4-2.優しさは腐らない
まるで全身が溶けていく感覚を心地よい、と思った直後、弱い雷のような痺れが胸の痣から走る。多少の痛みに、思わず顔が歪んだ。その様子を見ていたためか、ヴィグジュードが眉を寄せ顔を離す。
「どうやら不快だったようだな」
「い、いえ。胸が痺れて。少し痛くて」
「頭痛以外にも不調があると?」
「今は治っておりますわ。けれど、痣がうずくというか……」
編みぐるみを握り、アシャンテは自分の胸元を見てみた。百合の痣に変わった様子はない。小首をかしげて指でなぞってみるも、覚えた違和感は奇麗さっぱり消え去っている。
自身の不調を疑問に思うしかできないアシャンテに、それでもヴィグジュードは心配するような面持ちで、また頬に指を当ててきた。
「朝食にはこられそうか。リーリとの茶会もあると聞いたが」
「ええ、平気ですわ。本当に一瞬、痺れただけですの。もう痛くもありませんし」
「そうか。無事ならばそれでいい……手を」
唐突に手のひらを差し出され、アシャンテは目をまたたかせる。手と彼の顔を見比べれば、ヴィグジュードが視線を彷徨わせた。
「共に食堂へと、思った。お前がいやでなければ」
苦いものでも食べたかのような顔は、それでも少し赤い。贖罪、不器用――そんな単語がアシャンテの脳裏に浮かんだ。
(無理やり連れさらい、体を暴くような男よ。心までほだされるつもり?)
同時に脳内に横切るはせせら笑いだった。そのとおりだと思う。心まではと誓ったはずだ、百合の痣に。
しかし、彼のわかりづらい優しさと譲歩が、歩み寄る一歩を選ばせる。
「お願いしますわ、ジュード」
編みぐるみをベッドに置き、そっと手を載せた。ヴィグジュードが安心したように、穏やかな眼差しを作る。その視線に、アシャンテはつい、口元をほころばせた。口角が自然と上がることなど、一体いつくらいぶりだろう。
エスコートされつつ、アシャンテはレルマがいたテーブルの方を見る。彼はいつの間にか姿を消しており、クルミの残骸だけがあった。
※ ※ ※
「都に行きたい、だと?」
デザートであるりんごの蜜がけを口にしたヴィグジュードは、アシャンテの言葉を繰り返し、眉を寄せた。近くに腰かけていたアシャンテは、ナプキンで唇をぬぐったのちうなずく。
「ええ。せめて正式な王妃となる前に、どのような国かを確かめたいのですわ」
「リーリのやつに何か言われたか」
「リーリさまにうかがったのは、皆さまがまだ疲弊してらっしゃること。龍の千年祭も執り行われること……その二点だけですの。祭りに行くなど大胆なことは望んではいませんけれど、何かわたくしにもできることがないかと思ったのですわ」
「お前を都に向かわせることは、難しい」
「そう、ですの」
にべもなく言われ、少し視線を下げた。
龍官長であるリーリ、そしてレルマから聞いた王都と民の様子は、アシャンテの心を惹くに十分なものだった。それでも彼と信頼関係も築けていない状態で、王妃のまねごとをするなど、せせら笑われてもいいところだろう。
「誤解するな。都には邪龍信徒がまだ、幾人も隠れている。あらゆる犯罪を是とするやつらにとって、お前は格好の的となるはずだ。危険にすぎる」
しかし、返ってきたのは意外な言葉だった。自分の身を案じているような返答に、アシャンテは内心で戸惑う。今日の彼はあまりにも甘く、穏やかな気がして。
変なものでも食べたのか、と口を滑らせかけたが、アシャンテは憎まれ口を閉ざした。
「わたくしのことは、まだ皆さまに知らせていないのでは?」
「……目立つだろう、その容姿なら。先祖返りをしているものは帝国に多々いるが、そこまで白い肌を持つものは少ない。四大国出身だと一目でわかるはず」
代わりの問いかけに、ヴィグジュードは悩んでいるような面持ちで、一かけのりんごをフォークでつついている。
