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音の届く距離

 翌日、千紗の店には朝から客がいた。私は向かいのシャッターを上げ、預かり物を宅配便で送るために包んだ。黒い礼服の肩は、畳むと針目が見えなくなる。電話口の人が希望した写真も、すでに送ってある。必要な手順を確かめれば、私にもできる。

 昼、写真館の鈴が鳴り、千紗が外へ出てきた。私も表へ出る。道路には配送車が停まり、車体の影が二軒のあいだを埋めている。

「下見、行くの?」

「今から」

「行ってらっしゃい」

「うん」

 千紗は短く返し、機材を車に積む。昨日のことがないみたいに手を振れたら、と思う。けれど、なかったことにしたくないのも確かだった。

 宅配便を出しに駅へ行く途中で、叔父に電話する。家を売りに出したいと伝え、不動産屋から聞いた条件を話した。叔父は黙って聞き、最後に「決めたなら手伝う」と言う。

「佳代の家だから、俺にも思うことはある。でも住むのも管理するのも栞だ。人の思いだけじゃ屋根は直せん」

 私は歩道の端へ寄る。秋の光で舗装の白い骨材が光っていた。

「母さん、怒るかな」

「わからん。俺に都合のいい佳代を作っても仕方ないだろ」

 叔父は珍しく、少し強い口調になった。

「お前が決めるために呼んだんだ。相談ならする。代わりには決めない」

「うん」

 電話を切ると、荷物の角が腕に食い込む。母の家を売ることも、千紗と次に会う日を決めることも、誰かに引き受けてもらえない。私は宅配便の受付へ向かい、住所を書いた伝票を出した。


 翌朝の電車に乗る前、母の仏壇の水を替えた。千紗が持ってきた小菊はすでに花を終え、新しい花を買ってある。花瓶の水は濁らないよう、茎の切り口を少しだけ短くする。台所の戸締まり、二階の窓、店のシャッター。ひとつずつ確かめると、出るまでに思ったより時間がかかった。

 写真館の扉はまだ閉じていた。私は携帯に「二、三日で戻る。昨日は仕事の前に声をかけてごめん」と書く。送信する前に読み返し、「戻ったら、会う時間を聞きます」と足した。

 千紗からは駅のホームで返事が来た。

「いってらっしゃい。帰りの時間、決まったら教えて」

 画面を閉じ、列車の到着を待つ。潮の匂いはホームの屋根まで来ない。代わりに、線路の油と、誰かの温かい缶珈琲の匂いがする。私は千紗の返事を何度も読まず、鞄へ携帯をしまった。

 車窓に町が流れる。写真館は見えない。海の手前の低い家並みが、線路から少しずつ遠ざかる。今度こそ戻ると言いたかったが、口に出せば約束になる。帰りの切符はまだ買っていない。まず東京で、帰る日を決める。



 東京の部屋には、桐浜から持ち帰った紙袋が一つだけあった。中身は仕事用の資料と、乾きかけた壁の写真。机に置くと、部屋の狭さが戻ってくる。窓の外には隣の建物の非常階段があり、夜に光るのは足元の小さな常夜灯だけだ。

 私は洗濯機を回し、溜まっていた郵便を開ける。水道料金、店の広告、校正の請求書。どれも、私がここで生活を続けていた証拠になる。母の家を出るときに感じた痛みと別のものが、ここにも積もっている。

 翌日の打ち合わせは長かった。原稿の差し替えが二箇所あり、使われている写真の説明と本文が合わない。編集者とページを行き来しながら、私は赤字を鉛筆へ移した。途中で空調の風が首に当たり、襟を立てる。普段どおりの仕事ができる自分に、少し遅れてほっとした。

 終わったあと、同じ編集部の篠原さんと駅まで歩いた。彼女は私の母が亡くなったのを知っている。すぐには言葉を探さず、改札の手前で「少し休めた?」と訊いた。

「実家を片づけてた。休みというより、別の仕事みたい」

「うん。それはそうだと思う」

「今度、家を売る」

「そっか」

 篠原さんは歩く速さを落とした。私たちの間を、急ぐ人が通り抜ける。

「決めたあと、すっきりすると思ったんだけど」

「決めたことと、平気になることは別かもね」

 彼女はそのまま電車の時刻を見る。仕事帰りの会話はそこで終わり、私は駅の階段を下りた。何も解決しない返事を、体が長く覚えていることがある。


 部屋へ戻り、母とのやり取りを携帯で開いた。去年の十二月、私は焼き菓子の写真を送った。そのあと、母は「帰ってきたら一緒に行きたい」と書いている。私の返事は、「こっちでしか売ってないよ」。軽い冗談のつもりだった。母は「そうね」と返し、店の写真を一枚送ってきた。母のミシンの上に、布の切れ端が並んでいる。

 私はその写真を保存していなかった。画面の小さな色だけでは、何の布だったかわからない。拡大すると粒が粗くなる。それでも、母は自分の手元を私に見せたかったのだとわかる。

 見せようとしたものが届かなかった日も、見せなかったものを後悔する日も、二人のあいだにはあった。今それを、言葉の足りなかった誰か一人の罪にまとめたくなかった。

 千紗には写真を送ろうとしてやめた。母の店のものでも、東京の駅のものでもなく、何か話したいことがあるなら自分の言葉で言えばいい。私は洗濯物を干し、窓の前で一度深く息を吸った。柔軟剤とアスファルトの匂い。ここは私の家だ。


