潮の届かない部屋
翌朝、叔父が車で駅まで送ろうと言った。私は歩いていくと答え、荷物の一部だけ宅配便に預けた。家の中には、箒と日用品を少し残してある。売却の案内が出れば、叔父と交互に空気を入れ替えるつもりだ。母のコートの箱はもう東京へ向かっている。
仏壇の前に座り、水を替える。母の遺影はここに残す。私は別に焼いた写真を持っている。写真の中の母が、撮られた日に何を話したか、全部は知らない。そのまま顔を見ることが、以前ほど苦しくなかった。
玄関を出て鍵を回す。青い毛糸は指に引っかかり、すぐ離れた。店のシャッターにはもう紙がない。風が当たっても、金属だけの軽い音。家に向かって「行ってきます」と言いそうになり、言わなかった。建物に返事を求めなくても、ここで暮らした年月はなくならない。
千紗は写真館の前にいた。店を開ける前で、鞄を肩へ掛けている。
「児童館へ行く前に、駅まで歩ける」
「仕事の時間、大丈夫?」
「そのつもりで家を出た」
私たちは坂を上がり、朝の市場を横切った。魚を運ぶ台車の音、昨夜降った雨の湿り気、パン屋の裏口から出る焼けた匂い。来た日の通りと同じ道なのに、私の目は千紗の歩く速さを追う。
「東京で、何が食べたい?」
「行ってから決める。栞のいつも行く店も見たい」
「駅から遠いけど、小さい定食屋がある」
「歩くよ」
話しているのは来月の二日間だ。だから、今年の冬も来年の春も続くと安易には言えない。それでもその二日間を確かに楽しみにできる。
駅の手前で、千紗が足を止めた。向こうに自動改札の音が聞こえる。
「ここからなら間に合う」
「うん」
私は鞄を肩から外し、持ち手を反対の手へ移した。千紗が私の空いた手を取る。冷えた指が重なり、握るうちに互いの熱が移る。
「また連絡する」
「私も」
千紗は、いってらっしゃいと言った。私はいってきますと返す。今度は行った先に自分の暮らしがあり、ここにも、帰ると決めれば会える人がいる。そう考えるのは怖くもあった。約束があるぶん、守れない日の痛みも生まれる。けれど、怖さを取り除くために彼女の手を放したくない。
改札を通って振り返ると、千紗はまだ立っていた。手を振り、すぐに歩き出す。児童館へ行く道は駅から右へ曲がる。彼女の背中が人の流れに混ざるまで、私はホームへ上がらなかった。
列車の窓から海は見えない。桐浜の家並みの上に、雲の薄いところだけが明るく残っている。膝の上の封筒には、千紗が撮った私の写真。開かずに、角を親指で押さえた。
東京へ戻ってしばらくは、連絡する時間をうまく揃えられなかった。私が校正を終えるころ、千紗はもう翌朝の撮影に備えて寝ている。彼女が店を閉めるころ、私は編集部で差し替えの原稿を待っていた。返事のない画面を見ていると、十一年前に自分から閉じた連絡先のことが頭をよぎる。今の千紗の眠りまで、昔の沈黙と同じにしないように、携帯を机に置いた。
ある夜、仕事を終えて帰る途中、私の携帯が鳴った。千紗からの電話。駅の階段の途中だったので、いったん人の流れを抜け、柱の脇へ寄って出る。
「声、聞きたくなった」
「私も。いま帰り道」
向こうでは蛇口をひねる音がした。千紗は翌日の撮影用に水筒を洗っているという。私は改札の外へ出て、冷たい風を避けるためにマフラーを上げた。話したのは、印刷所から届いた紙が湿っていたことと、写真館の客が猫を抱いたまま証明写真を撮りたいと言ったこと。電話を切っても、すぐ会えるわけではない。けれど私は家への道を、話す前より足取りよく歩いた。
母のコートの箱を開けたのは、その週末だった。水色の裏地を膝に広げ、仮縫いの糸を指で追う。似合ったかどうかは、もう母に訊けない。私は糸をほどかず、箱へ戻した。その横に千紗が撮った私の写真を置く。別々の日に、別々の人が残したもの。並べたところで一つの答えにはならず、私の部屋に二つの時間があるだけだった。
