二十話(前編) : 静寂の三十七階層
いつもお読みいただきありがとうございます!
第二十話前編です。
三十階層を越え、エリックたちは未知の領域へと足を踏み入れます。
これまでとは少し違うダンジョンの異変と、束の間の休息。そして物語は、静かに次の大きな展開へと動き始めます。
今回も楽しんでいただけましたら嬉しいです。
その後も四人は、着実に階層を攻略していった。
二十階層。
三十階層。
立ちはだかるボスも、四人の連携の前では長くは持たなかった。
そして現在。
三十六階層。
エリシアは足を止め、懐から一つの水晶を取り出した。
王国第三王女専属監視機構――《魔導監視網》。
静かに魔力を流す。
淡い光が水晶の中へ広がり、各階層の魔物の反応が映し出された。
「……。」
エリシアの表情が僅かに曇る。
「どうかしましたか?」
レイナが尋ねた。
エリシアは水晶から目を離さない。
「三十七階層だけ……。」
「魔物の反応がありません。」
リシェルが目を見開く。
「一体も……ですか?」
「はい。」
エリシアは静かに頷いた。
「完全にゼロです。」
レイナは腕を組む。
「魔力休止域ではないのでしょうか?」
エリシアは少し考え込む。
「……その可能性はあります。」
「ですが、このダンジョンは出現したばかりです。」
「私にも判断できません。」
短い沈黙が流れる。
やがてエリックがぽつりと口を開いた。
「魔力休止域。」
「の可能性もある。」
「行ってみるか。」
レイナが頷く。
「そうだな。」
「ここまで規模の大きいダンジョンなら、そういう場所があっても不思議じゃない。」
エリシアも静かに同意した。
「まずは確認するしかありませんね。」
四人は再び歩き始める。
三十七階層へ足を踏み入れる。
しかし――。
「……。」
静かだった。
魔物の気配がない。
彼らの足音だけが、不気味なほどに広く静まり返った洞窟へ反響していく。
十分。
二十分。
警戒を続けながら進んでも、魔物は一体も現れなかった。
やがて視界が開け、小さな広場へ辿り着く。
天井は高く、周囲を岩壁に囲まれた天然の空間。
魔力の流れも穏やかだった。
レイナが辺りを見渡す。
「ここなら、一旦休めそうだな。」
リシェルも周囲を確認し、小さく頷いた。
「私も賛成です。」
エリシアは水晶へ視線を落としたまま言う。
「この先がどうなっているか分かりません。」
「回復薬やポーションは、できるだけ温存したいですね。」
「そうだな。」
レイナも同意する。
「ここから先は未知だ。」
「使える札は残しておいた方がいい。」
その時だった。
リシェルがエリックの顔を見つめる。
「……エリック様。」
「少しお疲れではありませんか?」
「ん。」
エリックは短く頷く。
十階層でダンジョンそのものを書き換えた反動は、思っていた以上に大きかった。
表情には出していないが、魔力も精神力もかなり消耗している。
リシェルは静かに微笑んだ。
「でしたら。」
「エルフに伝わる回復魔法を試してみませんか?」
「眠っている間に、魔力と体力を大きく回復できます。」
エリックが首を傾げる。
「どれくらい?」
「約三時間です。」
「その間は目を覚ますことはできません。」
レイナが少し眉をひそめる。
「三時間か……。」
エリシアも真剣な表情になる。
「ですが、この場所が本当に魔力休止域なら、休息を取るには最適です。」
「先へ進む前に回復しておいた方が、安全だと思います。」
エリックは少しだけ考え、
「……頼む。」
と一言だけ答えた。
リシェルは嬉しそうに微笑む。
「お任せください。」
彼女はエリックの前へ歩み寄ると、静かに杖を掲げる。
淡い緑色の魔法陣が足元へ広がり、柔らかな光がエリックを包み込んだ。
「《エルフ・スリープヒール》」
優しい風が吹く。
森の木漏れ日を思わせる温かな魔力が全身へ染み渡っていく。
「……。」
エリックは小さく息を吐いた。
そのまま瞼がゆっくり閉じる。
数秒後には、規則正しい寝息だけが静かな広場へ響いていた。
三人は持ってきたパンをかじりながら、小さな焚き火を囲んでいた。
エリックは少し離れた場所で、穏やかな寝息を立てている。
エリシアがふと思い出したように口を開く。
「そういえば。」
「十階層で仰っていましたね。」
「『ラーメン』というお料理をご馳走してくださると。」
