1-2.知らぬ感情は誰がために
――誰かの話し声が聞こえる。火の音もする。体はまだ、動かない。
指の動きが鈍いことを瞬時に判断し、それでもアシャンテのまぶたはつい、開く。
周囲を軽く見れば、倉のような場所だということがわかる。周囲には干し肉と酒瓶の山。強い酒精の香りが、やけに鼻につく。どうやら薄い暗がりの中で手を縛られ、暖炉近くに転がされているらしい。
「痣を見たのか」
凍土のような、低く冷たい男の声が響く。
視線の先、椅子に腰かけた人物は一人。その人物の近くにも別に足が六本あり、三人が背後に控えていることは確かだ。
「へえ。踊っているときに確認しました。胸にあるのは娘も見ましたし」
「なぜ火隆の国の王女が、踊り子などに身をやつしている」
「し、始者としての力を持っていないからですよ。力持たずの王女なんです。ザハ王の命令で王宮を追われて、慰安の旅に出たってぇ噂はよく聞いてます」
「ならばあれが本物の王女だと?」
「そうです、長い耳に百合の痣……アシャンテ王女に違いねえかと」
二人の会話を聞き、アシャンテは無意識に唇を噛みしめた。
花をくれた少女の父が、自分を売ったのだ。だが、誰に。相手は一体、何者だろうか。
始者――国を守護する結界を張り、次の王座に就くべき存在となれなかった王女。天に座す龍の加護を受け継がなかった自分が、王宮から出されたことは国民の噂となっている。
(……解せませんわ)
アシャンテは目をつむり、未だぼうっとする頭で考えた。三年前、アシャンテが十五となり廃嫡された際に、父王ザハは「娘に関して身代金の要求には応じない」という布令まで出している。とすると、金銭目的でさらったのではないだろう。
殺すなら、あるいは陵辱するならとうにされているはずだ。生かして、かつ自分を王女だと確認し、連れてきたことに謎が残る。
(マリーンは、どこ)
目を開けた。体を動かさず、気取られることがないよう、視線だけで周囲をうかがう。
少し離れた暖炉の前に、彼女はいた。同じく手を縛られて。まだ眠っているのか、それとも内密に会話を聞いているのか、身動ぎもしない。
マリーンは昔から、アシャンテの面倒を見てくれていた侍女だ。王宮に残ることを選ばず、自分と同じ舞巫女として神殿に下った。少しの支度金だけを持たされ、王宮を追い出されたアシャンテにとって、マリーンの存在がどれほど心強いものだったか。
(せめてマリーンだけでも逃がさなくては)
十八になった今まで、世話になった。だからこそ彼女には幸せになってもらいたい。
だが、手は巧みに縛られている。なんらかの薬――あの甘い香りを嗅がされたせいか、体全体が少しけだるさを残していた。男たちの気を逸らしてマリーンを逃がせたとしても、走らせることはかなわないだろう。
(……近づいてくる)
思案に暮れるアシャンテが息を飲んだのは、何者かが立ち上がる足音を聞いたからだ。目をつむり、寝ているふりをするかどうか迷い――
「あなたの目的はわたくしでしょう」
結局、口を開いた。寝転んだまま、青い軍靴の先をじっと見据えて。
「あなたたちが言うとおり、わたくしがアシャンテ・ナルシュですわ」
男からの返答は、ない。
ようやく体に力が戻ってくる。前に縛られた手で上半身を起こし、少しふらつきながらも顔を上げた。
「なるほど」
そこで見たのは、長身の氷像……いや、氷と見間違うほどに冷徹で、端整な顔を持つ男だ。
背中までの黒髪はまっすぐで、かがり火に照らされ、黒曜石のように光っている。つり目に近い双眸はトリカブトにも似た紫。きれのような茶色のローブとマントを羽織っても、その美貌は色あせていない。
一瞬、アシャンテは眉を寄せそうになった。どこかで見たことがあった気がして。
(気のせい、かしら)
いや、単なる勘違いだろう。ここまで見事に、野性味と繊細さをかねそろえた顔、雰囲気を持つ人間は、一目で記憶にも残るはずだ。
男は無遠慮にアシャンテを見つめている。それこそ穴が空くように。視線の鋭さ、殺気は、砂漠で出会う邪獣のものよりもひどく冷たい。
「そいつに金を渡せ」
男が命令すれば、顔を隠した人物の一人が、ふところから何かをまさぐりはじめる。
「金を持って立ち去れ」
「へ、へい……」
申し訳なさそうな声を出し、麻袋を手渡された中年は、奥にあると思しき扉から足早に去っていった。
しばらく無言で、アシャンテは男と視線をあわせる。
