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値をつける日

 十月の二週目に、不動産屋が家を見に来た。五十代くらいの女性で、入口で靴を揃え、雨漏りの窓を時間をかけて確かめる。母の店を住居として使う場合と、取り壊して土地だけ売る場合とで、条件が変わるらしい。私は説明を聞き、手元の紙へ数字を書いた。

「お店を残してほしい、というご希望はありますか」

 女性が訊く。希望、と言われると、ここで商いを続ける人の顔が浮かばない。

「自分では使いません。でも、壊すしかないんですか」

「建物を生かす買い手がいれば。そこは待つ期間との相談です」

 叔父は急がなくていいと言った。税金も、窓の修繕費も、空き家を見回る人の時間も、季節ごとに積もる。私にはいつまで待てるのか、すぐにはわからない。

 彼女が帰ると、店がほんの少し他人の目で見える。母が背を丸めた椅子、裁ち台の古い傷、入って右側だけ色の抜けた壁。買う人が初めてこの扉を開ければ、すべて使い道を考えるための材料になる。私はその視線を責められない。売るために呼んだのは自分だ。

 午後、査定の書類を封筒へ入れて千紗に会いに行った。写真館では、展示を見たという若い女性が、自分の祖母の家を撮ってほしいと相談している。千紗は相手が語る台所の位置を紙へ描き、光が入る時刻を訊く。私は邪魔をしないよう、窓辺の椅子に座った。

 客が帰ったあと、千紗は私の封筒へ目をやる。

「見に来たんだ」

「うん。母さんの店を残したいなら、買い手を待つことになるって」

「栞は?」

「まだ決められない」

「それでいいよ」

「仕事をしている人からすると、空いた店は何かに使える?」

 千紗は椅子を回し、通りの向こうのシャッターを見た。

「昔、私も考えたことがある。写真館の壁が足りないから、あそこで小さな展示をしたらって。でも、佳代さんの店だからそう思ったのかもしれない。新しく借りるなら家賃も電気代もあるし」

 私の中で、店に灯りがともる絵が一瞬できる。千紗の写真が並び、私が東京から来てそれを見る。けれど、彼女が数字を挙げた途端、絵の下には費用を負う人が現れる。

「貸すつもりで言ったわけじゃないよ」

「わかってる。私も今、使う予定はない」

 千紗は微笑み、書きかけの台所の図を整えた。私は母の店を残す理由を、彼女へ渡しかけた。彼女の手がまだ、別の人の家を撮る準備をしているあいだに。


 帰ってから、コートの布を畳んだ。裏地に選ばれた淡い水色は、母の普段の服より華やかだ。袖を縫い合わせれば、母の肩に一度も載らない服ができる。縫わなければ、裁ちかけのまま時が止まる。どちらも正しいと言えるほど、私は裁縫を知らない。

 袋へ入れ、外側に「佳代のコート」と書いた。捨てないものの箱に置く。その箱には写真数枚と、私の中学の制服のボタンも入っている。持っていけるものの量を測ると、母の暮らした場所はあまりに大きい。箱を閉じずに、私は夕飯の米を研いだ。



 写真館から帰る道は二十歩なのに、その夜は千紗がついてきた。特別な用事はない。茶碗を片づけ、母の家の古いテレビを一緒に見て、何の番組だったか覚えていないころに、千紗が私の肩へ頭を寄せた。

 膝の上で重ねた手は、最初どちらの指がどこにあるのかわからない。千紗の小指が私の掌をなぞると、二階の風の音まで遠のいた。

「遅くなるよ」

「向かいだから」

「そうじゃなくて」

 千紗は顔を上げる。髪が頬へ落ち、その奥の目が笑っていない。真面目に聞いている。

「帰ってほしくない」

 口に出すと、自分の体の中にそれまでなかった場所が開くようだった。千紗は「明日は朝から撮影」と言い、私は頷く。断りの前置きかと思ったが、彼女は続けた。

「服を取りに行ってもいい?」

 私が手を離すと、千紗は靴下を履き直し、いったん通りを渡った。向かいの二階に灯りがつく。私はそのあいだに、母の布団をもう一組出した。どこへ敷くのかわからず、畳の上で丸めて置く。

 千紗が戻ってくると、洗いたてのシャツと歯ブラシを小さな袋に入れていた。私はそれを受け取り、浴室へ案内する。家に他人の歯ブラシが増える音はしない。ただ、洗面台に並んだ二本の色の違いが、不意に目を刺す。

 灯りを落とし、彼女の隣へ横になる。言葉にすれば簡単なことを、体が確かめるのに時間がかかる。千紗の腕の下をくぐり、肩甲骨へ指を当てると、呼吸のたび骨が動く。互いに触れたいところを聞き、黙ってもいいところは黙った。遠くで船の機械音がし、やがて聞こえなくなる。知っているはずの天井の木目の下で、千紗の指が私の手首を探した。畳の近くに、母の家では聞いたことのない呼吸が続く。

