5-2.忘れゆくものと残るもの
思わず顔をしかめたアシャンテを見て、ファラーニが歪んだ笑みを浮かべる。
「大切な名前も思い出せないなんて、なんて哀れでかわいそうな人」
せせら笑いはアシャンテの頭痛をより強めた。だが、息は苦しくない。痣から放たれた痛みと比べれば、これしきのことと、生来の勝ち気さが首をもたげる。
茶を飲み、一息ついてからファラーニを見据えた。
「それだけ、ですの?」
「どういう意味ですか」
「わたくしは確かに百合の痣を持つもの。シェティ、という名前に覚えはありませんけれど、あなたからすれば大事なのでしょう。でも、それが過去のものならば、わたくしはそれに固執したくはありませんわ」
「ふふ、大事にしているのはきっと、わたしだけじゃないですよ」
気丈に言い返せば、馬鹿にしきったような含み笑いを彼女はこぼす。恍惚とした光を瞳にたたえ、殺気をそのままに、こちらを視線で射貫いてきた。
「陛下だってそう。きっと、そう。わたしと同じ思いであなたを見ているの。あなたがシェティだから連れてきたのよ」
膝に載せていた|扇子を握り、ファラーニはアシャンテへそれを向ける。
「アシャンテなんて女は求められていない。百合の痣を持ち、昔を共有できるものだからこそ、お側に置いているだけなの」
ねっとりとした物言いに、一瞬、アシャンテはヴィグジュードと出会ったときを思い出す。
確かに彼は、百合の痣を持つものを探していた。もし、自分が痣を持っていなかったら。ただの踊り手だったら。ヴィグジュードはこちらに、見向きもしなかったのではないか――不安が己の気丈さを揺るがせる。
内心の弱気がファラーニにも通じたのだろう、彼女は鼻で笑った。
「自覚はあるんでしょう? 過去を無視するあなたなんて、陛下の側にいる意味はない」
アシャンテには答えられない。ヴィグジュードが本当に、百合の痣を持つ女を欲しているだけなのだとすれば、紋様が薄まったこの身は不要になる。
だが。
「……再生の喜び」
ギギターの言葉を思い出し、アシャンテはぽつりとささやいた。彼が踊りに釘付けだったというその事実が、今は心の拠り所だ。
少しうつむいた視線を正し、微笑む。
「陛下は、わたくしの踊りを見て下さったわ。痣でもなく、名前でもなく、アシャンテとしての踊りを。それだけで、今は充分」
「踊りだなんて下賤なもの……」
きっぱりと言い切れば、怯んだようにファラーニが眉を寄せた。アシャンテは隙を見逃さず、言葉のナイフを突き立てる。
「思い出にすがり、今と未来を見ないで生きていくことなんて、わたくしにはできない。彼が与えてくれる優しさは、現在にある、本当のものなのですから」
編みぐるみの温もり、手を触れ合わせたときのぎこちなさ――優しいものをいくつ、ヴィグジュードと共にしただろう。その事実は偽りではなく本物だと、心の中で強く思う。
ほころびた顔に、しかしファラーニは憤怒のおもてで立ち上がった。
「聞くに堪えない戯れ言をっ!」
がたりと椅子が揺れる。近くの木に止まっていた鳥が、さえずりを残して飛んでいく。アシャンテたちの間に流れる険悪さは鋭さを増し、空気の針となって肌を刺した。
「わたしは辛かった、悲しかった! いつもあなたが、シェティが邪魔をして……なのにわたしたちの名前も忘れて一人で先に行こうだなんて、誰が認めるものですかっ!」
「……もう一度言いますわね、ファラーニさま」
赫怒をぶつけてくるファラーニに、アシャンテはかぶりを振る。
「わたくしは、アシャンテ。シェティではありませんわ」
唇を噛み締めた彼女がうつむいた。体が震える様子を、アシャンテはじっと見つめる。
どうにも話が噛み合わない。ファラーニはいつも、シェティという女性と自分を被せてくる。そもそも見ている世界が違う。そこが彼女が断罪してくる、忘却という部分に繋がっているのだろうが。
シェティとやらが悪夢に関係にしているのかも聞きたいが、この調子では素直に教えてくれそうにないだろう。百合の痣、女性たちの名、悪夢。謎ばかりが積み上がっている。
