトリーネ。ゼルザ。フィア――名を紡がれるたび、アシャンテの意識が遠くなった。確かに痛覚はあるのに惚けてしまう。集中力が削がれる。
(シェトリーネ……シェティ?)
「うぅん、神子だって言われてるわりには、龍の使徒たる乙女に厳しいですね……って、アシャンテさま? 大丈夫ですか?」
遠くで聞こえたリーリの声が、しかしアシャンテを我に戻した。
霧散する誰かの姿が脳裏に焼きつき、つい目をまたたかせてしまう。頭痛は嘘のように引いていった。
「ええ……平気ですわ。あの、今の言葉からするに、全身が黒くなってしまうのかしら」
「難しいですねぇ。記述で明確に祟りとして残ってるのはこのくらい。あとはさっきも言ったとおり、邪龍を信奉している人間たちの間にある、嫌がらせの脅し文句くらいで」
巻子本をふところに片づけたリーリは、悩んだ面持ちのまま、自分の頬を指で叩く。
茶を注ぎつつ、アシャンテは漠然とした胸騒ぎに唇を噛みそうになった。もしこのまま治ることがなければ。悪化すれば。そう考えれば気落ちもしてしまう。
(……ゼルザ。シェトリーネ……フィア)
だが、それより気になったのは三者の名だ。ファラーニの言うシェティ、それは先程聞いた使徒の乙女シェトリーネの愛称ともとれる。だとしても、なぜファラーニは、以前に大嫌いなシェティと述べたのだろう。
つらつらと考えていたとき、扉がノックされる。沈黙。アシャンテが「どうぞ」と返答すれば、中に入ってきたのはギギターをともなったヴィグジュードだ。
「陛下、どうなさいましたの?」
「そのまま座っていて構わない。少し、報告したいことができた」
立ち上がろうとしたアシャンテたちをとどめ、彼は難しい顔のまま近づいてくる。どうやらいい報告ではない、とアシャンテは直感で理解する。
ヴィグジュードが背後に控えるギギターを見た。ギギターは神妙なおもてでうなずく。
「ファラーニさまが姿を消したんだよ。ご丁寧なことに、医者も一緒に」
「えっ……」
「医者はどうやら邪龍の信奉者だったようでさ。多分、医者の手引きもあってここから出ていけたんだろうな」
「お前の容体について、ファラーニを追求したかったところだが……今のところ、行方は掴めていない」
二人の言葉に、アシャンテは無言でうつむいた。
ファラーニ自身に祟りのことなどを聞ければよかった、とも思うが、この件に関してはたとえヴィグジュードが相手でも口を割らない、そんな気がする。
「それはさておいて。リーリ、何かわかったか」
「今のところ、祟りについてはほとんどです。陛下もご存じ、信奉者の精神的な嫌がらせ……じゃ済まない状態ですしね、アシャンテさまは」
「ならば、龍への祈祷を行うのはどうだ」
「へっ?」
ヴィグジュードの提案に、リーリが間抜けな声を上げた。アシャンテは顔を上げ、小首をかしげる。
「確かこの国では、禊ぎと祝詞を捧げることが龍への祈祷、でしたわね」
「ああ。邪龍と対なす龍ならばと、そう思ったのだが」
「意外ですねえ。陛下が龍に救いを求めるなんて」
「別に俺はこのままでも構わないと思っているがな……お前はどうしたい、アシャンテ」
「わたくしは……」
問われ、少し悩んだ。だが、このまま悪化したら。全身が黒にむしばまれたら。
ヴィグジュードはそのままの自分を受け入れてはくれるだろうが、できることがまだあるなら、手をこまねいている場合ではない。
「もしリーリさまがよろしければ……祈祷を試してみたいと思いますわ」
「ぜひに。歓迎します、アシャンテさま」
猫のように笑うリーリに、アシャンテは力強くうなずく。
「話は決まった。まずは龍への祈祷。それと同時に、リーリと婚姻式のことを話すといい」
「はいはい。神殿にお連れしますがよろしいですかね?」
「ギーを連れていけ、あとは……マリーンも。何があるかわからない。俺も行きたいが、調印の確認がある」
「お気遣いありがとうございます、陛下。何事もないと信じておりますわ」
微笑んで礼を述べれば、ヴィグジュードも軽く、笑みを浮かべた。
「そんじゃ、オレが護衛ということで。あと十名ほど連れて行ってもいいですかね」
「采配は任せる。彼女を護ってやってほしい。……二人とも、少し下がれ。アシャンテと話したい」
「わかりました。それじゃ、ギギターさま。お邪魔な我々は退散しましょ。あとは日時とか決めないといけないですしねえ」
首肯するギギターと共に、一つ頭を下げたリーリが退室していく。
扉が閉まり、ヴィグジュードと二人きりになったアシャンテは、おもむろに立ち上がって席を勧めた。
ソファーに腰かけた彼が、周囲を見て優しい笑みを浮かべた。
「今日は、あの鳥はいないのだな」
「レルマのことですのね。ええ、鳥ですもの。きっと気まぐれなのでしょう」
「さみしくはないか」
「マリーンも、他の皆さまもおりますわ。それに……ジュードもいて下さるから」
本音で頬を朱に染めれば、彼は柔らかい所作で左手に触れてくる。
「神殿は王都の端にある。今のところ邪獣の報告は出ていないが、何かあれば、頼むからギーを頼れ。遠慮はせずに」
「ええ。少しの間、あなたの親友をお借りしますわ」
「……無事に、戻ってきてくれ」
不器用な言い方に、それでも自分を一番に考えてくれていると今なら思える。信じられる。アシャンテは目をつむり、頬を撫でる手の温もりを堪能する。
シェトリーネ、ゼルザ、フィア――その名前すら忘れてしまうくらいの熱く優しい現実が、今はとても、愛おしい。




