4-4.確かにきっと、愚かなのだろう
頭痛よりも、痣の痛みがひどい。やすりで強く研がれるような、何度も刃物で切りつけられるような痛覚だ。アシャンテは己を苛むうずきに、自室で一人、耐えていた。
外では稲光が走り、雨の粒が閉じた窓にいくつもぶつかっている。マリーンやコルには具合が悪いと述べたため、部屋には明かりもない。ただただ、暗雲に閉ざされたような感覚に陥る。真っ暗な室内のソファーの上で、唇を噛み締めた。
「わたくしはお飾りの王妃。これは政略のための結婚」
ささやきが雷雨にかき消される。何度もつぶやく。言い聞かせるように、自らの立場を理解しろといわんがばかりに。
(少しばかり優しくされたから、気になったの? 勝手に失望して馬鹿みたい)
頭をよぎる嘲笑に、「そうだ」と負けん気の強さが頭をもたげる。
(あの男が誰を思おうと、優しくしようと関係ない。だってわたくしたちは……)
何を期待していたのだろう。甘やかな時間を共有したなど幻想だ。自分はただ、踏みつけられても再び咲き誇る花のように、強くあればいい。
「……でも」
気を抜けば、すぐに気弱な自分が現れる。ヴィグジュードとファラーニ、二人の姿が思い浮かぶ。
抱きついたファラーニを、彼はどう思っただろうか。いや、そもそもヴィグジュードを心配するような心すら持ち合わせてなかったのは、自分のはずだ。
「身勝手すぎだわ、わたくし。……こんなに醜い人間だったのね」
彼の気まぐれであろう優しさ。そんなものにだまされて、いい気になってしまったのかもしれない。調子に乗った自分か愚かなのだ。明日からはまたいつもどおりに過ごしていこう――そう考えていけば少しずつ、痣の痛みが消えていく。
ドレスの上から痣に触れ、一つ、ため息をついたときだった。
「アシャンテさま、マリーンです。入ってもよろしいですか」
扉を控えめにノックされ、顔を向けずに「どうぞ」と答えた。気遣いのできる彼女のことだ。もしかすれば夕食を、部屋に運んできてくれたのかもしれない。
ぶしつけだが、扉の方に目もくれず、立ち上がって小窓へと近づいた。背後で扉が開いた音がする。それにも構わず、ただ雷雲が立ちこめる空を見つめ続けた。
「具合が悪いと聞いたが、無事か」
「え……」
ヴィグジュードの声がして、とっさに振り返る。入ってきたのはマリーンではなかった。扉が閉まる途中、彼女が申し訳なさそうなおもてで、こちらを見ていたことに気づく。
だまされた、とアシャンテは眉を寄せた。
「ずるい方ですのね。マリーンを使うだなんて」
「こうやるほうが早いと思ったからな」
唾棄するように言えば、しかしヴィグジュードは平然としたそぶりで、蜜蝋の明かりをテーブルに置く。シャツ姿の彼は、珍しくマントも着けておらず、帯刀してもいない。
まくられたシャツの袖、適度に筋肉がついた左腕には、真新しい包帯が巻かれていた。
(傷が、できたのかしら)
胸の奥が多少、つきんと痛んだ。懸念と狼狽。
胸をよぎった二つをおくびにも出さず、アシャンテは彼から顔を背ける。
「お前の薬草はよく効く」
近づいてきたヴィグジュードが、柔らかな声でささやいた。アシャンテが思わず顔を向ければ、彼はどことなく嬉しそうな顔で腕をさすっている。
「あの中庭は当初とり壊そうと思っていたが、お前に任せて正解だった」
また、痛む。痛むのは痣でも頭でもなく、心だ。優しい声音に、どうしてこんなにも胸がうずくのだろう。何一つわからなかった。
「怪我をなさったんですの?」
「少し邪獣に引っかかれたくらいだ。支障はない。それよりお前の具合はどうだ。夕食にすら来なかったが、そこまでひどいものなのか?」
震える声を抑えて問えば、また、こちらをいたわるような言葉が返される。
黙って頭を横に振る。視線を落とし、ヴィグジュードの腕に巻かれた包帯を見つめたままで。
(傷つけていいのはわたくしだけ……彼を害するのは、わたくしでなければならない)