 仕事の日程を確かめ、日曜の帰りの切符を買う。不動産屋へは売却の手続きを進めたいと連絡した。建物を生かしたい買い手も含めて探してもらうが、期限を決め、条件を見て判断する。母の店を残す保証は求めない。修理のあとも空気を入れ替えるため、叔父と自分で通える日の表を作った。千紗に見回りを頼む欄はない。

 土曜の夜、私は彼女へ連絡した。

「日曜に桐浜へ戻ります。十九時くらいから、一緒に食事をしたい。時間ある?」

 送信してから、語尾が仕事の依頼のように硬いことに気づく。取り消す前に返事が来た。

「二十時なら。撮影の片づけが終わるころ」

「二十時、うちで待ってる」

「食材、何か持っていくね」

 やり取りはそれだけだった。台所の電球を消し、机の写真へ目をやる。水を吸った壁は、乾くまでの途中で撮られた。次に見たとき、同じ境目はないだろう。だから今夜の紙の色が残っている。

 私は翌日の荷物へ、母のコートの袋を入れようとしてやめた。あれは桐浜にある。日曜、戻ってから、自分で持ち出す。



 日曜の桐浜駅は、改札前のパン屋がもう閉まっていた。電車から降りた人の列が解け、私は住宅街へ向かう。東京に戻るときは見えなかったものが、歩く速さで一つずつ現れる。薬局の赤い看板、雨で汚れたガードレール、道端の小さな石碑。町が私を待っていたわけではない。私が再び通るから、そこにある。

 母の家の前には、修理業者が置き忘れた木片が一つ残っていた。玄関を開け、台所の窓を細く開ける。空気が動き、仏壇の花の葉がかすかに擦れた。花瓶には叔父が足してくれた水がある。私は電話で礼を言い、戸締まりと工事のあとを確かめたと伝えた。

 十九時半を過ぎても、写真館の灯りはついている。私は鍋に水を入れ、昆布を浸した。千紗は何を持ってくるだろう。前なら、それを考えながら彼女の窓を見続けたと思う。今日は自分が作るものを先に決める。菜っ葉を洗い、豆腐を切る。二つの椀を出してから、座る場所の近いほうへ母の椅子を置き直した。

 八時を少し回って、呼び鈴が鳴る。千紗は鞄を下ろす前に「遅れてごめん」と言った。頬にカメラの紐の跡がある。紙袋には焼いた鯖のほぐし身と、彼女の家で炊いたご飯。

「撮影、どうだった?」

「工場、下見より光が暗くて。途中で外の扉を開けてもらった」

「寒かった?」

「働いている人が暑いって言ってたから、私が勝手に寒がってた」

 千紗は靴を揃え、いつものように台所へ来る。流しで手を洗うあいだ、私は彼女の背中を見る。ここにいたことを確かめるためだけに触れたくなる。でも今夜はまず、話すと決めた。

 食事の途中では仕事のことを聞いた。工場で働く人の手が止まらないよう、休憩時間にだけ顔を撮らせてもらったこと。仕上がった写真を渡す前に、誰がどこに掲示するかを確かめたこと。千紗が力を入れる場面を、少しずつ私は知る。あの夏の千紗が大人になったのではなく、私の知らない時間を生きた人がいま向かいにいる。

 片づけが済むと、私はテーブルへ不動産屋の書類を出した。

「これを見てほしいわけじゃないの。自分で手続きを始めたって、伝えたくて」

 千紗は紙に手を触れず、頷く。

「東京で、家のことも叔父さんと相談した。見回りを千紗に任せるつもりはない。私が帰ってくる理由も、母さんの店があるからじゃなくて、あなたと会いたいから」

「うん」

「写真館に泊まれるかどうかは、次に来る日が決まったとき聞く。断られても、私は町に来られる」

 少し長く話しすぎた。私は書類の角を揃える。

「この前は、千紗がここにいてくれれば私が安心できる、みたいに言った。ごめん」

 千紗は肘を食卓につき、指を組む。

「私も、栞が帰るって聞くたび、十七の夏の続きみたいに構えてた」

「それは、私が」

「うん。あのとき傷ついた。でも、今の栞が仕事へ行くことまで同じにしたくない」

 彼女が言い終わるまで、私は目を逸らさなかった。こちらが謝れば消える痛みではない。彼女が時間をかけて持っていたものだ。

「行く日は、ちゃんと言う。戻る日も、決めたら言う。決められないときは、そのまま伝える」

「それなら、私にも聞ける」

「千紗は、私と会いたい?」

 彼女は短く笑い、椅子の横へ置いた鞄を見た。

「鯖をほぐして持ってきたんだよ。会いたくない人にはしない」

「言葉でも、聞きたい」

「会いたい。栞がここにいても、東京にいても」

 私は彼女の掌へ自分の手を載せる。千紗は握り返す前に、指の位置を確かめるようにゆっくり動かした。

 この家を売る話は続く。千紗の仕事も、私の仕事もある。何も決着していない食卓で、私は初めて、決着を急がずに彼女の手を持てた。


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