4-1.今までにない、熱
何度も何度も、目の前で血を流す彼女を見て、頭がおかしくなりそうだった。
どうにもできない苛立ちと、怒り。そして悲しみ。切なさと愛しさ、腹立たしさ。
相反する感情で、心が引き裂かれそうになる。
あのとき、血をまざまざと見たとき、それが己の逆鱗に触れた。
なぜ同じことをするのだと、問うこともせずに。
※ ※ ※
アメジストとダイヤモンドが光る首飾り。レースに小粒の真珠が編みこまれた手袋。馥郁たる香りをただよわせる香水――自室に置かれた数々の装飾品に宝石、その他諸々を見て、アシャンテは呆気にとられた。
「なんなんですの、これらは」
「陛下からの贈り物です。アシャンテさまがこの城へ来てから二週間も過ぎておりますが、そろそろ本格的に、着飾ることを覚えなくてはなりません」
相変わらず淡々とした口調で、コルはアシャンテの髪を梳きながら言う。
「リーリさまから聞いておりますわ。グラモーズの皆さまは未だ大変な苦労をなさっているとか。そんな中、わたくしばかり贅を尽くしていいのかしら」
「お言葉ですが、王妃さますらみすぼらしいままでは、逆に民が不安に思いましょう」
「……そうですわね」
妃という言葉を聞き、アシャンテはうんざりとした気持ちになる。
約一ヶ月前の夜、ヴィグジュードに純潔を散らされたあと、幸いにしてほとんど体を求められることはなかった。たまに閨を共にしても、背中を向けて眠るだけ。時には互いに手にした刃を見せつけ、離れて床に座り、牽制しあうことすらある。
それでもグラモーズはザハ王、すなわち火隆の国との外交をうまく進めているらしい。今は風流の国も大人しいと聞かされた。故郷を思えば、戦火を交えることなく済むならそれでいい。
専用の青紫のドレスに華美すぎない宝飾品。ローズマリーの香水も含め身支度を終えたアシャンテは、いつものように柔らかい三つ編みに髪を結ってもらい、うなずいた。
「お疲れ様ですわ、コル。今日は朝食のあと、リーリさまとの茶会があるので、わたくしはそれまで自室に」
「承知しました。何かご入り用でしたらすぐにお呼び下さい」
一礼し、退室していく彼女を見送ったのち、姿見の前へとおもむく。
全身、ヴィグジュードから与えられたもので包まれていることを思えば、完全に彼の所有物となった気がして滅入った。
(でも、心までは……あなたのものにならなくてよ、陛下)
空いた胸元から覗く百合の痣に、そっと指を添える。ノイバラの怪我も軟膏で治り、傷痕のかけらも見られない。
(この百合の痣がある限り、わたくしはわたくし)
そう思い、一人まなじりを決したときだった。
『アシャンテ、助けておくれよ!』
「レルマ?」
ぴりり、と焦った鳴き声に窓へ目をやる。
窓の外の縁にレルマがいた。褐色の羽はぼろぼろで、全面的に薄汚れている。
鳥の姿に、アシャンテはあの夜の自分を重ねた。短刀でドレスを斬られ、肌を露出させられたときの己と。
「一体どうなさったの? さあ、中に入って」
だがすぐに恥辱を頭の片隅にやり、窓を開けてレルマを出迎える。
レルマはふらつきつつも、すぐさま体を押しこんで室内へと入ってきた。
『いやあ、カラスに追いかけ回されたのさ。全く、やつらときたら加減を知らない』
「それは災難でしたわね。何かぬぐうものを?」
『あとで水浴び用の皿を貸してくれたまえ。それから』
「ええ、木の実を用意してますわ。クルミでいいかしら」
『助かるよ。最近は都にも木の実が落ちているけれど、カラスが狙ってばかりいてね』
珍客は自らの体をついばみ毛繕いしつつ、テーブルの上で身をうずめる。
アシャンテは微かに笑みを浮かべ、マリーンが用意してくれているクルミと水皿を、サイドボードからテーブルへと移動させた。
レルマが来るのは久しぶりだ。謎めいた鳥に、未だ警戒心がないといえば嘘になる。それでも話し相手になってくれているのはありがたい。
「あなたは町から来てらっしゃるの?」
『普段は王都にいるのさ。あそこは戦火をまぬがれていてね。大々的な港町だから、新鮮なものが食べられる。まだまだ貧民は多いけれどね』
「港……そうでしたわね、確かに活気がありましたわ。少ししか見ていませんけれど」
ここに来たときはまだ乙女だった――と心中で自嘲し、唇が歪む。それに気づいたのか、レルマは首をかしげた。
『どうしたんだい、何かあったのかな』
「いいえ」
何をどう言えばいいのか悩み、そもそも鳥に嘆いてもはじまらない、とアシャンテはかぶりを振る。ヴィグジュードに無理やり体を暴かれたことを赤裸々に語っても、レルマにはどうすることもできないだろう。
だが。
