4-5.罰を、お前に
……一面の白、白、白。乳白色の濃霧が、ただただ周囲を包んでいた。
(ここは……どこ)
アシャンテは辺りを見渡す。ぼんやりとした思考と、地面から浮いたような感覚。体を撫でる濃霧に匂いや温度は感じられず、ようやく夢を見ているのだと思い至った。
(わたくしは確か痛みで、倒れて)
雲の中にいるのかと錯覚するほど濃い霧の中、足が勝手に動く。先に進むと少しだけ霧が晴れ、おぼろげながら何かがあるのが見えた。
二階建ての家だ。バルコニーはあるものの、取り立てて特徴のない、一般的な家屋。
(あれは……わたくし?)
バルコニーの手摺りを握り、遠くを見ている女がいた。恐ろしいほど自分に似ている。銀の短髪と虚ろな赤い瞳。額には自分と同じ百合の痣。彼女の服装は古めかしいものの、鏡を見ているのかと錯覚するほど、己の容姿に酷似していた。
声をかけたく思い口を開いたが、吐息すら漏れない。
しばらくして女が動く。スカートを大胆にまくり、細い手摺りの上に乗ったかと思った、直後。
――バルコニーから、彼女は飛び降りた。
(だめ!)
悲鳴にも似た制止の言葉が、それでも声にならない。手を伸ばそうとしても体は動かない。助けることも止めることもできず、地面に伏し、血を流す女の最期を、ただ見ていることしかできなかった。
(なんて、なんて、ことを……)
陰惨な光景から目を背ければ、楽になれるかもしれない。だが、まぶたを閉じることすら許さないというように、体の全てが言うことを聞いてはくれない。
呆然と恐怖の狭間でただわななく中、霧が再び辺りを包みこむ。眼前に横たわる死体すら消すほどの濃霧だ。アシャンテの足は、またもや勝手に先へと動いた。
霧が晴れたのち、次に現れたのはどこかの部屋だった。そこにも自分と似ている娘がいる。銀髪と赤い瞳は、またもや変わらない。シュミーズ姿で右腕には百合の痣がある。
木の椅子に腰かけた彼女がふと動く。かがんで手にしたのは、割れ落ちた鏡の破片だ。
なんの感情も浮かべないままに、女は首筋へとかけらを当て、ためらうことなく一気に引いた。小さい部屋の一面に、鮮やかな血飛沫が舞う。
(なぜ……どうして、そんなまねを)
涙することも、制止することも叶わない。椅子から倒れた女は、すでに事切れていた。
(どうしてこんな夢を見るの? 悪夢以外のなにものでもない……)
霧が集まるつど、晴れた先に現れた娘の自死は、幾度となく繰り返される。自分に酷似した女の自害に、心が悲鳴を上げた。悲惨な光景で頭がどうにかなってしまいそうだ。
(もうやめて……!)
「お前が愚かだからよ」
惨劇に精神が疲弊し、声にならない悲鳴を上げたとき、背後から声が響いた。体が自然とそちらを向く。
そこにいたのは、これまで以上に自分と似た――胸に赤い痣を持つ娘だ。
流行とはかけ離れた真紅のドレスをまとい、彼女はこちらを睨みつけている。
「いっときの感情に流されるなど、心を許すなど、あってはならない」
(あなたは誰? どうしてわたくしの夢の中に)
「あの子が言ったはずだわ。『百合の痣を持つ女が何も知らない、では済まされない』と」
(ファラーニさまの……言葉)
「本当、お前ほど何も覚えていないものも珍しいわね。でもいいわ、すぐに全てに絶望する。そして呪い、憎み、拒絶することになるの」
(一体何をおっしゃってるの? 言いたいことがあるなら、はっきりして)
「愚者に何を言っても理解はできない。だから話す必要もないわ。どのみち、お前はすでに狙われている。どんな最期を辿るか見物ね」
アシャンテを鼻で笑い、彼女はつと、人差し指を天へと向けた。アシャンテの顔が持ち上がる。
白かったはずの濃霧が、どす黒い靄に侵蝕されていた。乳白色の霧を侵し、のたうち回る靄の様子は蛇を彷彿とさせる。
靄の動きは、濃霧を食すほどより活発となり、ついにはアシャンテの体を包みこんだ。黒い靄は容赦なく顔に、腕に、足に、縄のように絡みついてくる。
完全に靄へと呑まれたとき、娘が笑った。馬鹿にしきった、しかし悔しげな顔のまま。
「お前だけが許されるなんてあたしたちは認めない。沈め、祟りに!」
