3-5.夜に香り散る花よ
アシャンテが倒れたときから、三日が経過した。その間、取り立てて大きい出来事は起きていない。ファラーニと顔を合わせることもたまにあったが、頭痛は嘘のように消え去り、複雑な悲しみと失望だけが胸に去来してばかりいる。
城駐在の医者にいわせると、気絶したのはやはり過労だからだそうだ。それ以外、原因が見つからなかったのだろう。
(当然ですわね。変調は全て、あの二人が大本なのですもの)
隠れて嘆息した。隣にいたマリーンが、目敏くそれに気づく。
「大丈夫ですか、アシャンテさま。まだ具合が悪いのでは」
「いいえ、この状況に悩んでいるだけですわ」
今、マリーンを連れてアシャンテがおもむいているのは、中庭だ。
吹き抜けの頭上には、雲が薄くたなびく夕空が広がっている。鳥の鳴く声も聞こえる。だが、それだけだ。
木も、茂みも、花でさえ自然に任せて荒れ放題だった。蔦棚や水路はかろうじてあるものの、棚に絡む蔦は変色して枯れ落ち、中央水路の水も濁っている。
幸いといえば、飾られている白磁の女性像が無事であったり、壁のモルタルが剥がれていないことだろう。オベリスクのように天を穿つ六つの柱も、見る限り崩れそうにない。
「周りはいいとして……土壌から変える必要がありそうですわね」
「土壌改善のあと、花や木は何を植えましょうか」
「日当たりは良好ですし、オリーブとネトルを中心にしましょう。花、は……」
一瞬、ヴィグジュードの瞳を思い出す。トリカブトの色に似た目を想起すれば、また仄暗い悦びが胸に去来した。アシャンテは小さくかぶりを振り、すぐに思考を正す。
「陛下は邪獣狩りもするお方。薬草などを求めてらっしゃるかもしれませんわ。それらも植えようかと思っていますの」
「なら、区画に分けた庭にします? 様式をそれぞれ変えて」
「ですわね。そうなると、やはり庭師の方とお話ししなければなりませんわ」
一体いつまでかかるのか、この荒れ果てたはじまりからではわからない。園丁を数名つけてもらってはいるが、彼らと上手く連携が取れるかどうかすらも。
(ここが完成したときには、わたくしはきっと、お飾りの皇妃になっていますわね)
近くにあるノイバラへと近づき、小さな花を見下ろす。
茨に囲まれている白い花弁を眺め、自分のようだと内心で自嘲した。
ここに来る前、アシャンテはヴィグジュードの命で手紙を書いている。父、ザハ王へしたためた書状だ。
内容は嘘ばかりだった。『恋い焦がれた相手と添い遂げたく思う』だの『王女としてではなく、一人の娘としての幸せを願ってもらいたい』だの、微塵も抱いていない気持ちをしたためさせられたのだ。
王と王女としての関係ではなく、父と娘としての間柄を強調する――有り体に言えば、ザハの心を揺さぶる書面になった。口裏を合わせるためにマリーンもまた、別で書簡を記し、できあがった二通の手紙は検閲もされている。
その手紙は、故郷の王宮に外交員が持っていくという。ヴィグジュードの信用する宰相も向かうらしい。完全に外堀を埋められている、と思う他ない。
「……マリーン、部屋で湯浴みの準備を頼めるかしら」
「アシャンテさま?」
「お願い、マリーン」
振り向かず、ささやく。マリーンは少しだけ沈黙を置いて――
「すぐに部屋に戻ると約束できるなら」
アシャンテはうなずきつつ、「ええ」と呟いた。彼女が一つ礼をし、きびすを返すのが音で伝わる。
背後の通路を渡る足音、それすらも聞こえなくなったと確認して、背筋を伸ばした。
どうしようもなくなる。やるせなくなる。その思いだけで、ノイバラの枝に手で触れた。茨が容赦なく指の皮膚を裂き、鮮やかな赤い血を流させる。
痛みはあった。だが、それ以上何も思わない。自分ではどうすることもできない破壊衝動が、己を傷つけることを選ばせる。
枝に指を絡ませたまま、天を仰いだ。藍色が橙の夕暮を侵蝕しつつあった。暗闇が来る。自身の気持ちのように、暗澹とした闇が。
不明瞭に過ぎる感覚、感情。日に日に醜くなっていく自分に嫌気が差す。
清廉とまではいかないが、自らは善良であると思っていた。なのにどうだろう。ヴィグジュードの存在が、ファラーニの謎めいた挑発が、自分の知らない一面を引き出していく。嗜虐的な快感など、持ち得るはずがないと信じていたのに。
「わたくしが壊れていく」
