5-3.ここにいる
きっと彼は、己の悲鳴か、マリーンの声で起きてきたのだと思われた。
「陛下、どうか、どうかアシャンテさまを助けて下さいっ」
「何……?」
マリーンの様子がただ事ではないと思ったのだろう。ヴィグジュードが部屋に踏み入る気配がした。
「陛下、ここに来ては、だめ」
見られたとアシャンテは思う。どんなに体を隠しても、黒い痕は腕で覆いきれるものではない。震える吐息と共に制止すれば、彼の足がすぐ後ろで止まった。
「……マリーン。リーリを呼べ、今すぐに。ギーをたたき起こせば呼び方もわかる」
「は、はい!」
マリーンが慌ただしく駆けていく。目を強くつむるアシャンテが次いで感じたのは、柔らかなガウンが体にかけられた、その感触だった。
爽やかな石鹸の香りがする。ヴィグジュードの温もりが全身を包んでいる。精神的な衝撃で闇に落ちるアシャンテの自我を、匂いと暖かさが呼び覚ました。
直後、背後から伸びたかいなが、震える体を抱きとめる。
「……いけませんわ、陛下。未知の病だとしたら、あなたまで」
いっそすがりたくなる。優しさに溺れそうになる。だが、この痕が彼に移ればと思うと、撥ねのけることが正解だと理性がささやいた。なのに反面では、いたわられることを嬉しいと感じてしまう。
「大丈夫だ」
相反する感情で動けないアシャンテを、ヴィグジュードはこれ以上ないほど優しく抱きしめながら、ささやく。
「お前の真の美しさは、たとえ何があっても損なわれることはない」
「……あ」
アシャンテの口から吐息が漏れた。目が熱い。泣きたくなどないのに、自然と視界が潤むのを自覚する。
「確かに俺は皇帝として、この命を民に捧げなければならないだろう。だが同時に、お前をないがしろにするような愚かな男には、成り下がりたくないとも思うのだ」
「そ、んなの」
優しく、穏やかなヴィグジュードの物言いに、アシャンテの涙腺は決壊した。涙は頬を伝い、容赦なくシュミーズドレスを濡らしていく。
「お前の舞は見事だった。子どもに向けた笑顔も、奇麗だった。俺に全てを忘れさせるほどの魅力がお前にはある。それは決して、このような形で消える代物ではないはず」
「ジュード……っ」
ためらうことなくアシャンテの頭上に口づけし、二の腕を抱く彼の言葉は、アシャンテ自身の張り詰めた心を崩落させた。
振り向いて、たくましい胸板に飛びこむ。涙が彼のシャツを汚そうとも、黒い痕のことも、もう頭の中にはなかった。醜い自分を受け入れてくれた事実、それだけが安堵になって、ただすすり泣くことしかできない。
ヴィグジュードはすがりつくアシャンテを強く抱き、痕のある左頬を、ためらいもせず撫でた。涙をぬぐうように、ゆっくりとした所作で。
「好きなだけ泣くといい。俺がずっと側にいる」
柔らかい声音に、アシャンテは子どもさながらに何度もうなずく。突き放そうとする気概などなく、そのつもりもまったく起きなかった。今はただ、ヴィグジュードの温もりを享受したい。優しさに触れていたい。
これがほだされているというのなら、それでも構わないと内心で強く思いつつ。
※ ※ ※
泣きはらし、疲れ果てて眠ったアシャンテが目を覚ましたのは、一体どのくらい経った頃なのだろう。
温かい感触が全身を包んでいることに気づき、重たいまぶたをそっと開けた。ほのかに香る石鹸の匂いと自分を抱きとめる温もり。心地いい二つに、まだ思考がはっきりとしない。軽く身じろぎするも、自分を抱く腕は少しも揺るがなかった。
ベッドに寝そべっていることも、ヴィグジュードに抱きとめられているのもわかる。わかるからこそ気恥ずかしくなってきた。アシャンテは彼の胸板に額を当てるよう、少しうつむく。
「起きたか」
「え、ええ」
ヴィグジュードが指で髪を梳きつつ、優しくたずねてきた。声の甘さがますますアシャンテの頬を赤く染める。
「リーリが来るのは朝方だろう。まだ夜明けではないからな、眠っていて構わない」
「ジュードこそ……あの、きちんと自室で眠って下さいまし」
「断る」
言って、彼は腕に力をこめた。体を離そうとしない態度に、アシャンテは余計、顔をほてらせてしまう。
「何か身に覚えがあるか、その症状には」
恥ずかしく胸に顔をうずめたとき、優しい口調で問われた。その問いがアシャンテの脳を目覚めさせる。
どうしようか迷った。夢のこと、ファラーニのこと。それらを話してもいいものかと。だが、意外と素直に開いた口から、勝手に言葉が出てくる。
「……祟りに、沈めと。夢の中で知らない女性にそう言われましたわ。それに」
「それに?」
「ファラーニさまにも、今日の茶会のときに……同じことを」
告げ口するようなまねを、と悔しく思い、ヴィグジュードのシャツを握った。