憎しみ、怒り。そればかりを目線にこめられ怪訝に思うが、決しておもてには出さない。瞬間、肝が冷えたのは、男が無造作に短刀を手にしたからだ。
彼の動きは滑らかだった。目をあわせたまましゃがみ、器用にアシャンテの着るローブの胸元を、刃で裂く。
「……百合の痣」
視線が、逸れた。胸にある痣を長く見つめられ、それでもアシャンテは動揺しない。
「ようやく見つけた」
男の声が、わずかに弾んでいるように感じる。言葉の意味はわからないが、これで彼の標的は自分なのだと再認識できた。
「目的がわたくしだというなら、彼女は解放して下さいまし」
「あの茶髪とどういう関係がある」
「わたくしの面倒を見てくれていたものです。今は同じ、舞巫女ですけれど。あなたの標的はわたくしなのでしょう。なら、彼女は関係ありませんわ」
「始者になれない役立たずの王女が、口はよく回るようだな」
男がせせら笑う。嘲笑に、アシャンテは何も言わなかった。
邪獣や災厄、疫病から国を守る結界を張るもの。他の国では神と呼ばれる龍、その寵愛を得る存在たる始者。本来ならば、王族は五歳で力を扱える。
だが、アシャンテは十五――成人になっても力の兆候が現れなかった。だからこそ王女の座を追われたのだ。
それでも、大人になるまで根気強く待ってくれた父に感謝することはあれど、恨みなど毛頭ない。
「よくもぬけぬけと生きていた」
「あなたのためではないでしょうけれど」
男の皮肉に、アシャンテは片方の眉を釣り上げて答える。冷たい短刀の切っ先が、遠慮なく肌に触れていたが、ここで死ぬなら仕方ない。
それはあきらめでも落胆でも、悲哀でもなかった。死は身近なものだった。もとより望まれていない命だったのだから。
王宮では力だけを求められ、行使できないことに対する失意の渦で生きていた。踊り手として、舞姫として慰安の旅に出ていたのも、民への罪悪感から。
(わたくしは今を生きていた。それだけで充分)
強く思い、男を睨み返した刹那、片手であごを掴まれた。
「死を覚悟しているな」
「だとしたらどうなさるの?」
男の整った顔が、あざけりで歪む。
「醜い顔だ。腐るほど見飽きた顔だ」
いまいましげな口調に、アシャンテはついに眉をひそめた。
一体彼は、何を言っているのだろう。初対面で、まるでアシャンテを知っているかのような物言いばかりする。
そう考えていけば、不思議とふつふつ、腹の奥底から怒りが煮えたぎってきた。いや、これはもっとひどい。怒りに加え、憎しみと恨み。今まで覚えたことのない感情。
(何? わたくしに、一体何が起きているの)
「お前は、俺が、憎いはずだ」
困惑するばかりのアシャンテを見てか、男が内面を言い当ててくる。
「怒りや恨み、憎しみ、殺意。奇麗な表面にどす黒い感情を隠して生きている女、それがお前なのだから」
「……誰と重ねているのか知りませんけれど。初対面の人間に、ずいぶんとあけすけにものをおっしゃるのね。いいご身分ですこと」
こんな言い方、普段はしない――口から飛び出た言葉に、アシャンテは内心で驚いた。だが、それらを瞳にも表情にも出さない。
この男から逃げてはいけないと、不可思議な思い、意固地さが芽生える。
再び沈黙が降りた。紫の瞳に、薄く自分が映っている。その事実が不思議と、背筋を震わせた。
「姫、さま……」
苦しげなささやきに、我に返る。視線を外し、マリーンを見つめた。
「マリーン、大丈夫ですの? 何もされていない?」
「だ、いじょうぶ、です。あたしは、平気」
どうやら薬の効果が薄まったようで、彼女もまた、身を起こした。頭がぼうっとしているのだろう、若干苦しげな様子だったが。
不意に男が手をあごから外し、立ち上がる。アシャンテは彼を見上げることしかできない。
「聞け、王女。いや、無力な舞巫女よ」
男は悠然とした足取りで、唯一ある椅子に腰かける。
「お前を足がかりに、我が帝国グラモーズと、火隆の国との同盟を結ばせてもらう」
「グラモーズ? ……まさか、あなたは」
アシャンテは思い出した。サラ海を渡った先にある群島国。それらを束ねる帝国の若き王の外見を、王宮にいた頃、聞いたことがある。
流れる黒髪はうるわしく、切れ長の双眸、その紫は凍てついた水晶だ、と。
無表情のまま、男――若き帝王はアシャンテを冷酷にねめつけた。
「我が名はヴィグジュード。お前の夫となるこの名を、忘れるな」




