第一話(後編):魔境に締切はないけれど
第一話後編です。
前編では、スローライフを希望した主人公が、なぜか魔境へ送り込まれました。
今回はいよいよ異世界らしく、魔物との遭遇です。
ただし主人公は勇者でも剣士でもありません。
元漫画家です。
普通なら剣や魔法で戦う場面を、ネームとコマ割りでどうにかしようとしています。
本人は必死ですが、周囲から見るとだいぶ変なことをやっています。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。
それから少し時間が経つ。
火の扱いにも、少しだけ慣れてきた。
「……もうちょい味、欲しいな」
ただ焼いた肉だけでは味気ない。
小屋の周りを警戒しながらうろつき、使えそうな草や実を探す。
「薬味とか……香辛料とかないのかよ、こういうファンタジー世界」
ぶつぶつ言いながら歩いていると——
ガサッ。
「……?」
ピタリと足を止める。
背丈ほどもある草むらの奥。
何かが、いる。
「……動物か?」
息を潜め、一歩、近づく。
そこにいたのは。
人間よりも一回り小柄な影。
粘土をこねたような不気味な緑色の肌。
顔の半分を占めるほど、ぎょろりとした黄色い目。
手には、トゲのついた粗末な棒。
「……ゴブリン、的なやつ?」
脳内の漫画知識が、一瞬でその怪物の名前を弾き出した。
「に、逃げないとやられる……!」
反射的に後ずさる。心臓が早鐘を打ち始める。
いや、待て。
「……落ち着け、俺」
必死に息を押し殺す。
まだだ。
まだ“完全には”こちらを視認していない。
草むらの奥。
緑色の小柄な影が、不審そうにきょろきょろと辺りを見回している。
「普通に逃げて逃げ切れるか?」
運動不足だった、ひ弱な十四歳の足。
勝手のわからない、夜のように暗く慣れない森。
対する相手は、この森の先住者。
「……無理だろ。背中を見せた瞬間に刺される」
ゴクリと喉が鳴る。
なら——やるしかない。
ゆっくりとその場にしゃがみ込み、地面の湿った土に指を這わせる。
「……さっきの『火』を、視線を引く“見せゴマ”にする」
一本、滑らかな線を引く。
頭の中では、もう締め切り前のネームみたいに最善の流れが組み立てられていた。
「でも駄目だ。一本調子の演出じゃ避けられる」
相手は獣じゃない。
狡猾な知能がある。
なら。
「“逃げ道”という名の、次のコマを用意する」
火を見せる。
当然、驚く。
それを避けるために、相手が本能的に安全そうな道を選ぶ。
なら、あらかじめその道を“落とし穴”に変えておけばいい。
視線を森の動線へ向ける。
「こっちに誘導する」
ゴブリンの退路になりそうな茂みの手前に、短い補助線をパパッと追加。
「土の魔法陣は……たぶん物質の密度を変えるだけだから、火より構造が単純だ」
魔法書の記憶を脳内で引き出し、ページをめくるようにイメージする。
「流れのベクトルを短くして……ここを二本、並列に走らせる」
線を足した瞬間、ジワッ、と周囲の土が不自然に沈み込んだ。
「……できた?」
湿った音。
水分が急速に集まり、硬かった土がわずかに底なしの泥濘へと変わる。
「お、おぉ……!」
手応えに、思わず小さな声が漏れる。
「すげぇ、俺、もしかして天才じゃ——」
ガサッ。
「……あ」
全ての思考が凍りつく。
茂みの奥。
ぎょろり、と濁った目が、まっすぐにこちらを射抜いていた。
小柄な緑の影。
粗末な棒を握りしめたまま、そいつはピクリとも動かない。
ただ——
裂けたような口の端だけが、妙に吊り上がっていた。
「……っ」
背筋に、氷水を流し込まれたような戦慄が走る。
相手も完全にこちらに気づいた。
一瞬の、痛烈な静寂。
緑色の奴が、ニヤリと汚い歯を剥き出しにして見せた。
「……あ、これダメなやつだ。完全にエンカウントした」
──次の瞬間、俺は脱兎のごとく反転していた。
背後で、激しい足音。
追ってくる。
速い。
「うそだろっ!?」
がむしゃらに四肢を動かして走り出す。
枝が顔に当たって痛むが、構っていられない。湿った地面が容赦なく足首を奪おうとしてくる。
後ろから聞こえてくる、
「ギャッ、ギャッ!」という、獲物を追い詰める下卑た笑い声。
「笑うな怖ぇよ……! こっちは締め切り前の修羅場より必死なんだよ!」
肺が焼けるように痛い。十四歳の引きこもり体質、全然走れない。
でも止まったら頭をあの棒でカチ割られて終わる。
「来るなら——狙い通りに来い……!」
前方。
自分で描いた火の魔法陣。
そのすぐ横。
泥へ変えたトラップの地面。
「頼むぞ……!」
俺がその横をすり抜けた瞬間、頭の中で『コマ』を起動させる。
次の瞬間。
ボォッ!!
激しい音を立てて火柱が上がる。
ゴブリンが、突如目の前に現れた熱量に過剰に反応する。
「ギャッ!?」
火を避けるように、本能的に横の『安全そうなスペース』へと大きく跳んだ。
——誘導成功。読者の視線はこっちだ!
「よしっ!」
だが。
その着地の直後。
ズボッ!!
「ギェッ!?」
ゴブリンの細い片足が、不自然に柔らかくなったぬかるみへと深く沈み込んだ。
勢いのまま体勢が完全に崩れ、顔面から泥の中へと突っ込んでいく。
ベシャッ!!
