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残す箱

 家の整理を終えるまで、さらに三週間かかった。母の店に残った客の品は、すべて持ち主の手へ戻った。最後の礼服の人からは、受け取ったという連絡と一緒に、袖を通した写真が送られてきた。顔のない、肩から腰までの写真。直したところは外から見えず、礼服だけが体に沿っている。

 道具は町の洋裁教室へ譲った。ミシンを運び出す日は叔父が手伝い、井田さんがいつの間にか店へ来ていた。二人で機械の脚を外すあいだ、私はネジを小皿に集める。台が床から離れると、長く掃除できなかった跡が四角く残った。

「佳代さん、このミシンを買った日、練習用に自分の枕カバーを縫ったのよ」

 井田さんが、空になった場所を見て笑う。

「人の服を直すのは得意なのに、最初の枕カバーは歪んでてね」

「母さんにも、下手なころがあったんですね」

「そりゃあるよ。栞ちゃんにも、これから上手くなることがある」

 裁縫の話なのか、別の何かなのか。井田さんは答えず、外へ出て叔父と一緒にミシンを荷台へ載せた。物がひとつ減った作業場では、母の足音の記憶がかえって大きく聞こえる。

 夕方、私は裁ち台を拭いた。木目へ入り込んだ細い糸屑は、布巾でこすっても取れない。ピンセットを使えば抜けそうだったが、そのままにした。店を買う人には汚れに見えるだろうし、写真に撮っても写らない。

 母のコートは、紐でゆるく束ねた。仮縫いを完成させるよう誰かに頼もうとは思わない。袖の形が確かめられるところまで来て、母はそれを着ないまま死んだ。完成しなかったという事実を、せめて違うものにしないで持っていく。裏地の水色が少し覗くように畳み、東京へ送る箱のいちばん上に置く。

 店の引き出しの奥からは、私が小学生のころ縫った巾着も出てきた。紐を通す場所が左右で違い、引くと口が片側へ寄る。母は直さず取ってあった。私はそこへ青い毛糸のついた鍵を入れ、箱には入れず鞄へしまう。母が残したもののすべてを持てないとしても、自分の作った歪みは自分で持てる。


 その晩、千紗が作業場へ来た。店の人がいなくなった椅子へ座り、机の上の何もない場所へ手を置く。

「音が変わったね」

「ミシンを運んだから」

「そうだね」

 私は彼女の隣へ椅子を寄せた。閉じたシャッターの向こうで、夜の車が一台通る。

「母さんがここで何を見てたのか、全部はわからなかった」

「うん」

「でもコートを作ろうとしてたこと、知らずに持ち帰るよりはよかった」

「私も、見せてもらえてよかった」

 千紗は私の肩へ頭をもたせる。彼女が母のことを思う時間と、私が母を思う時間は同じではない。それぞれ違うものを見ながら、一つの机の前へ並べる。

「明日、この部屋を撮っておく」

「私が撮る?」

「自分で撮る。うまく撮れないかもしれないけど」

「うん。困ったらカメラの設定は教える」

「構図は?」

「聞かれたら」

 私は千紗の頬へ手を当てた。彼女がほほえむまでに一拍あり、その遅さを好きだと思う。「もう少しここにいて」と言うと、彼女は肩を預け直した。急がなくても、私たちには次の言葉がある。



 翌朝、店のシャッターを半分だけ上げた。午前の光が床の傷に沿って入り、奥までは届かない。母は暗い場所に手元の照明を置いて働いた。写真に残したいのは、明るい店というより、陽の届かない机の位置だった。

 携帯の画面へ部屋を収めると、開いた戸口の向こうに通行人の足が写る。撮り直そうとして、そのままにした。母の店は通りの一部だった。中を空にした私が撮る写真にも、通りを歩く誰かは入る。

 次に、裁ち台の端、椅子の脚の跡、外から見える看板を撮った。千紗の撮る写真のようにはならない。水平が少し傾き、窓の光が白く飛んでいる。けれど、どこへ立って何を見ていたかは残った。私は撮った画像を自分の携帯にしまう。誰かに見せるための確認は、今は要らない。


 昼、不動産屋と話し、家を売りに出す日を決めた。建物を使いたいという人が現れるかどうかはわからない。年内に申し込みがなければ条件を見直す。引き渡しまでの管理は私と叔父で分担する。それを紙に書き、不動産屋にも渡した。

 春まで母の家がここにあっても、母の店はもう開かない。私はシャッターの「しばらく休みます」を剥がした。テープの糊が残り、指でこすると黒くなる。紙の裏に何か書いてあればと、まるで物語の最後にふさわしい一文が出てくることを期待して、ひっくり返す。何もない。ただ、ガラスへ貼るときにできた折り目が二本ある。

 紙を資源ごみの束へ入れた。新しい札はつけない。店を閉めた人の名前は、窓の上に残っている。


 千紗は午後の撮影を終えてから、自分の展示の写真を取りに喫茶店へ行った。私はそこで合流する約束をしていた。写真を壁から外すと、釘の穴が小さく残る。店主は「このまま次の展示に使います」と言い、千紗は笑って穴の間隔を測った。

