第二十九話(後編) : 魔境の夜と、エリックの普通
五十九階層の封印扉。
その先に何があるのか。
古代文明の遺産か。
失われた魔法技術か。
あるいは――この世界とは違う場所なのか。
そんな大きな謎を前にして。
エリックが考えていたことは、もっと単純だった。
「みんなにも食べてほしい。」
そして魔境の夜は。
食事に始まり、風呂へ進み、最後にはアイスへ辿り着く。
……どうやら、五十九階層の謎より先に。
エリックの「普通」のほうが問題らしい。
夜。
魔鏡の家。
大きな食卓には、いつものように料理が並んでいた。
焼いた肉。
新鮮な野菜。
温かなスープ。
そして。
小さく切られた赤い実。
ボルグは椅子に座りながら、周囲を見渡していた。
「……。」
「まさか魔境の奥で、こんな飯が食えるとはのう。」
ジンも何度も頷く。
「本当に……。」
「ここ、普通の家じゃないですよね。」
レイナが苦笑する。
「それ、今日何回目だ?」
「いや……。」
ジンは真剣な顔で答える。
「だって普通は。」
「危険地域の森に来たら。」
「野営ですよ?」
リシェルが微笑む。
「確かに。」
「ですが、ここではこれが日常ですから。」
エリックは何も言わず、料理を口へ運んでいる。
ボルグはそんなエリックを見る。
「坊主。」
「一つ聞いていいか。」
「?」
「あの扉じゃ。」
「五十九階層の封印扉。」
「先に何があると思う?」
エリシアが箸を置いた。
「……。」
「可能性はいくつかあります。」
全員がエリシアを見る。
「古代文明の遺産。」
「失われた魔法技術。」
「もしかすると。」
少し間。
「魔王現象を止める手掛かりが残されている可能性があります。」
真剣な声。
「もしそうなら。」
「調査する価値はあります。」
ボルグも頷く。
「ふむ。」
「王女としては、そう考えるか。」
すると。
リシェルが静かに口を開いた。
「私は。」
「別の可能性もあると思います。」
「別の?」
ジンが聞き返す。
リシェルは窓の外を見る。
「古代人が滅びたのではなく。」
「どこかへ移った可能性です。」
沈黙。
「歴史には。」
「説明できない空白があります。」
「失われた技術。」
「突然途絶えた魔法。」
「まるで消えたのではなく。」
「隠されたような痕跡が。」
リシェルは小さく笑う。
「もしかすると。」
「あの扉の先には。」
「古代人が残した場所。」
「あるいは……。」
「この世界とは違う場所があるのかもしれません。」
ジンは息を呑む。
「別の……世界……。」
誰も答えなかった。
しばらく。
静かな時間が流れる。
そして。
レイナがエリックを見る。
「……で。」
「お前はどう思う?」
エリックは顔を上げる。
「?」
「あの扉の先だ。」
少し考える。
「分からない。」
即答だった。
ジンは思わず苦笑する。
「ですよね……。」
しかし。
エリックは続けた。
「だけど。」
「魔王現象。」
「そのせいで。」
窓の外を見る。
畑。
そこにあるトマト。
「……。」
「名人から。」
「もらった。」
エリシアが静かに聞く。
「大切なものなのですね。」
エリックは頷く。
「うん。」
「美味しかった。」
「だから。」
少し間。
「みんなにも。」
「食べてほしい。」
沈黙。
レイナは少し目を伏せる。
リシェルは優しく微笑んだ。
ボルグは鼻を鳴らす。
「……。」
「坊主。」
「お前さんは本当に……。」
「変わった奴じゃな。」
エリックは首を傾げる。
「?」
ボルグは小さく笑った。
「普通はな。」
「世界の謎より先に。」
「自分の欲を考えるもんじゃ。」
エリックは少し考える。
そして。
「……。」
「普通。」
その一言に。
レイナが吹き出した。