『ヴィグジュードがどうかした? いや、ヴィグジュードと何か、かな』
「……どこまで知ってらっしゃるのかしら」
『丸一日、二人で閨を共にしたと。護衛や侍女のものが話していたからね』
「知っていて聞くなんていじわるな鳥ですわ。わたくしは思い出したくもないのに」
含みを持ったレルマの物言いに、アシャンテは肩を落としつつ茶をすする。
「これ以上、その話はしたくないですわ」
『おや、機嫌を損ねてしまったかな』
「いい加減にしないとこれから用意する木の実は全部、ナナカマドの実にしますわよ」
『苦い苦い。それは勘弁してほしいな。今のうちにクルミをいただいてしまおう』
慌てた様子でクルミを食べはじめたレルマを尻目に、ソファーから立ち上がり、相変わらず開くことを知らないバルコニーの鉄板まで近づいた。
板に手で触れてみる。冷たい。ひやりとした感触は背筋を自然と奮い立たせる。
(どうしてここは閉ざされているの。陛下の母君と関係あるのかしら)
『それにしても、すごい数の贈り物だ』
「何か欲しいものがあって? 好きなものを持っていっても構いませんけれど」
振り返り皮肉の笑みを浮かべれば、レルマは器用に羽を震わせた。
『ヴィグジュードに悪い。それらはきっと、君に対しての贖罪の証しだろうから』
「謝るくらいなら、悪いことをしなければよろしいのに」
レルマの言葉に、アシャンテは唇を噛みしめる。だが、不意に昔のことを思い出した。
(ザハ王も、何かあるとすぐに贈り物をしてきましたわね)
力持たずの自分に、それでも優しく接してくれた父のことを考える。彼は、不器用だった。幼子特有のかんしゃく、寂しさで泣きわめくアシャンテをたしなめつつも抱きしめ、あやしながら本や菓子を与えてくれたときの困ったおもて。今や蜃気楼のように遠い。
それとは比べるべくもない――と考えつつ、ベッドへと視線を戻す。ドレスの中に埋もれた編みぐるみを見つけた。砂猫のものだ。琥珀のようなボタンの目に、つい苦笑が漏れてしまう。
「わたくしを乳飲み子だとでも思ってらっしゃるのかしら、陛下は」
『君はなかなか手厳しいね。けれど、それでわかるだろう? ヴィグジュードの真意が』
「確かに砂猫が好きだとは言いましたけれど……」
ベッドに近づき、編みぐるみの砂猫を手に載せた。素朴なそれに、不思議なことに温かみを感じてしまう。
温もりにほだされ、編みぐるみを胸に抱き寄せたときだった。
扉がノックされる。「どうぞ」と返す暇もなく扉が開く。こんなことをするのは、ヴィグジュードくらいしかいない。
黒髪と群青色のマントをなびかせ、入室早々、彼は露骨に周囲へ目を配る。アシャンテは片眉をつり上げ、ため息をついた。
「陛下、せめて返答を待ってから入ってきて下さいまし」
「話し声が聞こえたからな。幻覚や幻聴に踊らされていると思った」
不遜に笑むヴィグジュードが、次の刹那には驚いたように目を見張るもので、何があったのかとアシャンテは小首をかしげる。
「……気に入ったのか」
「何がですの?」
「そのぬいぐるみだ。胸に抱いているから」
あ、と視線を胸にやった。つい抱きしめる形になっていることに、ようやく気づく。
「あの、これ、はその」
子どものような行動を見られ、あたふたとうろたえてしまう。顔も熱かった。
だが、ヴィグジュードは罵倒してこない。面映ゆい気持ちを抑え、アシャンテがおもてを上げれば、彼はどこか安堵したようにこちらを優しく見つめている。その表情があまりに柔らかいものだったため、今までの落差に惚けることしかできない。
「砂猫が好きだと聞いた」
「……はい、そう話しましたわ」
「気に入られるとは思っていなかったが。そんなものしか、俺は贈ることができない」
視線を逸らし、自嘲めいた呟きを漏らす彼を見て、アシャンテの口元がほころぶ。嗜虐めいた思いからではなかった。簡単に話したことを覚えていてくれた――それが誠実さの表れだと感じたためだ。
「本物ばかりが全てだとは限りませんわ。ありがとうございます……ジュード」
小声で名を呼べば、ますます彼の面持ちが泣き出しそうなものになる。
ヴィグジュードの手が不意に動き、壊れ物に触れるような所作で、アシャンテの頬をゆっくり撫でた。指はやはり震えているものの、しぐさに隠れた優しさは確かなものだ。
彼の体が近づいてくる。あごをそっと、持ち上げられた。アシャンテが目をまたたかせる間に、唇同士が重なり合う。
突き飛ばすことも、抵抗することもしなかった。ただまぶたを閉じてみる。熱い。心臓の鼓動が激しくなる。体の奥底から熱がこみ上げてやまない。
こんな悦楽は今まで覚えたことはなく、生まれてはじめてのものだった。




