5-1.囚われているのは誰
彼女が微笑んでいる。はにかむように、照れ臭いというように。
その笑みに安堵する。美しいと思う。もっと見ていたいと願う。
触れても嫌われないだろうかと考え、あの日、強引に手折ったことを悔やんだ。
今まで見たことのない笑顔が、いずれ消えてしまうのではないかとの懸念ばかりが胸を刺す。またいつものように、人形のような様相へと変貌してしまうのではないかと。
名を呼びたい。思いをささやきたい。だが、拒絶されたらと不安が募る。
結局、無言で彼女を見ることしかできない。胸を高鳴らせ、見つめることしか。
※ ※ ※
痣の痛みでアシャンテが倒れてから二週間が経つ。不調は今もなお、微熱という形で体を襲ってきていた。それ以外の変容はほとんどない。
胸元から首にかけてレースで隠れているドレスを着たまま、鏡で自分の姿を確認する。胸に手を当て、熱のこもった全身から呼気を吐き出すようにため息をついた。
(……痣が薄くなっている)
唯一気がかりがあるとすれば、その事実だ。痛みに倒れた次の日から、濃かった百合の印が徐々に薄れてきている。生まれ持ったものの変容に戸惑い、二週間前の悪夢が関係しているのかと不安に思う。
『何を考えているのかな、アシャンテ』
「レルマ」
ドレッサーから視線を外せば、もはや見知った友人が、窓からこちらを見ていた。アシャンテは立ち上がり、窓をもう少し開けて彼を出迎える。
「ごめんなさい、今日はあなたの相手ができないの」
申し訳なく眉を下げても、レルマからの返答はない。つぶらな瞳でじっと、見定めるような視線を送ってきている。
「どうなさったの?」
『いいや、少し気になっただけだよ』
「もしかして、百合の痣のことかしら」
『そうだね。薄くなっている。それが吉と出るか、凶と出るか』
「含みのある物言いをなさるのね。あなたも不思議な存在ですわ」
『ただの鳥さ。気にしないでくれたまえ』
それにしてはさまざまな言葉で心を揺さぶる、とアシャンテは一瞬、目をすがめた。
『今日も庭の手入れかな』
「……いいえ。ファラーニさまとの茶会がありますの」
水と木の実が入った皿を用意しつつ、頭を横に振る。ぴっ、とレルマが首をかしげた。
『彼女がよく承知したものだね。君を敵視しているというのに』
「これ以上、逃げ続けても何もはじまりませんわ。ファラーニさまがご存じのことを、この際聞いておきたくて」
『ふぅむ、いい心がけだ。ベッドの編みぐるみがそう思わせたのかな』
木の実をついばむレルマのセリフに、アシャンテはつい、振り返る。
ベッドには十体近くの編みぐるみがあった。砂猫をはじめとして犬や猫、獅子、砂馬、多種にわたっている。全てヴィグジュードからの贈り物だ。
無論、香水やドレス、宝石の類いも贈られはする。だが、きらびやかなそれらより、彼の真心が伝わる編みぐるみをアシャンテは気に入っていた。
優しい時間を共にしたのち、互いの態度は軟化している。食事を一緒にするだけでなく、ラオラの庭でたわいない会話をしたりと、マリーンが驚くほど距離を縮めることができた。笑顔はまだぎこちないものの、両者ともに穏やかなときを過ごすことがほとんどだ。
「頑なにあっていいことと悪いこと、両方がありますのね」
『柔軟性に富むのは悪しきことではないよ。変化だって恐れることはない』
「そう、ですわね」
レルマの言葉に微笑んだ直後、扉が叩かれる。
「アシャンテさま、失礼いたします。ファラーニさまの準備が整ったそうです」
「お疲れさまですわ、コル。今まいります」
扉を開けたコルに返答し、アシャンテは顔を引き締めた。
ファラーニとはラオラの庭ではなく、外の庭園で茶会をすることになっている。彼女が手をつけることを許されなかった中庭を、わざわざ見せる必要はないと感じたためだ。
水浴びをはじめたレルマをよそに、静かに部屋を出る。コルたち侍女数人をともない、ゆっくりと通路を歩いた。これ以上熱を上げないためにも、最近はとりわけ、静かに過ごすよう心がけているのだ。
(リーリさまは王都に戻られたから、心配をかけないようにしなくては)
何かあればすぐに行く、とリーリは言ってくれたが、龍官長の仕事もあるだろう。幸いにして城在中の医者もいるため、体調面での不安は感じていない。
庭に出るため、一階に下りて角を曲がったのちだ。通路の横にギギターがいるのを見かけたのは。
顔を上げた彼に腰を一つ落とし、アシャンテは声をかける。
