3-3.その名をしかと胸に刻め
ファラーニはたおやかさを崩さず、静かに図書室に入ってくる。碧眼に、冷たい憎悪の炎を灯して。双眸を見つめた途端、アシャンテの胸が切なくなる。苦しくなる。
「ギギターはどこへ?」
「今は少し……席を外しておりますの」
「それではわたしとお話しができますね」
紅の塗られた唇が、意味ありげにつり上がった。見下すような視線と侮蔑の笑み。立ち上がったアシャンテの胸は、針で刺されたように確実な痛みを覚える。
「陛下と閨を共にされたとか。はじめての夜はどのように過ごしたのでしょう」
「話す、必要が?」
「お体のことを心配しているんですよ? ああ見えて、案外陛下は夜、情熱的ですし」
言外に含みを持たせ、ファラーニは笑う。ヴィグジュードと閨を共にしたことがあるような口ぶりだ。刹那アシャンテの脳裏に、ひえびえとした何かが落ちてくる。目が冴える。
「睦まじいのですわね、ジュードと」
せり上がってきた不思議な負けん気で、ヴィグジュードの名を口にした。
たちまち彼女の笑みが、崩れる。仮面のように張りついた笑顔は歪み、憎しみと怒りに満ちたおもてとなった。
「なれなれしくあの方の名を呼ぶなど……」
「ジュードがそう呼べとおっしゃったのですわ。ありがたいことですけれど」
「ありがたい? 感謝の意など、微塵も覚えていないのに?」
「何が言いたいのかしら」
「あなたは隠しごとが上手だと思って。嘘をつくのもそうですけど」
「見知ったように言わないで下さいまし。あなたにわたくしの何がわかるの」
アシャンテが唾棄するように言い捨てると、ファラーニはますます顔を歪ませる。
「知ってます、いらないくらい、嫌気が差すくらい。ルゥミ、レフィア、フレス」
「それは、誰の……」
「大嫌いなシェティのことだって、わたしは知ってる」
知らない名をつぶやかれた直後、アシャンテのこめかみが猛烈な痛みを覚えた。思わず手で額近くを押さえる。
(ルゥミ、レフィア、フレス……)
名を反芻していけば、銅鑼が頭の中で、けたたましく鳴り響くかのような感覚に陥った。めまいと吐き気。耐えがたい変調に、思わず眉根を寄せる。
(シェティ、シェティ……痛い。……違う、違う)
「演技がずいぶん上手なんですね! 心が痛いのはこっちの方だと言うのに!」
「あたしはシェティじゃないっ!」
ばかにしきった嘲笑に、反射的な怒号が口をついて出た。頭痛が引く。と、同時に呆然としてしまう。
(あたし……?)
「ほぅら、シェティが出てくる。どんなことになっても、どんなに時がたっても、百合の痣を持つ女が何も知らない、では済まされないんです」
「わ、わたくしは」
「アシャンテどの!」
せせら笑いと混乱、得体の知れない恐怖で体を震わせた途端、ギギターの声が届いた。慌てた様子で彼が駆け寄ってくる。
「早かったですね、ギギター。念のため、使用人たちを休ませておいたのに」
「ひとけがなかったからですよ。怪しく思いまして」
「抜け目がない人……ま、今はいいでしょう。シェティ……いいえ、アシャンテさま。今度はゆっくり、お茶を飲んでお話ししましょうね」
微笑みという仮面をつけ、きびすを返すファラーニに、アシャンテは何も言えなかった。
頭痛と悪寒、震えがひどい。呼気が荒くなる。ファラーニが立ち去るまで、揺れ動く足を気丈に立たせておくことしかできなかった。
「悪い、遅くなっちまった。ってどうした、アシャンテどの。大丈夫か?」
ふらりと倒れそうになるところを、茶会のときのようにギギターが腕を掴んでくれる。うなずくこともせず丸い机に手をついて、呼吸が整うのを待った。
(『あたし』だなんて言い方、したことがないのに)
シェティという名前を思うたび、またもやこめかみの奥が痛くなる。目をつむり、ただ痛みに耐える。窓からの暖かい陽射しすら悪寒に効かず、体中が汗ばんだ。
渦巻く不安と焦燥、不快感。同時に覚える不可思議な郷愁。そんな相反する感情に、意識が持っていかれそうになるも――
ぴりり、と鳥のさえずる声がした。はっとする。我に返る。
「……レルマ」
窓の外の縁に、レルマがいた。褐色の鳥と目が合う。愛らしく首をかしげて、レルマはすぐにその場所を飛び去った。
