1-1.踊りと星と暗躍と
一瞬のことだった。
刹那、だが己にとっては永劫とも呼べる合間の中。
つやのない銀の短髪を風にくゆらせ、赤い瞳をこちらへ微塵もくれずに、ただ前を見据えて。
バルコニーから、彼女は飛び降りた。
軽い肢体からどうしてそんな音を立てられるのか、疑問に思うほどの衝突音。
次第に血が流れ出す。赤い、赤い血。生きていた証拠だったそれが草と大地を染め上げる様を、何も言わず、ただ、黙って見つめていた。
※ ※ ※
打太鼓、弓奏楽器、笛の音が青空にけたたましく響く。雲一つない日照りの中、子どもたちが顔を輝かせ、歓声を上げて舞台前に集まってくる。
大人――住人たちの顔には疲労感がただよっていたが、自分たち舞い手を見て少し明るくなった、と思うのはただの願望からかもしれない。アシャンテは希望的な見方を恥じた。
「ここ、火隆の国の港町に参上しましたのは舞い手の一団」
潮風にターバンを取られつつ、仲間の一人が声を張り上げる。その一瞬で、アシャンテは即座に意識を舞い手のものへと変えた。サンダルに体重をかけ、いつでも飛び出せる心構えにしておく。
「舞いを見せるのは、ヨゥ、マリーン……そして我らがアシャンテだ!」
周囲から歓声が上がった瞬間、二人の踊り手と共に舞台へ駆け上がった。
肌を多く見せる舞巫女の赤い服、金メッキの装飾、革のサンダル。アシャンテが着用しているものは多少、他二人の仲間より豪華だった。
腕を伸ばし手をくゆらせ、腰をひねり、大きくなる楽器の旋律にあわせて、舞う。白磁と称される素肌に陽射しが照る。それでも全く日焼けをしないのは、民族的な特徴だ。
長い銀の三つ編みに、体をぶつける無様なまねは見せない。真っ赤な瞳を鋭く、ときに柔らかく旋律の調子で巧みに変え、体全体で調和を生み出す。
舞姫の名を呼ぶ声は怒号にも近いコーラスとなり、大衆の盛況はうねりとなって砂漠にかげろうを作った。
(わたくしをさげすむものは、今、いない)
跳び、そして回り、舞台全体に自身の存在を主張しつつ、アシャンテは思う。
(踊ることが幸せ。わたくしの使命)
長い足を伸ばして半月を描く。観衆が持ってきた鈴の音も、楽器に負けず劣らずだ。
(わたくしは、舞い手。ただの踊り手アシャンテ)
爪先、指の先までに力をこめて、ラストスパートの猛烈な箇所を踊り上げる。息が切れる。汗が飛び散る。だが、笑う。再生の喜びと名付けられた曲に、苦しさは似合わない。
打太鼓がひときわ激しく叩かれた直後、青空に向かい、あごと片手を跳ね上げた。
心臓の音が大きく、響く。途端、耳に入るのは舞い手をたたえる口笛と声援だ。
「みなさま、今一度! 見事な舞い手と楽器隊に盛大な拍手を!」
仲間のかけ声も弾んでいる。無事、慰安の公演は終えられたらしい。
ゆるりと腕を、おもてを戻したアシャンテは、鳴りやまない拍手の中で一つ腰を下げ、屈託なく微笑んだ。
飛んでくるおひねりやアンコールの要望。それらをさばくのは裏方たちの仕事だ。あとのことを仲間に任せ、踊り手二人と舞台を降りる。
「あ、あのっ」
舞台横、近くに駆け寄ってきたのは、町民と思しき少女だ。紅潮した頬にあどけない瞳。年の頃はまだ十にも満たないであろう娘を見て、アシャンテはしゃがみこむ。
「どうなさったの?」
「これっ、みなさんに!」
「あら、ミミナグサ? 奇麗ですわね、摘んできて下さったの?」
白い花の小さなブーケを三つ手に取り、微笑んだ。少女が何度もうなずく。
「ありがとう。二人にも渡しておきますわ。大切にしますわね」
「ん、んっと……アシャンテさん」
「何かしら、小さなお客さま」
「アシャンテさんの耳は、どうしてウチらのより長いの? 胸の赤いのは、タトゥー?」
「……先祖返りですの。痣は生まれつき。先祖返りの話は、大人の方に聞いて下さいな」
一瞬間を置いたが、うまく笑えたはずだ、とアシャンテは思う。指摘された身体的特徴は隠しようもない。特に、両胸中央にある百合の痣と長い耳は、舞い手の服を着ていてなお目立つだろう。
「アシャンテさん、王女さまと名前、いっしょだね。ほんものかと思った」
「王女さまならきっと、今ごろ王宮で勉強の時間ですわ。あなたも負けずに頑張って」
「うん! 三人とも、すごい踊りをありがと!」