生々しい音を立てて泥が跳ねる。
「っしゃあ!! ネーム通り!!」
思わずガッツポーズで叫ぶ。
ゴブリンがギャーギャーと激しく暴れる。
だが抜けない。
焦れば焦るほど、片腕まで泥の中に深く沈んでいく。
「効いてる……!」
激しく肩で息をしながら、勝利を確信した。
でも、その時。
暴れていたゴブリンの動きが、ピタリと止まった。
「……え?」
心臓が嫌な跳ね方をする。
ゆっくりと顔が上がる。
泥だらけの緑の顔。
その中心で、ぎょろりとした目だけが、じっとこちらを見つめている。
そして——
ニヤァ、と、またあの気味の悪い笑みを浮かべた。
「……は?」
次の瞬間、俺の理解を超える光景が広がる。
ゴブリンは、沈んでいない方の異様に長い腕を伸ばし、
近くに生えていた太い木の根をガシッと掴んだ。
「ちょ、待っ」
ミシッ、ミシシッ!!
奴の細い腕の筋肉が、ありえない密度で膨れ上がる。
「え、嘘だろ、あの細さでそのゴリラパワー!?」
ズボォッ!!
泥水を四方に激しくぶち撒けながら、奴は力任せにその肉体を泥濘から引き抜いた。
「うわぁぁぁ!?!?」
終わった、捕まる——そう身構え、思わず叫ぶ。
──が。
次の瞬間。
ぴたり、とすべての動きが止まった。
「……え?」
喉の奥で息が詰まる。
ゴブリンは泥を滴らせながら立ち上がったまま、ただこちらを見ている。
追ってこない。
一歩も。
「……来ない?」
さっきまでの殺気や執念みたいな圧が、すっと霧のように抜けていく。
代わりにそこに残されたのは、
ひどく冷徹で、不気味な“観察”だけだった。
「……なんだよ、それ」
ヒリヒリとした緊張感に、喉が乾く。
地面に描いた魔法陣の残り火が、パチ、と小さく音を立てて爆ぜた。
その微かな音にだけ反応するように、
ゴブリンが首をわずかに横へ傾けた。
まるで、
「お前の技術、しかと見届けたぞ」
とでも言っているみたいに。
「……っ」
ただの知性のない魔物ではない。その事実に背筋が冷える。
だが、互いに動かない。
奴は攻めてこない。
かといって、怯えて逃げもしない。
ただ、じっとこちらを見ている。
「……撤退、ってことか?」
息を呑み、小さく呟いた瞬間。
ゴブリンは一歩、滑らかに後ろに下がった。
さらにもう一歩。
そして、
深い森の暗がりに、ゆっくりと溶け込むように後退していく。
最後に残ったのは、
こちらを一度だけ見返した、
あのニヤリと白い歯を見せた不気味な口元だけだった。
──消えた。
「……は?」
呆然と立ち尽くす。
静寂。
ただ、湿った不気味な風の音だけが、元の静けさと共に戻ってくる。
火が小さく揺れる。
「……何だったんだよ、今の」
一気に緊張の糸が切れ、その場にドサリとしゃがみ込んだ。
心臓の音だけが、やたらとうるさく耳の奥で脈打っている。
「俺の罠……一応は、通じた、よな?」
当然、誰からの返事もない。
ただ森は、さっきより少しだけ静かで、不気味に重かった。
命からがら小屋へと帰り着き、木製の扉を閉めて鍵をかける。
服は泥だらけで、ところどころ赤く滲んでいた。
「……やばいな、あいつ一匹じゃないよな」
息を吐く。今夜襲われたら終わる。
指を震わせながら、魔法書の「魔法防壁」のページをめくった。
読んだ瞬間、頭に浮かぶのは“線”じゃなく“構図”だ。
地面にしゃがみ込み、小屋の床に指で大きな円を描く。結界の杭を打ち込むように、要所に小さな魔法陣を配置していく。
「これで……守れる」
最後の線を引く。一瞬、光が走った。
だが、次の瞬間にはインクが滲むように消えてしまう。
「なんでだよ……!」
見返して気づく。線が、ほんの少しズレていた。
自分では完璧に描いたつもりでも、読者には全く伝わらない“デッサン崩れの絵”と同じだ。一発じゃ綺麗に使えない。
じゃあ、画力のない初心者はどうする。
結論は一つ。
「……数だな」
一本じゃダメなら、何本も重ねて、補助線で補強すればいい。
時間の感覚が消えるほど、床に線を重ね続けた。
皮が剥けて指は痛むし、腕もガクガクと震えている。それでも止めない。
「これで……繋がるはずだ」
最後の線を打ち込む。
小屋の周りには、歪だけど確かに力を持った何重もの“線”が定着していた。プロの作画には程遠い、落書きみたいな防壁。
「……寝れるな」
そう呟いて、そのまま床に倒れ込む。
意識が途切れる寸前、外の森がやけに静かすぎることに気づいたが、もう考えるだけの力は一ミリも残っていなかった。
第一話後編を読んでいただきありがとうございました。
エリックにとっては初めての魔物戦でした。
本人は必死に生き残ろうとしているだけですが、読者の皆さまから見ると、
「なんかおかしな方向に才能が伸びてないか?」
と思われたかもしれません。
実際、この世界の魔法使いたちは魔法陣をそんな風には使いません。
エリックだけが、漫画のネームや構図として魔法陣を見ています。
だからこそ、本人は罠のつもりでも、周囲から見ると訳の分からない術式になっていきます。
そして後半で登場したゴブリンも、少しだけ不穏な動きを見せました。
エリックはまだ知りません。
自分が住んでいる森が、王国でも有数の危険地帯であることを。
次回からは少しずつ、この森の異常さと、エリック自身の異常さが見えてきます。
引き続き楽しんでいただければ嬉しいです。