アシャンテが気づいたときには、頭痛が治まっている。悪寒や煮えたぎる感情も、ない。浄化されたように体中の不調が消えていた。
「大丈夫……か? 顔色がひどいけど」
体を起こしたアシャンテを見下ろし、ギギターは難しいおもてをしつつうなる。
「ええ。少し休めば、どうってことはないと思いますの」
「すまん、オレがもっと早くにファラーニどのの企みに気づいてたら」
謝罪してくる彼に、アシャンテはかぶりを振って苦笑を漏らした。
「ギギターさまは悪くありませんわ。どのみち、この城にいる限りは顔を合わせる相手ですから。ずっと避けてはいられないでしょうし」
「そっか。でも無理はしないでくれ。アシャンテどのに何かあれば、オレは半殺しだ」
「留意しておきますわね」
おどけた口調に小さく笑い、肌に張りついたほつれ髪を軽く、払う。
ようやく自分らしさが戻ってきた。一つ、嘆息する。
顔を動かし、赤茶色の棚を見つめた。
「ここで読書をするより、わたくしの部屋で読んだ方がよさそうかしら」
「オイオイ、まだ何かする気だったのか?」
「多分、わたくしには知らなければならないことが山ほどあるはずですの。ここに来たのも、その糸口を探るため。おめおめと引き下がることなんてできませんわ」
「龍のことに関しては、大陸出身のアシャンテどのの方が詳しいだろうに」
「見落としている箇所があるかもしれませんし。ギギターさま、古文書などを中心に、いくつか見つくろっていただけないかしら」
「仕方ねえな。でも、自室で読んでくれよ? さっきみたいなことがあったらかなわんし」
「そうしますわ」
ギギターが棚の方へ歩き出すのを見て、アシャンテもそれに倣う。
書物が並べられている本棚は、長躯といえるギギターの背よりも大きい。アシャンテは、目線が合った本の背表紙を確認してみる。記されている文字は北大陸独自のものではなく、大国でも使われる一般的なものだった。
目線を隣へ逸らしていけば『龍官制度のなり立ち』『龍信仰について』『龍と神話』など、多岐に渡った書物が並んでいる。
ギギターが軽々と本を抱えていく中、アシャンテも古く、茶色に変色している薄い書物を手にした。中に目を通す。
(龍の神話に関して……ですわね)
いわく――
◆ ◆ ◆
遙か昔、虚空に〈龍〉がいた。
〈龍〉は退屈を嫌う。無聊を慰めるため自身の光を使い、太陽と大陸、砂漠、海を作った。そして人をも作り上げた。
だが、太陽の陰から〈龍〉の対が生まれる。
陰を背負うもの、醜いもの、陽の下では生きられないもの。
〈邪龍〉と呼ばれる存在は邪獣と月を作り、大地を荒らした。人を踏みにじり、全ての生命をなきものにしようと企んだ。
〈龍〉は自身の代理として使徒たる乙女を、〈邪龍〉もまた自身の代理として戦士を作り、二人と共に戦った。
戦いは長く続き、大地は腐り天は翳り、海も荒れ、人々は混乱に陥る。
疲弊した〈邪龍〉を哀れんだ慈悲深き〈龍〉は、対たる〈邪龍〉をなだめ、包みこみ、許した。
ようやく眠りに就いた〈邪龍〉。だが、乙女も戦士も死に、地は陰惨たる状態となる。
最後の力を注いだ〈龍〉により、しるべとなる四人の始者が誕生し、人々はその下で国を作っていくこととなった……
◆ ◆ ◆
(乙女? 戦士?)
読み終えたアシャンテはいぶかしむ。そんなものを聞いたのは、はじめてだ。
使徒たる乙女、代理の戦士。そこの部分は、大国に伝わる伝承にない。四人の始者が人々を率いて龍と共に戦い、邪龍と邪獣を鎮めたのだと――そう記憶にある。
つきん、とまたもや頭痛がした。
「使徒の乙女と……代理、の戦士」
頭が割れるように痛みはじめる。すぐ近くで、大きな鐘を鳴らされているかのような感覚だ。痛みよりも圧迫感がひどい。呼気もまた荒くなる。本が手から滑り落ちる。
「アシャンテどの?」
振り返ったギギターに、答えることもできなかった。
「あ……」
「アシャンテどのっ!」
焦燥混じりの声に、アシャンテは何の返答もせず、目をつむったままその場に倒れる。
暗く落ちていく意識の中、レルマの優しい鳴き声がどこか遠く、聞こえた気がした。