千紗が東京へ来た日は、朝から細い雨が降っていた。納品を終えた彼女は駅で傘を買い、夕方、私の部屋の前に立つ。写真館の玄関で待つ彼女とは違い、知らない廊下の奥で少し所在なさそうだ。
「狭いって言ったよね」
「私の荷物を置いたら、もっと狭くなる」
千紗は笑い、濡れた鞄を持ち上げる。私は扉を大きく開ける。玄関の靴が二足になると、奥の流しまでの道が少し曲がる。
彼女が手を洗っているあいだ、私は湯を沸かした。東京の水は桐浜と味が違う、と千紗は言わない。代わりに、洗面台の脇に積んだ本を見て「本当に校正してる人の部屋だ」と言う。私には当たり前の紙の山が、彼女には初めて見る私の仕事の形だった。
「赤字、読める?」
「文章は。記号は難しい」
「あとで教える」
「写真の絞りの話をするときの栞も、きっとこんな顔」
「どんな顔」
「知らないことを、知りたい顔」
湯気が彼女の頬へ当たる。桐浜では私が千紗の暮らしへ入った。今日は彼女が、私のいつもの流しの前に立つ。どちらの家でも、私たちは同じ人ではない。互いの知らない癖が、まだいくらでも出てくるだろう。
机には、乾きかけた壁の写真がある。千紗はそれを見つけ、額に入れていないことを責めず、「ここだと光が違うね」と言った。桐浜の店で見た紙は昼の光を返していた。私の部屋では、非常階段の灯りと机のスタンドを受け、壁の濃いところが少し深く見える。
「写真の場所、思い出した?」
「まだ。たぶん、ずっと思い出せない」
「そう」
「でも、どこかにあるんだろうね」
千紗は写真から目を離し、部屋の奥に置いた細長い箱を見る。母のコートの箱。封は切ったが、まだ中身を取り出していない。
「開ける?」
「今日はいい。あなたが来た日だから」
「いつでも手伝うよ」
「自分で開けてから、見せたい」
千紗は頷く。私も彼女に、母の布を見て何かを言ってほしかったわけではない。ただ、この部屋に母の途中の時間があることを知っていてほしい。それと同じくらい、千紗には今夜、自分の撮った写真を広げてほしい。
彼女は仕事の鞄から、新しく撮った工場の人の写真を数枚出した。手袋を外したあと、指の節へ鉄の粉が残る男性。帽子の跡が額についた女性。奥の機械を見上げる二人の背中。写真館の展示で見た通りに、千紗は働く人へ目を向けている。
「この人、撮られるのを嫌がった?」
「最初は。仕事のじゃまになるって。でも休憩に話したら、自分の手だけならって」
「手を撮ってから、顔も?」
「顔は撮らなかった。そこまでは頼んでないから」
写真の男性は、手だけで仕事をしているわけではない。千紗もそれを知ったうえで、許されたところを写した。私が彼女に知ってほしいことにも、まだ言葉にしない部分がある。いつか話すのか、話さないのか。決めるのは、そのときの私たちだ。
雨が窓を細く叩く。千紗は写真を集め、皿を並べるために立ち上がった。
「定食屋、行かないの?」
「この雨なら、家で食べよう。材料を買ってある」
「何を作る?」
「まず野菜を切る。あとは千紗に相談する」
「料理の途中で?」
「そのほうが間に合う」
彼女は呆れたように笑い、流しの前へ来る。二人で立つには狭いので、私は一歩引き、包丁を渡した。まな板に刃が当たる音が、部屋の奥まで届く。海の音はない。千紗の肩越しに見える窓にも、港の灯りは映らない。
今夜のあと、彼女は桐浜へ帰る。私はここで仕事をし、母のコートの箱を開けるだろう。会えない夜は、また来る。それでも彼女の手が濡れた野菜をひとつ取るのを見て、私は次に会う日を、怖がるだけでなく待てると思った。
「栞、これ、どのくらい切る?」
「あなたが食べやすい大きさ」
「それじゃ、私が決めていいんだ」
「うん」
千紗は包丁を置き、私のほうへ振り向く。先に差し出した手を彼女が取る。水のついた指は冷たく、掌はすぐ温まった。窓の雨は少しずつ弱まり、ふたりの影が、机の上の写真に重なった。