「ギギターさま、お疲れさまですわ。どうなさいましたの?」
「護衛の交代です。わたくしめが今の時間、アシャンテさまの担当となりました」
「本日は茶会ですの。遠いところで待機していただければ、と」
「善処します」
うなずく彼の瞳には懸念があった。ファラーニとの茶会を催すことは、ヴィグジュードも知っている。もしかしたら、彼がギギターの時間を調節してくれたのかもしれない。もとよりファラーニから自分を護るために、ギギターはこの城に配属されているのだ。
大丈夫だといわんがばかりにアシャンテは力強く首肯し、再び歩き出す。ギギターは遠慮がちに、侍女たちの後ろへついてきた。
今日の天気は薄曇りで、少し生温い風が吹いている。途中でギギターには外れてもらった。何かあれば駆けつけられるだろう位置に。
ワゴンを押すコルと共にあずまやに近づけば、椅子に腰かけていたファラーニが、しなやかに立ち上がる。
「アシャンテさま、ご機嫌うるわしゅう。本日はお誘いありがとうございます」
「こちらこそ来て下さって感謝いたしますわ、ファラーニさま」
彼女の目は笑っていない。仮面のような笑みに、胸のどこかが痛くなる。苦しくなる。それでもアシャンテは視線を外さなかった。礼を失することなく、ファラーニの眼前に腰かける。
甘やかな匂いの茶と菓子、それらがコルたちの手によって、テーブルの上に並べられていく。
「思い出します」
「何を、ですの?」
ファラーニの切り出しは密やかなものだった。密やかだが、敵意は隠しきれていない。
「小さいとき、陛下とこうして茶を飲んだことが幾度もありました。ご存じですか? 陛下はミントが苦手なんだということ」
「……そうなんですのね」
「嫌いな人間の前ではとりつくろうこともあるでしょうけど。ああ、はじめて出会ったときに、確かお二人でミントティーを飲んでいましたね」
「美味しく感じたものですわ。ミントは、火隆の国になじみのあるお茶ですので」
はじまった、とアシャンテは直感で理解した。ファラーニの突き出した言葉のナイフ、それを巧みに避けて微笑みを浮かべる。
「その晩の食事もそうですけれど、陛下は慣れないわたくしを気遣ってくれたのだと思っておりますの。お茶も、陛下の最大のもてなしだと感じましたわ」
にこやかに言ってのければ、ファラーニの瞳に怨嗟が宿った。ここまでわかりやすい殺意を向けられて、しかしやはり、アシャンテに逃げる気は微塵もない。
コルたちを下げ、二人きりになる。ミルクの入った茶の温かさとは雲泥で、ファラーニとの間には冷ややかな空気が流れていた。
「陛下は昔から偏食気味なんです。食の好みが合わない方と共に暮らすのは、さぞお辛いでしょう」
「わたくしが合わせればいいだけのことですわ。嫌いな食べ物はないので」
「雑食、ということでしょうか。ふふ、獣みたいですね」
「褒められた、ととっておきますわ」
「……獣と言えば、知ってます? 陛下の背中に爪の傷痕があること。あれは昔、陛下がわたしを野犬から庇ってくれたときにできた傷で」
「ファラーニさま」
「なんでしょう、アシャンテさま?」
カップを置いて、アシャンテは堂々と彼女を見つめた。憎悪に満ちた視線をものともせず、態度を凜然とさせたまま。
「わたくしは陛下と未来を生きたいのですわ。過去の妄執に囚われることなく」
「妄執……? あなたは、アシャンテさま。あなたは全ての過去をないがしろにするのですか」
カップを握るファラーニの指が、震えていた。声には憎しみがあますことなくちりばめられており、下手な令嬢であれば、顔を青ざめさせたことだろう。
しかしアシャンテは怯まない。
逃げない、と決めて腹に力を入れる。
「あなたの言う過去とは、百合の痣に関係することかしら」
ファラーニからの返答はなかった。彼女はうつむき、無言で肩を震わせている。
「この痣、そしてあなたが言った女性の名。わたくしになんの関係がありますの?」
「……て、ないのね」
「え?」
「覚えて、ないのね。本当に、何も。その無知さが腹立たしい」
つぶやいたのち、跳ねるように上がった彼女の笑顔には、喜悦と怨みが混じっていた。先程以上に向けてくる殺意がすさまじい。
カタカタと彼女のカップが震え、かろうじて怒りを抑えているのだとアシャンテは推測する。
「やっぱりわたし、あなたが大嫌いだわ、シェティ」
知らない名をゆっくりささやかれた刹那――差しこむような頭痛が、した。