小さくため息をついたアシャンテに構わず、ファラーニはおもてを上げ、あずまやの段差から下りた。これで終わりだと言わんがばかりに。
アシャンテもまた、見送ろうと椅子から立つ。彼女は無言だ。背中を向けて去っていくのかと思いきや、刹那、足を止めた。
「祟りを、あなたに」
風に溶け消えそうな声音は、しかしアシャンテの肝を冷やす。悪夢で女に言われたことと似たセリフだ。心臓が一つ、緊張で脈打った。
「それはどういう……」
問うも、罵倒も怒りも、何も返ってはこない。ファラーニはそのまま、アシャンテを見ることなく立ち去っていった。
生温い風がアシャンテの肌を撫でる。なぜか冷たく感じ、無意識に腕をさすった。
頭痛もおさまり、痣からの痛覚もない。それがどこか恐ろしいものに感じる。思わず空を見上げれば、ぶ厚い雲が太陽を遮ろうとしていた。
※ ※ ※
その日の茶会は、失敗に終わったと言ってもいいだろう。問題はその日の夜中に訪れた。
雲が晴れ、月が大きく輝く夜。アシャンテはほとんど寝つけなく、自室のベッドで寝返りを打っていた。寝台に寝そべり、一体何時間が経っただろうか。いい加減喉が渇き、水を求めてドレッサーの前を通った直後、異変に気づく。
「……え?」
鏡に照らされた自分の姿。白いシュミーズドレスをまとっているのは、いい。
「これ、は、何?」
間抜けな声が出る。呆然と、自分の左頬に触れた。
首から頬にかけ、大きく弧を描いた――獣の爪に引っかかれたかのような黒い痕が、まざまざと浮かんでいる。それは体の左側全体に現れ、白い素肌を覆いつくしていた。
「あ、ああ……」
痛みもかゆみも感じず、光ることもない。だが、どす黒い痕跡は、掻いても落ちることなく浮かび上がったままだ。
「これが、まさか祟りだというの?」
震える声でつぶやき、悪夢を想起する。白い濃霧の中、確かに黒い靄に全身を覆われた。そして昼間告げられた、ファラーニの言葉が脳裏をかすめる。
「いやっ、いや……」
振りほどきたく、左腕を大きく振った。近くのテーブルにあった水差しにぶつかり、グラスと共に大きな音を立てて割れ落ちる。
「こんなの、こんな、誰にも」
その場にうずくまり、二の腕に爪を立てた。小さな痛みはしかし、これが夢ではなく現実だと告げるものにしかなり得ない。
落涙することすらできず、自失したまま何度も、何度も肌を掻いた。落ちろと願って。
だが、血がにじむだけだ。それでも鏡を見ながら、腕や体を爪で掻きむしる。
「アシャンテさま? あの、大丈夫ですか?」
小さくノックが聞こえた。控えめなマリーンの声も。はっとし、それから唇を噛む。
「ものが割れる音がしたような気がして……替えのグラス、持ってきましょうか?」
こちらを気遣う声に、アシャンテは無言で首を横に振った。
返答をしなければわかるはずがない。それでも声を出す気にはなれなかった。醜い自分を見られたくなくて。
もしかしたら、流行病の類いなのかもしれない。しかし、体の微熱は嘘のように引き、気怠さも消え去っている。だとすればやはり、祟りというものなのだろう。
「……入ります」
「だめ、マリーン、こないで!」
もし誰かにこれが移りでもしたら――そう理解した瞬間、悲鳴が出る。だが遅かった。
「アシャンテさま、そんなところで何を」
思わず振り返ったアシャンテは、マリーンと顔を合わせてしまう。それが致命的だった。
「それ……どうなさったんですか!」
「来てはだめ、マリーンっ」
駆け寄ろうとした彼女を右手でとどめる。悲痛な顔をしたマリーンが、口元を手で押さえた。
「お、お医者様を、今」
「お願い、放っておいて、わたくしのことは」
「ですがっ」
「誰にも知られたくない……こんな姿、誰にも見られたくないの!」
通路からの光を遮るように、アシャンテはより小さく縮こまる。ほとばしった悲鳴に、マリーンが息を飲むのがかろうじて聞こえた。
(病だとしても祟りだとしても、わたくし以外の誰かが罹患でもしたら……)
アシャンテは、自分のおもてが青ざめていくのがわかる。
「なんの騒ぎだ」
顔面が完全に蒼白になったのは、ヴィグジュードの声が届いたからだ。




