借りた灯り
十月の最初の土曜、港の小さな秋祭りがあった。母が元気だったころ、店の前を通る子どもへ菓子を配っていた。私は祭りに行くつもりはなかったが、店で梱包材を畳んでいると、千紗が赤い提灯の下から声をかけた。
「写真を撮りに行く。少し歩く?」
「今日は仕事じゃないの」
「私の仕事。頼まれてないほう」
シャッターを下ろし、母の薄手のカーディガンを羽織った。袖が少し長く、手首で二度折る。千紗のカメラは黒い小型のもの。幼い日に借りたカメラとは違うが、肩に掛けると体の一部のように収まる。
港へ向かう道に、焼いたイカの匂いが漂う。綿菓子の袋が電線に触れて音を立て、子どもがそれを追う。祭りの会場は埠頭の手前の広場だけで、奥へ行けば普段どおりの船と網が並んでいる。
千紗は屋台を撮る前に、店の人へ声をかける。忙しそうならカメラを下げる。その繰り返しを見ていると、写真を撮る時間の大半は、撮らない時間なのだと思う。
「栞ちゃん?」
振り向くと、井田さんが揚げ菓子の袋を提げていた。母のコートのことを、私がまだ考えているのを知らない。
「帰ってきてたのね。佳代さんの店、片づけてる?」
「少しずつ」
「そう。お母さんね、栞ちゃんの原稿を見せてくれたことがあるのよ」
私は千紗を見た。彼女も初耳らしい。
「原稿?」
「本になる前の校正。赤い字がたくさん入ってた。ここが栞ちゃんの字だって、嬉しそうに」
仕事の一部を撮って送ったことはある。母はその写真を井田さんに見せたのか。自分の娘が何をする人か、誇るために。
「私が書いた文章じゃないですよ」
「知ってる。読めるようにする仕事だって、教えてもらった」
井田さんは袋から菓子を二つ渡し、別の知り合いに呼ばれて行った。揚げたての砂糖が紙袋の内側に落ちる。母は私の仕事を知らないと思い込んでいた。私が詳しく話さなかっただけなのに。
千紗は何も言わない。私は一つを彼女へ渡す。噛むと油の熱と砂糖が舌に残り、思わず息を吐く。
「お母さん、知ってたんだね」
「写真を一枚送っただけなのに」
「だから、嬉しかったんじゃない」
「私は母さんのコートを知らなかった」
比較しても意味がない。それをわかっていて、口にしてしまう。
「栞が送った写真を、佳代さんが井田さんに見せた。それでいいと思う」
千紗は菓子の粉を指で払う。私が欲しがる帳尻を、彼女は合わせようとしない。
広場を抜け、波止場の奥へ行くと人が減った。水面に提灯が細い線となって揺れ、風が強まるたび、線の先がちぎれる。千紗はあの日の階段を見たのか、歩みを少し遅くした。
「まだここ、上がれるんだ」
「柵が新しくなってる。去年、直したらしい」
雨の日の階段とは違って、足元は乾いている。千紗が上がり、私も続く。上から町を見ると、写真館と母の店の灯りは見えない。建物に隠れた場所にも、人の夕飯と洗濯物がある。
「前に来たの、いつ?」
「十七の夏」
千紗はカメラを腰に下ろす。
「私も、栞とはそれきり」
「覚えてるんだ」
「忘れろって言われたから、忘れたことにしてた」
言葉は軽くなく、責める調子でもない。潮が石の隙間へ入り、泡を小さく残して引く。
「私、あのとき答えを聞くのが怖かった」
「知ってた」
「嫌だったんじゃなくて、東京へ行くことも、好きだって言うことも、両方捨てられなくて。千紗の気持ちを聞いたら、何か決めなきゃいけないと思った」
「私が選ばせると思った?」
「思った。勝手に」
千紗の横顔に提灯の明かりが届く。彼女は海を見ている。
「私は、栞を好きだったよ」
胸の奥が縮むように息が止まる。聞きたくて、聞かずに来た言葉。その音は、期待していたより静かだった。
「過去形?」
「十七の私の話をしてるから」
「今のことは」
「急がないで。あのとき私には答える時間がなかった」
千紗はカメラの紐を肩に掛け直し、階段を下り始める。私は一歩遅れて続いた。海を背にすると、風が頬から離れていく。
帰り道、露店の明かりの切れ目で彼女の袖をつかみたくなる。私は自分のカーディガンの袖を握った。母の服は、私の手を隠すには少し長い。
祭りの翌日、千紗から写真が一枚届いた。水に映る提灯ではなく、揚げ菓子を持つ私の手。母のカーディガンの袖が、手の甲まで下りている。
