3-4.嗜虐的、背徳的な悦び
夢すら見ず、ただの暗闇からアシャンテは目を覚ます。まぶたを開けた途端、視界に入ってきたのは見知らぬ顔だった。
「あっ」
「……どなた?」
「わわ、すみません、ぶしつけに」
青い短髪に黄緑の双眸を持つ少女は、慌てて覗きこんでいたおもてを正す。
その額にあるのは、龍の姿と真珠を編みこんだ飾りだ。しゃらりとした涼やかな音に、アシャンテもようやく我に返る。
上体を起こすと共に、ようやくここがどこなのか理解した。自室だ。確か図書室で神話を読んだあとに倒れたはず――と、少しばかり混乱する思考をまとめ、こめかみを押さえた。
「アシャンテさま、ご気分はよろしゅうございますか?」
「ええ……ありがとう」
コップに入れた水を差し出してくれたのは、コルだった。水を飲み干し、一つため息をつく。
「熱とか、なかったですね。疲れが溜まっていたのかもしれないです」
ベッドの隣、椅子に腰かけた少女がはにかんだ笑みを浮かべる。
「あなたは?」
「ああっ、名乗るのも忘れてました! リーリと言います。龍官長を務めてます」
アシャンテの問いに、リーリと名乗った龍官長は顔を真っ赤に染めた。
「龍官長」
「はい、これでもそうなんです、はい」
「ずいぶん……お若いのですわね」
「えっえっ。多分、アシャンテさまより上ですけども。これでも二十六なので」
照れたように肩をすぼめるリーリの歳に、アシャンテは目を見張る。見た目はとてもそう思えない。幼い顔立ちに、口調。一瞬、十五、六歳頃だと勘違いした。
厚ぼったい薄水色のローブの袖や詰め襟には、銀糸で細かな刺繍が縫われている。それもまた、彼女と雰囲気がそぐわない。服に着せられている、そんな印象を受けた。
だが、とアシャンテは瞳を弧にするリーリの額を見る。金の額飾りは、確かに龍官を束ねる長しかつけられないものだ。若い身空で長とは、想像を超えた苦労もあるだろう。
見た目で判断した自分を恥じ、アシャンテもまた薄く笑む。
「それは失礼をしましたわ。ですが、どうして龍官長が直々にここへ?」
「陛下のハヤブサに呼ばれまして。客人が倒れたと……自分、医学の心得もありますから。王都の神殿から馬に乗ってきました」
「そう、ですの。わざわざありがとうございます、リーリさま」
「いーえ。何もなくてよかったですよ。でもちゃんと、念のために、きちんとお医者様に見てもらって下さい」
やはりはにかむリーリの言葉に、うなずく。
そこで彼女に、神話の差異について尋ねようと思った。知らない単語、使徒の乙女と代理の戦士というものがとても、気になる。
だが。
口を開きかけたとき、扉を開く音が大きく響いた。
「具合はどうか」
ヴィグジュードだ。黒い長髪とマントをなびかせ、不機嫌なおもてでこちらへと向かってきている。
コルを含め、侍女たちが頭を下げた。リーリもまた、急いだ様子で椅子から降りる。
アシャンテは笑顔を消し、少しばかりこうべを垂れた。
「ご迷惑をおかけしておりますわ、陛下」
「そうだな。ギーがいたからよかったようなものの」
「ギギターさまにも、一言お礼をと思いましたけれど」
「やつはやつの仕事をしただけだ。礼を言われるのは筋違いだと、ギーなら言うはず」
近くに寄ったヴィグジュードの瞳は、相変わらず冷たい。何も読めない、薄暗い感情を灯す紫の瞳で射貫かれ、それでもアシャンテは屈することなく視線を受け止める。
絡み合う目線を先に逸らしたのは、ヴィグジュードの方だった。
「リーリ、倒れた原因はわかったか」
「多分、過労ですよ。火隆の国から来たんですよね? 旅の疲れの蓄積かと」
「旅に不慣れな、やわな体ではないと思っていたが」
「男性と女性じゃ、体力も体の造りも違いますからね。慢心は危険ですってば」
「だ、そうだが」
ヴィグジュードにねめつけられた刹那、アシャンテの胃がまた、ひくつく。安い挑発に乗せられ、無表情で口の端だけをつり上げた。
「何せ、心が安まらないのです、陛下。どなたが原因かは申しませんけれど」
「慣れろ。この環境にも、役割にも」
「慣れたところで……その先にあるのは緩慢な死なのでは?」
せせら笑った瞬間、ヴィグジュードの手によってあごを掴まれる。
周囲が軽くさざめき、リーリすら目を丸くさせる中、彼は瞳に怒りの炎を宿らせた。
「二度と、死を、口にするな」
アシャンテは答えない。掴まれたあごが痛む。じんじんする痛覚に耐えつつ、冷ややかな視線で彼を見上げた。