これはリーリから聞いたことだが、アシャンテのように先祖返りをしたものは、大国より帝国の方に多く見られるらしい。北方民族との混血でそうなったのかはわからないが、己の特徴である長い耳は、ここでは珍しくないという。
「信頼できる人間で固めてはいるが、同盟の話が漏れているかも不明だ。千年祭までにはなんとか準備を整える。今は、耐えろ」
「……わかりましたわ」
悩みあぐねたのちに放たれた彼の言葉に、反発したい気持ちがないといえば嘘になる。だが、自分のことを考えてくれていると、不思議にも素直に受け止めることができた。
実直な答えに、ヴィグジュードはどこか驚いた様子だ。
「ずいぶんと従順だな。何かあったのか」
「わたくしだって、いつでも喧嘩をしたいと思っているわけではありませんの。あ、あなたが……あなたがその、優しいから」
「俺は優しくなどない。お前が一番よく知っているはずだ」
沈痛なおもてを作る彼を、アシャンテはじっと見た。何かを耐えている顔だ。
今にも泣き出しそうな顔つきを、鼻で笑うことはたやすい。ばかにして撥ねつけることもできるだろう。それでも、ヴィグジュードの誠意がこめられた贈り物や不器用なエスコートを思えば、もう一歩、歩み寄りたいと感じてしまうのだ。
甘いのかもしれない。ほだされたのかもしれない。しかし、人の厚意を無下にして踏みつけるほど、自分は腐っていないと信じる。
「今までを鑑みれば、十分に優しいですわ」
ナプキンを置き、拳を作ったヴィグジュードの手に、そっと指を重ねた。ノイバラを握ったあの指を。彼が握り返すことはない。それでいいとさえ思った。
幼子のように、迷子のようにおもてを上げるヴィグジュードへ、アシャンテは苦笑を漏らす。目をつむり、悩んだ末、安心させるべく苦笑いを微笑みに変えた。すると彼は、悲痛さを紫の瞳に宿す。
「……恐ろしいと思う」
「何が、ですの?」
「お前が譲歩してくれることを。笑ってくれることを。全て嘘ではと感じてしまう」
「わたくし、嘘は嫌いですわ。自分でつこうと思ったこともありませんもの」
「そうだろうな。お前は……清廉だ。怖いくらい、腹が立つくらいに、清らかだ」
悲しい眼差しのまま、遠くを見ながらヴィグジュードはつぶやいた。手が不意に動き、アシャンテの指をまるごと、手のひらが包みこむ。
頬を触った、いや、体中をまさぐったことのある手のひらの熱に、アシャンテは自分の顔が赤くなるのを自覚する。今更引っこめようとしても、力が強くて叶わない。
「あの、その……」
何を言えばいいかで悩む。ヴィグジュードはただ、こちらを見つめている。
切ない瞳にアシャンテは小さく唾を飲み、きまりの悪さを疑問に変えて口を開いた。
「一つ聞きたいのですけれど……どうしてわたくしの部屋のバルコニーは、あのように閉ざされていますの?」
「お前が飛び降りるからだ」
しっかりとした物言いに、呆気にとられる。思わずかぶりを振った。
「わたくし、自死を選ぶようなまねはしませんわ。侮辱になりますもの」
「何に対してそう思う」
「わたくしを育ててくれた全て……マリーンや他の女官、父に対して示しがつきませんわ」
今度はアシャンテがきっぱり答える。小気味いい返事にだろうか、彼は泣き出しそうなおもてを正し、首肯した。
「やはりザハ王は賢王だな」
「最高の褒め言葉ですわ、それは」
アシャンテも顔をほころばせる。彼に見せた中で、一番柔らかい笑顔になったはずだ。その事実に気づいたのだろう。ヴィグジュードもぎこちない、今度はしっかりとした笑みを浮かべた。
それ以上、互いに何も言うことはない。それでも、りんごにかかった糖蜜がとろけ、窓から入りこむ陽射しにきらめくまで――はじめて心安らぐ穏やかな時間を、アシャンテはヴィグジュードと共有し続けた。