不意に、嗜虐めいた思いに囚われた。頭がぼんやりとする。思考がうまく定まらず、雲の上に浮いたかのような感覚に陥る。
「先程は、俺に薬草を届けようとしてくれたのだろう」
惚けたままのアシャンテに気づいていないのか、ヴィグジュードが近づいてくる。
「それは……」
「出迎えてくれようとする心遣いが、なんとなく、嬉しかった」
「別に、わたくしでなくともよかったのでは?」
自嘲めいた物言いが、とっさにアシャンテの口から漏れた。刹那「違う」と思っても、膨れ上がった不器量な気持ちが、憎々しい言葉を選ばせる。
「ファラーニさまのほうが、あなたのことをもっと思って」
「アシャンテ」
歪んだおもてを見られたくなく、うつむいてつぶやいた直後、我に返った。
名を、呼ばれた。出会ってからはじめて、名を、ささやかれた。その事実に気づいた直後、結った髪に手が伸びてくる。
「お前の言ったように、俺だっていつも喧嘩をしたいではない」
三つ編みを丁寧に持ち上げて、ヴィグジュードは小さく笑った。
「わ、たくし、は」
アシャンテの心臓が跳ね上がる。声がうわずる。
憎い――許せない――と暴れる心の反面、彼の譲歩を嬉しいと思う気持ちもあった。髪に触れられて不快でないとすら感じる。
「ファラーニとは何もない。断じて。お前が信奉する龍に誓っても構わない」
清々しいほどの断言に、のろのろと顔を上げた。真摯なおもてがそこにはある。鼻梁の通った顔立ちが、紫色の双眸が、しっかりと自分を見つめている。
「また、お前に触れてもいいだろうか。アシャンテ」
またもや名を呼ばれ、閉じていた唇が空気を求めて、開いた。
今、己はどんな顔をしているのだろう。間抜けな顔つきだろうか、歪んだ表情だろうか。目の奥がじんわりと熱くなる。脈打つ鼓動が警鐘のように騒がしい。
(ほだされるの? お前を乱雑に踏みにじった男なのに)
許せないという憎悪めいた思い。
(刃物を向けてくるような危険な男だわ。優しさなんて所詮、一時的なものよ)
殺したいという不可思議な感情。
(お前は百合の痣を持ちながら、その男を許すというの!)
自分が分裂したかのような、己以外の誰かに成り代わったかのような、感覚。
混乱する思考の中、優しく明るいレルマの声が、鮮やかによみがえる。
――アシャンテとして抱く気持ちを忘れてはいけないよ。
「わたくし……」
詫びるように贈られた、積み上がったプレゼント。砂猫の素朴な編みぐるみ。遠慮がちに頬を触る指。怖いという本音。
振り返れば、どれもが彼の誠意だ。ヴィグジュードは一歩どころか、二歩、三歩も自分に歩み寄ってくれている。
「ジュード、わたくしは」
声が、自然と震えた。
ものにつられたわけではない。ファラーニのこともまだ、ある。しかし、懸念に囚われたまま立ち止まった己を、彼は真っ正面から受け止めようとしてくれている。
ぎこちなく、笑った。心臓が早鐘のようだ。頭の中では罵声が響いてやまない。それでも今、ヴィグジュードに微笑みを返さなければ、自分が自分でなくなるような気がした。
そう感じたからこそ、怯えつつも、髪を梳く手に指を伸ばす。
少し冷たい温もりが心地いい。ヴィグジュードの安堵したような笑みが、嬉しい。
「触れて」と声にしようとした、刹那だ。
(愚かな娘!)
怒号が脳内にほとばしった瞬間、今まで以上の痛覚が、痣から全身を駆け巡る。びくりと背筋が跳ねた。
「アシャンテ?」
「あ、ああ……」
冷たく鋭い痛みは全身を串刺しにし、呼気を止める。小さくうめく。体が折れる。激しい痛覚によって息を吸うこともままならず、周囲の様子がより深い闇に落ちていく。
「た、す……け」
「アシャンテっ!」
焦燥しきったヴィグジュードが、急いで腕を伸ばし、体を支えてくれた。
(わたくしの名を……もっと、呼んで)
自然と暗闇へ落ちゆく意識の中、激痛よりも優しい温もりが自分を包んでいる――そう認識できたのも束の間で、浅ましい願いを胸に、アシャンテは自我を手放した。