手を振った少女は、立ち上がったアシャンテの返事を待たず、来た道を走って戻っていく。その先には父親と思しき男がおり、こちらを見て軽く頭を下げていた。
手を繋ぎあい笑う父子の姿に、刹那、遠い昔を思い出す。二人の様子がまるで蜃気楼のようにも思え、つい背中を見送ってしまった。
「大丈夫ですか」
「……大丈夫ですわ、マリーン。これ、あなたもどうぞ」
背後にいた踊り子のマリーンへブーケの一つを渡し、代わりにタオルを受け取る。彼女の澄んだ鳶色の瞳に懸念の色を読み取り、アシャンテは苦笑をこぼした。
「本当に平気。少しぼうっとしてしまっただけですの」
「それならいいんですけど」
「ええ。さ、野営の準備もしなくては。噂の人さらいに会わないようにも」
砂を踏みしめ、荷物の出し入れをしている幌馬車に二人で近づく。もう一人の踊り手はとっくに中へ入っているようだ。
「次の町はオアシスでしたよね。砂海を渡らずステップを通るって聞きました」
「砂馬に負担をかけないためでしょう。忙しいのはいいことですわ」
「もう少し休みたいですけど、あたしは」
「慰安のための披露会ですもの。わたくしたちが休憩するのは、まだ先ですわね」
ふと、アシャンテの頭上をワシが飛ぶ。一瞬だけ日陰ができる。つられて天を仰ぎ、太陽に目を細めた。
忙しければ、何もかもを忘れられる――そんな自嘲じみた考えは、すぐに消えた。
※ ※ ※
火隆の国。それは広大な草原、山稜と砂漠を持つ大国だ。ジル・タト大陸を四分割する四大国の一つである。サラ海を二日かけて渡ったところには群島帝国があるも、今はまだ各国争うことなく、人間同士の戦渦は広がらずにいた。
(それはもちろん、喜ばしいことだけれど)
ヤギの乳を温めたものを飲み、アシャンテは焚き火を見つめる。かがり火が心地よい音を立てて爆ぜていた。砂漠近くの夜は冷える。毛布を肩にかけ、縮こまりつつ、ミルクを少しずつ口に含んだ。
「まだ眠れないんですか?」
馬車裏から近づいてきたのはマリーンだった。アシャンテと同じく舞い手の服に夜着用のローブをまとっているも、この様子だと彼女も寝ずにいたのかもしれない。
アシャンテはうなずき、彼女へ錫のカップを差し出す。かすかに首を横に振られ、そのまま視線をマリーンから外した。
マリーンはアシャンテの横に腰を下ろし、茶色の短髪を掻き上げながら、笑う。
「覚えてます? 星のこと。御国星に丸美星……空利星、絡斗星」
天を仰いで言われたアシャンテもまた、顔を夜空に向けた。今日は新月だ。代わりといわんがばかりに星がまたたいている。最近、とみに勢力をつけた邪獣たちも、新月の日だけは大人しい。
「あなたから教えられたことは、何一つ忘れていませんわ」
「月は嫌いですもんね。代わりに星の名前ばかり聞きたがって、昔から姫さまは」
「マリーン」
「……失言でした、アシャンテ」
少しの間、ぱちり、ぱちりと火の爆ぜる音だけが響く。仲間たちのいびきも多少、聞こえた。人の気配は感じない。立ち聞きされている様子もない。
「あなたにはこの三年、迷惑ばかりかけていますわね」
「そういうこと、言います? 今、自分から注意してきたばかりなのに」
マリーンの軽口でアシャンテも気が楽になり、小声で笑いあう。アシャンテはミルクを飲み干し、体を温めたところで膝を抱えた。
「あなたまでついてこなくてもよかった」
「だめです。あたし、昔から猫とか犬とかの面倒見るの、好きですし」
「わたくしって犬猫なの?」
露骨に唇を尖らせば、マリーンは肩を震わせる。「もう」とつぶやき、アシャンテは目を閉じた。
冷たい風が頬を撫でていく。さえざえとした空気の中で深く呼吸をすれば、体の奥底に力がみなぎる。尻と足の裏につけた砂地、そこからも活力をもらえる気がした。
だが。
「……あら?」
刹那、風の匂いに混じって、どこかから甘ったるい、バラのような香りが流れてくる。そう気づいた直後、めまいがした。
「え、あ」
「これは……姫、さまっ……」
「マリー……ン……」
歪む視界。ふらつく体。乾いた音を立て、手にしていたカップが落ちる。
甘い香りは次第に強まり、アシャンテはとっさにマリーンの手を掴んだまま、その場に倒れこんだ。
自分ではどうしようもない睡魔の中、気絶する最後に見たのは、黒い装束に身を包んだものたちの姿だった。