リシェルが嬉しそうに頷く。
「私も気になっていました。」
「どんなお料理なのでしょう。」
レイナはパンを一口かじりながら肩をすくめる。
「麺ってことしか分からないな。」
「でも、あいつがあそこまで食べたがるんだ。」
「きっとうまいんだろ。」
エリシアがくすりと笑う。
「レイナも楽しみなのですね。」
レイナは少しだけ頬を赤くしながら視線を逸らした。
「……まぁ。」
「少しくらいはな。」
リシェルまで微笑む。
「ふふっ、レイナさんがそんなお顔をされるなんて珍しいです。」
「エリシア様まで、からかわないでください……。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
束の間。
戦いを忘れられるような、穏やかな時間だった。
三人の笑い声だけが、小さな広場へ響いていた。
焚き火が静かに揺れる。
少し離れた場所では、エリックが静かな寝息を立てている。
リシェルが小さく微笑む。
「エリック様、本当に眠ってしまわれましたね。」
エリシアも優しく頷いた。
「三時間は目を覚ましません。」
「今のうちに、しっかり休ませてあげましょう。」
レイナはパンを一口かじる。
「そうだな。」
「アイツが無理すると、ろくなことにならない。」
三人の間に、穏やかな空気が流れた。
その時だった。
……ふわり。
レイナの耳が僅かに動く。
パンを持つ手が止まった。
「……。」
エリシアが首を傾げる。
「レイナ?」
返事はない。
レイナはゆっくり立ち上がる。
腰の剣へ静かに手を添えた。
リシェルも空気の変化に気付き、杖を握り直す。
「どうしました?」
レイナは前だけを見つめたまま、小さく呟く。
「……何か来る。」
エリシアはすぐに《魔導監視網》の水晶へ魔力を流した。
淡い光が広がる。
「……。」
反応はない。
「そんな……。」
「何も映りません。」
しかし。
レイナの表情だけが、見る見る強張っていく。
広場の奥。
闇の中から。
ゆっくり。
本当にゆっくりと。
巨大な影が浮かび上がってきた。
歩いてはいない。
羽ばたいてもいない。
まるで深い海を泳ぐように、岩盤の上を静かに漂っている。
その姿は、巨大な鯨にも見えた。
だが。
その全身は黒い霧を纏い、腹部には無数の赤い眼がゆっくりと開閉している。
見上げるほど巨大な影は、音一つ立てることなく三人へ近付いてきた。
エリシアが思わず息を呑む。
「……魔物?」
リシェルも額へ汗を浮かべる。
「こんな魔物……見たことがありません。」
その時だった。
レイナの顔から血の気が引いた。
「……嘘だろ。」
小さく漏れた声。
震えていた。
エリシアが驚いて振り返る。
「レイナ?」
レイナは目の前の巨大な影から、一瞬たりとも目を離さない。
「……なんで。」
「なんで、こんな所にいる。」
静かだった。
それでも、その声には今まで聞いたことのない恐怖が滲んでいた。
そして。
掠れた声で、その名を呼んだ。
「……ナイトメアホエール。」
レイナの顔から血の気が引く。
握った剣が小刻みに震えている。
その姿を見たリシェルは、初めて理解した。
レイナが。
心の底から怯えている。
忘れようとしても、忘れられない過去を見てしまった者の顔だった。
エリシアもまた、その名に表情を変えた。
「……ナイトメアホエール?」
「ですが、あの魔物はこの地方には生息しないはずです。」
「それに……眼の色が違う。」
レイナが震えながら、
「あれは普通のナイトメアホエールじゃない。」
「赤目だ。」
「……いるはずがない。」
「あいつは。」
「父さんを殺した魔物だ。」
最後までお読みいただきありがとうございます!
第二十話前編でした。
今回は、三十七階層という少し不気味な静寂に包まれた場所で、エリックがしっかり休む回……のはずでした。
普段は無茶をしてしまうエリックですが、仲間に支えられる場面も少しずつ増えてきました。
そして、エリシア、レイナ、リシェルの三人が語る「ラーメン」の話。
エリックにとっては何気ない一言でも、異世界の彼女たちにとっては未知の料理です。
果たして異世界で食べるラーメンは、どんな反応になるのか……。
次回、三十七階層で出会った存在の正体が明らかになります。
引き続き楽しんでいただけましたら嬉しいです。