語尾を小さくしたアシャンテに、彼はどこか沈痛な面持ちを作る。
「百合の痣を持つ娘か、それは」
「ええ。わたくしとそっくりな。そんな女性が幾人も死んで、でも止められなくて。最後に現れた女性が、わたくしに祟りに沈めと、はっきり」
髪を撫でる手が止まった。何も答えないヴィグジュードが気になり、アシャンテは怖々とおもてを上げてみる。
真摯な視線とかち合う。痕を見られそうになるのを恐れ、またもやうつむこうとするが、彼は頬を指でなぞってきた。
「最初は、同じだから気になった」
「え……?」
「百合の痣。銀髪と赤目。そのおもて。夢で一目見たときから惹かれた」
「……それはきっと、わたくしではない誰かですわ」
「そう、お前ではない。何度俺が殺したかわからない誰かだ」
ささやくヴィグジュードの顔が、露骨に翳る。
殺したと言われたアシャンテは不安に感じた。まだ、自分ではない誰かを見ているのかと。何者かの代わりなのかと思って。
「彼女たちは俺を拒絶した。腹が立つくらいに、自死を選ぶほどに。心を通わすこともできず、死を見届けることしかできない俺の心は、ただ引き裂かれていくばかりだ」
「……わたくしは、ジュード」
「似ているお前に短刀を与えたのも、夢で俺が彼女たちを殺した罰を、この身に受けようと思ったためだ。アシャンテ、お前には俺に罰を与える資格がある」
「罰……」
アシャンテが思わずシャツの胸元を握れば、彼は安堵したように唇をほころばせる。
「それでもアシャンテという舞い手の踊り、笑顔を見て、いつの間にかお前自身を求める俺がいた。凜とした背姿も、笑顔も、お前のものだからと思うと……何よりも尊いもののように、感じた」
痕をなぞり、悲しそうに笑むヴィグジュードの手に手のひらを重ね、アシャンテは小首をかしげる。
「まだ、悪夢は見ますの?」
「今はお前の夢を見る。笑顔で俺を見つめるお前の夢を。それが悪夢に取って代わると思うと……とても、恐ろしい」
「わたくしは、ここにいますわ」
安心させるように微笑み、ヴィグジュードの頬を自ら撫でた。
「わたくしは他の誰にもなれません。ただのアシャンテとしてここにおります。だからどうかジュード、他の誰でもないわたくしという人間を……見て下さいまし。罪も罰も、わたくしはあなたに望みはしません」
言うとヴィグジュードの腕に力がこもる。引き寄せられれば、より深い温もりがアシャンテの体を包みこんだ。
「俺を置いては行かないか」
「ええ」
「側で、笑顔を見せてくれるだろうか」
「もちろん、ずっと」
震える声音に返答しつつ、アシャンテは首を伸ばし、彼の頬へ口づけを落とした。滑らかな感触に背筋が粟立つ。
ヴィグジュードが、熱い眼差しで自分を見ていた。喜びと安堵が混ざった視線だ。彼はこちらを見つめたあと、躊躇なく痕のある頬へ、額へ、唇を落としていく。
「アシャンテ」
「はい、ジュード」
名を呼び合い互いに笑む。アシャンテは自然と目を閉じた。少しののち、二人の唇が重なる。痺れるような甘い感触は、今までにないほどの多幸感を全身に走らせた。
長い口づけのあと、ヴィグジュードが顔を離す。まじめな、それでもどこか嬉しそうな笑顔で、アシャンテの頭に顎を乗せてくる。
「式はいつがいい」
「式?」
「婚姻式の話だ。同盟の話はとりつけてある。お前が望むならいつでも式が可能だ」
「で、でも、あの」
アシャンテはくすぐったさに笑い声をこぼしつつ、自分の左側の肌を指でなぞった。
「この痕のこともありますし、リーリさまと色々、相談できれば」
「俺はそんなものなど気にしない」
「だめですわ、ジュード。あなたは皇帝という立場ですのよ? わたくしもそれにふさわしい身なりや作法を学びたいですし」
「少ししか我慢はできない」
優しくたしなめれば、頭を戻したヴィグジュードが切羽詰まったようにささやく。くすくすと笑い、アシャンテは微かにうなずいた。
こんな容貌になっても、彼は自分を見ていてくれる。それがどれだけ心強いことなのだろう。見捨てられても、さげすまれてもおかしくはなかった。だが、ヴィグジュードは、こんな自分を本気で娶る気なのだ。
出来損ない、あるいは役立たずと陰で言われてきたアシャンテにとって、彼の言葉は胸に沁みた。捨ててもいいとさえ思っていた命が、今では惜しい。
(変わることは悪ではない……そう、ですわね。本当にそう)
レルマとの会話を思い出し、ヴィグジュードの二の腕に頬を載せる。
短い中、さまざまなことがあった。それでも、彼とともに未来を歩いていきたいと願うのは、きっと悪い変貌ではないと信じたい。
心地よい温もりにまぎれた睡魔が、またアシャンテを襲う。まぶたを閉じ、全てを委ねた。
今度は深い眠りにつく。夢すら見ず、ヴィグジュードの温もりに護られながら。