紫の双眸とかち合うことに、やはり不思議な高揚感が背筋を伝う。同時に、吐き気も。相反する二つの思いは、一体どこから来るのだろう。
(この目をくり抜ければいいのに)
刹那、脳裏によぎる言葉に、自らぞっとした。
まるで自分が自分ではなく、別の誰かになったような感覚が我を失わせていく。
「だめです、陛下。アシャンテさまは起きたばっかりなんですってば」
ぼんやりしてきた思考を取り戻させたのは、リーリの焦った声音だ。
「それがどうした」
「大切なお客さまだから、この城の医者じゃなく自分を呼んだんでしょ? なのに陛下が疲弊させてどうするんですか」
少しののち、あごを強く掴んでいた手が、離れた。
「それでいいです」
「……リーリ。自ら神殿の長老どもを廃したことは賞賛するが、調子に乗るなよ」
「もちろんです。実は陛下のおかげだと理解してます」
胸を張るリーリを無視し、ヴィグジュードがもう一度、アシャンテを睥睨してくる。
アシャンテは笑顔のかけらも浮かべず、あごを摩ることすらしなかった。
「俺は仕事がある。あとはコル、お前たちに任せる」
「承知しました、陛下」
「お前も、これからの仕事に支障が出ないようにしろ」
一方的にアシャンテへ言い放ったのち、ヴィグジュードは背を向けて立ち去っていく。
彼が退室する際、アシャンテも侍女たちと共に頭は下げたが、形式的なものだ。そこに思いはともなわない。尊敬の念も何もない。
「仕事って、何か任されてるんですか?」
扉が閉まる。アシャンテが背中のクッションにもたれたと同時に、リーリがあどけない瞳で笑顔を向けてきた。
笑うと本当に若く見える。威圧感もない彼女に微笑み返し、首肯した。
「ええ。この城の中庭作りを。手つかずのままという」
「へ? それってラオラの庭ですよね。陛下、あそこをどうにかする気になったのかぁ」
「ラオラの庭……?」
「ですです。陛下の母君の名が冠された場所で」
リーリからの返答が、少し暗い。彼女の笑みに翳りが帯びた。
(おかしいとは思っていたけれど……)
確かギギターがいうには、ヴィグジュードの母は龍官で、側室だったという。それを聞いたときにアシャンテは、違和感を覚えていた。
龍官は一生、清らかな身のままで龍に仕えるものたちだ。女性でも男性でも、結婚どころか恋をすることも許されない。そんな立場にある存在を娶ったという事実は、ヴィグジュードの母親は手込めにされたと考えるべきだろう。
龍官長のリーリなら、彼の母――ラオラのことや神話について詳しいはずだ。しかし、今ここでその二つを尋ねるには、人が多すぎる。
「リーリさま。これからわたくしは忙しくなるかもしれませんが……都合を合わせて、色々とお話しをうかがっても? 庭に植える草根も一任されていますので、そのことについての助言もいただければ」
「……いいですよ、はい」
一瞬の間を置き、彼女は笑みを深めた。
草花、草木ではなく『草根』と言った意味が、どうやら功を奏したようだ。
草根とは各国で『内密』を示す単語だった。王宮の中では、当たり前のように使われている暗号の一つである。
グラモーズでも変わらない隠語とリーリの洞察力に、アシャンテは胸を撫で下ろした。
「なら自分はしばらく、下の村に滞在しときます。今のとこ、急ぎの用事や仕事もないのでね」
言って、彼女は椅子を窓際の方へと戻す。
「あっ、ちゃんと医者に見てもらって下さいね。それじゃ、お大事にどうぞです」
「はい。ありがとうございます、リーリさま」
「いぃえ。ではでは」
リーリは小さな体で重たそうにローブを引きずり、ゆっくりと退室していった。
次いで動いたのはコルだ。
「アシャンテさま、晩食はいかがされましょう。部屋に運びますが」
「そうして下さると助かりますわ」
アシャンテは窓の外を見つめた。すっかり宵のうちだ。毎日少しずつ膨らんでいる月の形が、寝そべるとよくわかる。
せわしなくなった侍女たちから顔を背け、一人外を眺める。自然と、先程のヴィグジュードの瞳が脳裏に浮かんできた。暗く、それでいて激情をはらんだ紫の双眸が。
目の近くに触れたら、まぶたへ口づけを落としたら、彼はどんなおもてをするだろう。戸惑うだろうか、それともまた、震えて青ざめるのだろうか。
試してみたいという、嗜虐的な好奇心。なぜそう感じたのかもわからず、アシャンテは一人内心で、笑った。