 朝、千紗が先に起きた。布団の端を整え、私が見ていることに気づくと、寝癖のついた髪に手をやる。

「見ないで」

「昨日は見せてくれたのに」

「朝の顔は別」

 真剣に言うので、私は声を立てて笑った。千紗が枕を軽く投げる。窓の外はまだ青く、店のシャッターはどちらも下りている。写真館の仕事が始まれば、彼女は別の人の顔へ向き合う。その前の短い時間だけ、私の前にいる。

 台所で味噌汁を温め、残ったご飯を二つに分けた。千紗が食べ終わるころ、仕事の着信が私の携帯に入る。来週の金曜、対面で急ぎの打ち合わせがある。東京へ出てこられるかと訊かれ、「行けます」と答えた。

 電話を切ると、千紗は湯呑みを置く。

「来週、戻るんだ」

「仕事のために二、三日。まだ店の片づけがあるから、また来る」

「わかった」

「戻ってきたら、展示の続きを一緒に見よう」

「展示は月末までだよ」

「間に合う」

 私は日付を数え、空白に入る予定を手で押さえるように言った。千紗は頷いたが、表情は読めない。

 玄関で彼女は靴を履き、私の頬へ手を当てる。朝の指は少し温かい。唇が一度触れ、昨日より短く離れた。

「気をつけて行ってきて」

「まだ来週」

「来週も、言う」

 千紗は笑う。私は彼女が道を渡るのを見届け、テーブルの湯呑みを洗った。ここから東京へ行く電車の時刻を調べながら、千紗がまた「行ってきて」と言う声を、先に思い描いてしまう。



 東京へ行く切符を取った日、雨漏りの窓の交換が終わった。新しい枠だけが家の壁より白く、二階へ上がるたび目に入る。修理の人は「これで冬は越せます」と言った。私はその冬をこの家で迎えるつもりがないまま、領収書へ名前を書く。

 夜、千紗と台所で食べた。窓の外に自転車が通り、立てかけた脚立がそのライトを一瞬返す。千紗は展示に出した写真の相談をした人から、別の撮影を頼まれたという。古い町工場の働く人を撮ってほしい、と。

「いつ?」

「来月。稼働しているうちに撮りたいって」

「いい仕事だね」

「まだ、どんなふうに撮れるかわからない。手を止めてもらうわけにもいかないから」

 彼女は食べ終えた小皿を重ね、明日の下見に持っていくレンズのことを話す。私はその声を聞きながら、東京の打ち合わせから帰ったあと、またこの台所へ来れば同じように会えるのだと考える。

「家、売る方向で進める」

 千紗の箸が止まった。

「決めたんだ」

「すぐ売れるかわからないけど。私が住まないまま維持するのは、難しい」

「うん」

「ここがなくなっても、桐浜へは来るよ」

 千紗は皿の水滴を指で拭う。

「そうだね」

「写真館に泊まってもいいし。ここに来る理由がなくなるわけじゃない」

 私の言葉は一見、千紗に会いに来ると伝えている。けれど彼女の顔から、あの朝の温かさが引くのがわかった。

「写真館に泊まるって、もう決まってるの?」

「違う。もし、千紗がいいなら」

「どうして売る話のすぐあとに、それを言うの」

 私にはすぐに答えられない。箸先を揃え直し、まだ食べていない一口へ目を落とす。

「家がなくなっても、千紗に会いたいから」

「それは聞いた。でも、家の代わりのように言われると、私には引き受けきれない」

「そんなつもりじゃ」

「今は、そう聞こえた」

 千紗は声を荒らげない。その静けさの中で、私の言った「写真館に泊まってもいい」が、相手の家を勝手に開けた音を立てる。

「ごめん。予定を決めたかったわけじゃない」

「予定なら、聞けるよ。何日に会いたいか、栞が何をしたいか」

「ただ、戻ってこられるって思いたかった」

「それを私に保証してほしいの?」

 千紗は自分の掌を見た。店で父の古いアルバムを運び、客の顔を撮り、母の湯呑みを洗った手。彼女がここに住むと決めてきた日を、私は家へ帰るための道しるべに変えかけていた。

「私もずっとここにいるかは、わからないよ。父の店を続けたいとは思ってる。でも、仕事が変われば出かけることもある」

「わかってる」

「わかってるなら、私がそこにいる前提で安心しないで」

 窓の外で風が止み、換気扇の音だけが残った。

「千紗は、私に来てほしくない?」

 聞き方を間違えたと、声にしてから気づく。

「来てほしいから、こう言ってる」

 千紗は立ち上がり、皿を流しへ運ぶ。私は引き止める言葉を探し、口を閉じたまま茶碗を見ていた。十一年前は答えを聞かずに逃げた。今は聞いた答えを、好きな形へ直そうとしている。

 千紗は皿を洗い終えると、手を拭いた。

「今日は帰るね」

「送る」

「道一本だから」

 彼女は靴を履く。私は玄関の脇に立ち、手の届かない距離を保つ。

「東京から戻ったら、話したい」

「うん。帰ってきたら、連絡して」

 鍵を掛けるまで、彼女の足音は聞こえなかった。二階の新しい窓枠が、街灯の反射で薄く光る。直した場所は丈夫になった。その周囲の古い木まで、強くなったわけではない。


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