「やっぱり分かってないな。」
リシェルも笑う。
「そこがエリックさんらしいです。」
ボルグは大きくため息を吐いた。
「三百年以上生きてきたが。」
「こんな人間は初めてじゃわ。」
ジンは真剣な顔で頷く。
「僕もです……。」
エリックは首を傾げる。
「?」
そして。
いつものように。
「ご飯。」
「冷める。」
全員が一瞬止まった。
そして。
笑い声が食卓に広がった。
「明日は早い。」
「水でも浴びて寝るか。」
エリシアが微笑む。
「では、お風呂を使ってください。」
「……。」
ジンが首を傾げる。
「お風呂?」
エリックが当然のように頷く。
「ある。」
ボルグは眉を上げる。
「魔境に?」
エリシアは頷く。
「はい。」
二人は案内される。
屋根付きの通路。
綺麗に並んだ飛び石。
その先に、小さな建物。
扉を開く。
整理された脱衣所。
「……。」
ジンは完全に固まった。
「親方。」
「何じゃ。」
「ここ……魔境ですよね?」
ボルグも黙って周囲を見る。
「……。」
「確かに。」
「普通ではないな。」
⸻
そして風呂。
⸻
湯気。
広い浴槽。
人工大理石。
そして。
カコン。
カコン。
ししおどしの音。
二人が振り向く。
「……。」
「何の音ですか?」
ジンが聞く。
ボルグも珍しく黙る。
「……。」
「分からん。」
「え?」
「だが。」
「悪くない。」
風呂から戻った二人。
髪を拭きながら、まだ少し呆然としている。
「……。」
ジンが呟く。
「親方。」
「何じゃ。」
「確認したいんですが。」
「ここ、本当に魔境ですよね?」
ボルグは腕を組む。
「……。」
「そう聞いておる。」
その時。
リシェルが台所へ向かう。
「少し休憩しましょうか。」
「今日は色々ありましたから。」
扉を開く。
白い箱。
ジンが足を止める。
「……。」
「何ですか?」
リシェルが振り返る。
「冷凍庫です。」
「冷凍……?」
ジンには意味が分からない。
リシェルが中から取り出す。
「アイスです。」
「……。」
「アイス?」
ボルグも眉をひそめる。
「食べ物か?」
リシェルは頷く。
「はい。」
蓋を開ける。
冷たい甘い香り。
ジンが恐る恐る口へ運ぶ。
「……。」
「……。」
「……何これ。」
ボルグは静かにアイスを見つめていた。
冷たい。
甘い。
しかも、いつでも食べられる。
長い年月を生きてきたドワーフでも、こんなものは見たことがない。
「……。」
「坊主。」
エリックが顔を上げる。
「?」
ボルグは真剣な顔で尋ねた。
「お前さん。」
「魔王現象より先に、世界を変える気か?」
エリックは首を傾げる。
「?」
「普通。」
一瞬の沈黙。
ジンとボルグが同時に叫ぶ。
「「どこがだ!!」」
翌朝。
ボルグとジンが普通に五十九階層へ向かう。
「昨日の家のことは一旦忘れるぞ。」
「はい、親方。」
「坊主の普通を考えると、仕事にならん。」
今回は、ちょっとした休息回です。
五十九階層の封印扉という大きな謎を前にしながら、本人は相変わらずのエリック。
そして今回、ボルグとジンが初めて魔境の家で食事をし、お風呂に入り、最後にはアイスまで食べることになりました。
三百年以上生きてきたボルグですら、
「魔王現象より先に、世界を変える気か?」
と言いたくなる始末。
エリックにとっては、どれも「普通」。
でも、周囲から見れば全然普通ではありません。
そして翌朝。
そんなエリックの「普通」を深く考えることを放棄した二人は、五十九階層へ。
次はいよいよ、あの封印扉です。
果たして、その先には何があるのか。
そしてエリックは――本当に扉を開けることができるのか。
次回もよろしくお願いします。