 乾きかけの壁の写真を包むとき、私は少し惜しくなった。

「また、見られる?」

「店に戻すよ。栞に渡したのと同じ写真だから」

「同じでも、こっちはいろんな人が見た」

「見られたぶんだけ変わると思う?」

「わからない。でも、私には少し違う」

 千紗は紙の縁を傷めないよう、薄い布で包む。私の手元にある一枚も、今ごろ東京の机で別の空気を吸っている。

 帰りにふたりで海まで歩いた。水際に落ちた夕日が、細かな波のたびに向きを変える。夏の波止場へは行かず、住宅の裏手から浜へ下りる。白い貝殻より、透明なプラスチックの破片のほうが目についた。

「東京に戻るのは、来週の火曜」

「月曜の夜、空いてる?」

「空いてる」

「写真館で食べよう。私が作る」

「うん。何か持っていく」

「食べられるものなら、なんでも」

 千紗は歩きながら私の小指へ指を掛ける。砂で歩幅が揃わず、そのたびに指がほどけかける。結び直すように、互いの手を探す。海風は冷たくなっていたが、掌の内側にはまだ、昼に触った写真の紙の感触が残っていた。

 波が寄せて引く。来週にも来年にも、この音は続くだろう。そのことは私たちがまた会う保証にはならない。今、同じ音の中で手をつないでいる。それ以上の理由を風景から借りず、私は千紗と家まで歩いた。



 月曜、私は写真館へ母の店の鍵を持っていかなかった。忘れたのではない。千紗の家で食べるのに、母の家を開ける用意はいらない。昼に最後の掃除をして、鍵は鞄の内ポケットへ入れた。

 写真館の奥では、千紗が鍋に豆を煮ていた。玉ねぎの甘い匂いが階段の途中まで上がる。私は駅前で買った小さなケーキの箱を台へ置き、エプロンを探す千紗に「手伝う」と言った。

「もう煮るだけ。栞はそこに座ってて」

「じゃあ皿を出す」

「それはお願い」

 戸棚の中に、柄の違う皿が六枚ある。二枚選ぶと、千紗は私の手元を見て「それ、父の好きだったやつ」と笑った。青い線が縁を回る皿。彼女はこの家で父を失ったあとも、同じ皿で何度も食事をしたのだろう。

 私が母の湯呑みをしまうたび息を止めるように、千紗にも、いなくなった人と暮らす日々がある。その人の話を毎回聞く必要はない。今夜は豆の煮え具合を二人で確かめ、塩を少し足す。

 食べ終えると、千紗は仕事机の引き出しから小さな写真の封筒を出した。

「これ、栞に」

 母の店のシャッターの前に立つ私の写真。画面で見たときより、紙に焼かれた顔は静かだった。手が握りしめられている。風で浮いた髪の一本まで見えた。

「写真になると、恥ずかしい」

「出すつもりはない。栞が持つ分」

「千紗も持ってる?」

「うん。撮ったから」

 私は写真を裏返す。日付だけが記され、名前も説明もない。撮られた日を私が忘れても、写真はそのときの光を持つ。ただし、写真の中の私がそのあと何を話し、どこへ行くのかまでは写っていない。

「ありがとう」

「撮らせてくれて、ありがとう」

 千紗が封筒の口を折る。指の腹を紙の端に沿わせる仕草を、私はいつまでも見ていたい。けれど明日は東京へ戻る。駅までの時間を数えるかわりに、今できることをする。

「千紗」

「なに」

「好き」

 彼女は手元を見たまま、何かを確かめるように瞬いた。十七歳の夏に飲み込んだ言葉を、二十八歳の私が言う。受け取る人も、同じ歳を重ねている。

「私も、好き」

 千紗は封筒を置き、こちらへ来る。私が抱き寄せると、彼女の首元に石鹸と食事の匂いが重なった。

「明日、寂しい」

「うん」

「東京の部屋へ帰っても、きっと」

「私も、明日はこっちにいる」

 彼女は肩に頬を当てて笑う。

「別々だね」

「別々の場所でも、話せる」

「そうしたい」

 千紗は来月、東京で二日だけ仕事をする予定があると教えてくれた。写真の納品と打ち合わせ。その帰りに私の部屋へ行ってもいいか、と訊く。

「仕事のついで?」

「栞に会いたいから、日程を一日伸ばした」

「なら、来て。狭いけど」

「写真は飾ってある?」

「壁の写真を机に置いてる」

「今度、見せて」

 私たちはその夜、相手が遠くにいる日の話を少しだけした。毎晩連絡するという約束はしない。千紗には朝早い撮影があり、私にも締切前の夜がある。会える日を決めたら知らせ、会えない日には会いたいと言える。暮らしを縛らない言葉の幅を、互いに確かめる。

 帰り際、千紗は店の扉までついてきた。通りの向こうに母の閉じたシャッター。私はそちらへ一度目をやり、千紗へ戻す。彼女の頬に触れ、ゆっくり口づけた。雨のない夜、髪の先が手の甲をくすぐる。

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