「いつ撮ったの」と返すと、「井田さんが来る前」と返事が来る。それきり画面は静かになった。千紗は急がないでと言い、私は急がないための行動がわからない。送られた自分の手をしばらく眺め、携帯を伏せた。
夕方、母の店で仕事の校正をする。誤字に印をつけ、同じ言葉が二度続く箇所を指で追う。文字を直せばページの向こうにいる人が読みやすくなる。それなのに自分が口にした言葉は、十一年経っても、紙の上の誤植のようには直らない。
表のガラスを軽く叩く音。千紗が、額縁を二つ抱えて立っていた。
「展示の準備を手伝ってくれる? さっき頼むつもりだったのに忘れた」
「今から?」
「明るいうちに位置だけ決めたい。忙しかったらひとりでやる」
私は校正紙に栞を挟む。自分の名前と同じ字の小さな紙片。母はこれを見て笑っただろうか、と、関係のない考えが浮かぶ。
「行く」
喫茶店は駅の北口にあり、閉店後の店内には珈琲豆の熱がまだ残っていた。壁にかかっていた版画を外し、千紗の写真を十枚並べる。持ってきた紐の長さが揃わず、私は低くなった一枚を何度も掛け直した。
「まっすぐじゃないと嫌?」
「見る人が気になるかなって」
「私は少しずれててもいい」
「なら、そのまま」
千紗が笑う。作業の途中、店主が余った珈琲を紙カップで二つ持ってきた。閉店した商店の軒先、足の濡れた犬、窓を拭く人。写真を移動すると、隣り合った画面の中で、違う日の光が混ざる。
乾きかけの壁は最後に掛けた。千紗は私へ一歩下がるよう合図し、並びを見ている。
「これ、誰もいないのに寂しくない」
私が言うと、彼女は首を傾ける。
「そう?」
「洗濯物を取り込む前の家みたい。今は見えなくても、人が戻ってくる」
「私はただ、乾く途中が好きだった」
「それも好き」
私たちは同じ写真から違うものを見ていた。片方に合わせなくても、その紙は壁に掛かっている。
作業を終え、店主に礼を言って外へ出る。夕方の道路は湿って、排気と海の匂いが混ざる。千紗は店の裏に停めた車へ額縁の空箱を積み、私を振り返った。
「栞の写真、撮ってもいい?」
「私を?」
「今日はカメラがある。嫌ならやめる」
長く写真を避けてきた。自分の顔を残すより、撮る人の後ろから同じものを見るほうが楽だったから。けれど千紗が私に向けてカメラを構える姿は、想像すると怖いばかりではない。
「ここで?」
「ううん。家の前。日が落ちる前に着ける」
車は空の色が変わる道を走る。助手席の窓に映った自分は、母の服を着ていない。仕事用の白いシャツで、髪が風に乱れている。何を写すのか、千紗に聞かないでおこうと思った。
店のシャッターの前に立つと、急に手の置き場がなくなる。千紗は三歩ほど下がり、カメラを構えずに私を見た。
「嫌になったら言って」
「まだ大丈夫」
「じゃあ、そのまま」
「そのままって」
「今、私を見るほうを向いて」
私は笑いかけて、できなかった。千紗の眼が、レンズの向こうではなく、こちらにある。通りを自転車が抜け、風でシャッターの紙が一度鳴る。「しばらく休みます」の端がめくれたまま。
シャッター音がひとつ。千紗はカメラを下ろした。
「終わり?」
「うん。もう一枚撮ろうと思ったけど、たぶんこれでいい」
「見せて」
「見たい?」
画面の中の私は、眉の内側に力が入っていて、手を体の前で握っている。けれど逃げる向きには立っていない。髪の先だけが風に動き、視線はカメラの少し横へ外れていた。千紗を見ているのだ。
「知らない顔」
「私には、栞の顔だよ」
カメラの画面を覗くために近づいた肩が、触れたままになる。離れる理由を探す前に、私は千紗を見た。
「今、キスしたい」
声は思ったより小さい。それでも彼女には届く距離だった。
千紗はカメラを紐の先で下げ、両手を空けた。
「私も」
今度はどちらも先に目を閉じない。唇に触れる直前、千紗の頬の細い産毛が夕日の端で明るくなるのが見えた。最初の口づけより長く、呼吸の切れ目でいったん離れ、もう一度彼女のほうから触れる。人の通る道なのに、シャッターの下には私たちの足音だけがある。