ファラーニの言う『シェティ』とは何者なのだろう。ヴィグジュードの夢の中に出る、百合の痣を持つ娘。それらと己の関係性がわからない。
「知ったところで……」
「一人でどうした」
地面に垂れた血を見つめた刹那、背後から声がかかった。
ヴィグジュードのものだと理解はできる。だが、答えることも億劫でアシャンテは微動だにしなかった。
石畳を伝う足音が近づく。
「こんな庭に見るところでも……」
背後に立った彼が、一瞬息を飲んだことがわかった。
「何をしている!」
「あ……」
怒声と共に、ヴィグジュードはノイバラを握っていた指を強引に引き剥がす。じんじんとした痛覚、指を染める流血に、アシャンテは少しだけ我に戻った。
「陛下」
呆けたまま、ささやく。彼を見上げる。ヴィグジュードは困惑と、それ以上の悲哀でおもてを染め、握った手を凝視していた。
「陛下、手と服が汚れますわ」
何を間抜けなことを、とアシャンテは自分の言葉に心の中だけで笑う。しかし。
ヴィグジュードが震える両手で、アシャンテの指を包みこんだ。そして、何一つためらいもせず――己の唇を使い、血をぬぐう。
アシャンテは何も言わなかった。何も言えなかった。ただ驚き、目を見張ることしかできない。
指の輪郭を唇でなぞられていけば、奇妙な感覚が背筋を震わせる。思わず肩を縮こめたアシャンテを見てだろう、ヴィグジュードが紫の双眸を細めた。
「短刀は持っているな」
「え?」
「俺が渡したものを持っているか、と聞いている」
「袋に入れて、腰に」
「来い」
「きゃ……っ」
急に手首を引かれたアシャンテは刹那、体勢を崩したものの、すぐにバランスを取り戻す。大股で歩くヴィグジュードは手首を強く握り、離そうとしない。
「へ、いか。どこへ?」
アシャンテが戸惑いつつ聞いても答えはなく、長躯からは不機嫌そうな気配だけが漏れ出ている。
ほとんど人のいない通路を辿っていることに気づいたが、角を幾重にも曲がっていけば、すぐに周囲の作りから自室に向かっているのだと理解する。
「陛下、アシャンテさま!」
「マリーン」
自室近くまでおもむいたとき、マリーンと鉢合わせた。湯浴みの支度をしてくれたと思しき彼女の手には、シュミーズドレスが握られている。
「遅いので様子を見に行こうと思ったのですが、陛下とご一緒だったとは」
「マリーン、それをよこせ。そのドレスを」
「は……?」
さしものマリーンも、そしてアシャンテも、ヴィグジュードの言葉の意味がわからなかった。うろたえるマリーンからシュミーズドレスを引っ張って手にした彼は、少しばかり足を止めた。
「これから寝室に入る。夕食は必要ない、各々好きに取れ。俺たちの分はワゴンにでも載せて部屋の前に用意しろ。そうコルに伝えておけ」
「なっ……」
次いで放たれたセリフに、アシャンテは、そしてマリーンは同様に絶句する。
「陛下、一体何を、どうして」
「言わないとわからないか」
振り返ったヴィグジュードの目は、怒りとそれ以上の何かでらんらんとしていた。
(抱かれる)
理解し、アシャンテの顔が瞬時に青ざめてしまう。それが仇となった。
「アシャンテさまっ」
マリーンの叫びが遠い。彼に連れこまれる形で寝室に入る。だが、声を上げて助けを求めることは、アシャンテにはできなかった。マリーンの身を案じたために。
扉が乱暴に閉められた。まだ薄く橙が残る部屋は、不気味なほどに静かだ。
アシャンテはものを扱うより雑に、中央に鎮座するベッドに倒された。
頭が混乱する。何が理由で彼を欲情させたのか。いや、ヴィグジュードの瞳に情欲の火は灯っていない。純粋な怒りと憎しみ。それからほんの少しの、何か。
「自分を恨め。恨むものを求めたいなら」
「こ、ないで!」
アシャンテが手提げ袋から短刀を出し、逆手で鞘から取り出しても、遅かった。
躊躇を見破られたのだろう、その手は弾かれ、刃がシーツの上に落ちる。
――唇を奪われた。息をするのも苦しい、知らない口づけをされた。
「その傷以上に痛みがほしいなら、俺が与えてやる。死をも忘れる痛みを」
邪獣のように目を光らせ、アシャンテの上にのしかかったヴィグジュードが、耳元でささやく。
これから訪れるであろう最悪の時間を思えば、アシャンテはただ、唇を噛みしめることしかできない。
夜の帳が降りる。月と星の下――百合は、無残にも踏みにじられた。