嘲笑を皮切りに、アシャンテの意識が遠ざかる。夢から覚めるのかと思う。あざけりはこだまのように反響し、耳に残りつつも、少しずつ少しずつ消えていった。
※ ※ ※
(誰かがわたくしを、呼んでいる)
遠くから、声が聞こえた気がした。閉じたまぶたの外側、その明るさに顔が歪む。
「ん……」
「アシャンテ。……アシャンテ、聞こえるか、無事か」
焦りと安堵を混ぜたような声音に、アシャンテはゆっくりと目を覚ました。ぼやけた視界が、次第にはっきりとしてくる。
片手は人肌の温もりに包まれており、軽く目を見開けば、こちらを覗きこんでくるヴィグジュードのおもてがあった。
「……ジュード」
出した声はかすれている。喉の渇きと張りつく感覚に、つい、咳きこんだ。
「無理はするな、二日も眠っていた。痛むところはあるか? 返答は首ですればいい」
穏やかな顔つきと優しい声音に、一瞬、別の夢でも見ているのかと錯覚した。だが、握られた手の感覚が、紛れもない現実なのだと理解させてくる。
頭痛はない。痣の痛みもない。体がだるいこと以外、不調は感じなかった。
首を横に、わずかに振る。ヴィグジュードがうなずき、サイドボードにある水のコップを手にした。
アシャンテは気怠さを振り切り、ゆっくりと上半身を起こす。
「ここ、は」
自室ではない。青空を映す大きな窓と豪華なシャンデリア。夫婦の閨にあるベッドの上だとわかっても、不思議と嫌悪感は覚えなかった。
「倒れたあと寝室に移動させた。城の医者が言うには、お前は風邪をこじらせたそうだ」
「風邪……」
ヴィグジュードに差し出されたコップを、静かに握る。そこではじめて、片手が彼の手に包まれていることも理解できた。
水を飲み干し、息を正す。喉がうるおいを取り戻し、思考もはっきりとしてくる。
(悪夢を見たのは風邪だから? けれど、あの痣の痛みは本物……)
考えつつコップをサイドボードに置こうとしたとき、柔らかい感触と腕がぶつかった。
砂猫の編みぐるみだ。枕元に、ちょこんと置かれている。
「あなたが置いてくださったの?」
「……お前が好きなものだと思った」
返答した彼はどこか不機嫌そうで、また何かしてしまったのかとアシャンテは思うが、すぐにそうではないと気づいた。
ヴィグジュードの目元にはくまができており、瞳は眠たそうに、何度もまばたきを繰り返している。
「ずっとわたくしに、ついていてくださったのね」
「二日くらい寝ずとも……俺は別に問題ない」
不器用な返答に、アシャンテは微笑む。手から伝わる温かさ。編みぐるみ。自分を心配してくれていた事実――そのどれもが、真心となって伝わってくる。
「いいえ、寝なければお体に障りますわ。わたくしはもう大丈夫ですから。ジュードも休んで下さいまし」
「……ああ」
ぶっきらぼうな返事は、吐息にも似ていた。彼の中で、緊張の糸が切れたのかもしれない。ヴィグジュードは椅子に腰かけたまま、器用に半身だけをベッドへ倒す。
「あの。寝るなら自室で……」
言葉は、ない。安堵しきったような顔のまま彼は眠ってしまった。そのおもてがあまりに無防備で優しく、柔らかいものだったため、アシャンテの口角はよりつり上がる。
「ありがとうございますわ、ジュード」
起こさないよう、小声でささやいた。こうしていると、またなごやかな時間を共有できていると思えるため、どしがたいと自嘲する。
ベッドの白いシーツに、ヴィグジュードの黒髪がまぶしかった。コップを置いた手で、そっと髪の毛に触れてみる。
(祟りに、沈め……)
柔らかい感触に、しかし思い出すのは夢のことだ。ベッドの白さにたなびく彼の髪の毛は、否応なしに悪夢を想起させる。
近くの窓を見てみた。薄く自分の姿が反射している。
シュミーズドレス姿の体に、どこも変貌はなかった。痛みも不快感もない。胃のむかつきすらも感じず、ほっと胸をなで下ろす。
ヴィグジュードの頭に触り、互いに手を結び、そんな甘やかな時間を一緒にできることが嬉しかった。それでも心に拭い去れない不安が残る。
嵐の前は、静かなものだと決まっているのだから。