離れても、千紗は私の手首を離さなかった。指が触れる場所に脈がある。私は今すぐ何かを説明したくなり、それを飲み込む。彼女の息が落ち着くまで、ふたりで立っていた。
「嫌じゃなかった?」
「嫌なら、二度目はしない」
千紗は少し笑った。私もようやく笑う。母の店の前で、遺影の写真に向かって言えなかったことを、何も報告する必要はない。これは私たちの夕方だ。
写真館の二階に灯りがついたあとも、唇に残るかすかな塩気を舌で確かめてしまう。海のせいか、どちらのものかはわからない。
翌朝、私は母の残した食器を洗い、いつもより丁寧に水を切った。千紗とのあいだに名前をつけるには早い。そう思っているのに、通りの向こうでシャッターが開く音を聞くと、胸が先に反応する。
写真館の前へ行くと、千紗は客から預かった古いアルバムの箱を運んでいた。私に気づき、唇を結び直すような顔をする。
「おはよう」
「おはよう。重い?」
「これで最後。手伝ってくれるなら、扉だけ」
私は扉を押さえた。彼女が横を通るとき、昨日の指先の位置を思い出す。店内には客が二人、写真の受け取りを待っている。千紗は仕事の声で応対し、私は隅の椅子でアルバムの持ち主が帰るのを待った。
ふたりになった途端、彼女はカウンターへ肘をつく。
「ごめん。待たせた」
「仕事だもん」
「昨日のこと、栞が嫌になってたらどうしようって思った」
「同じこと考えてた」
「変わらないの、十一年経っても」
「全部は変わってない。でも、今なら聞ける」
千紗が顔を上げる。私はカウンター越しに、昨夜言えなかったことを探した。
「今日、仕事が終わったら、一緒にご飯を食べない?」
「うん」
「明日も誘うかもしれない」
「そのとき決める」
決めるのは千紗だ。言葉で当たり前のことを受け取ると、肩のあたりが緩む。
その日の夕飯は、写真館の奥で焼いた卵と、私が持っていった野菜の味噌汁になった。次の日は私の家で、冷凍の餃子。食事をするために会い、帰り道に翌日の話をする。何かが劇的に始まったわけではないのに、一日の端に手を置く場所ができる。
写真館には客がいる。私は仕事の締切で、夕方まで返事ができない日もある。千紗は祭りの写真を選び、知らない人に電話をかける。互いの生活は混ざりきらず、食卓の上で少し重なる。それが心地よかった。
展示が始まる日、私は喫茶店へ一人で行った。千紗は学校の撮影で遅れる。店の扉には写真展の小さな案内が貼られ、中へ入ると珈琲の香りと人の話し声。初めて会う客が、壁の写真を指さして「あの店、まだやってる」と言う。閉店した場所の写真ではない。看板が変わったり、人が年を取ったりしながら、いまも続く場所が写っている。
乾きかけの壁の前には、年配の男性が立っていた。
「これ、どこだろうね」
「撮った人も忘れたそうです」
「じゃあ、ここかもしれないね」
男性は、自分が住む町のどこかを思い出すように笑った。私には洗濯物を取り込む人が戻る壁、千紗には乾く途中の壁。この人には別の通り。写真は持ち主の手から離れ、次々と別の時間へ置かれていく。
母の遺影も、私がまだ知らない顔を誰かへ見せたのだろう。私はそのことを以前より少し、受け入れられる。
喫茶店から出ると、千紗が歩道を急いでいた。鞄を揺らし、横断歩道の手前で赤信号に止まる。私を見つけ、手を上げる。信号が変わるまでの短いあいだ、道路を挟んで互いを見ていた。
千紗が渡ってきて、私の前で息を整える。
「どうだった?」
「写真、見てもらえてた」
「よかった」
「壁の場所、ここかもしれないって人がいた」
「たぶん違う場所なのに」
「でも、そう見えるんだって」
千紗は目を細め、店の窓を振り返った。何よりも先に自分の仕事が受け取られたかを気にするその顔が、私は好きだった。
「今日の夜、うちでご飯にする?」
「そうしよう。店の片づけが終わったら」
自分の家のほうを指すと、千紗が頷く。彼女の手に触れたい。人通りのある道でためらい、結局、写真を運んで疲れた肩へ軽く掌を置く。千紗はその手へ頬を寄せるように首を傾け、すぐに歩き出した。
誰かに見られても、この仕草の名前を説明できないだろう。けれど、隠すためにしたのでもない。私は彼女の半歩後ろを、信号の点滅が消えるまで歩いた。




