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一枚の写真

 修理業者は窓枠を指で押し、「木が内側まで傷んでいます」と言った。窓を一枚替え、外壁の継ぎ目を塞ぐ必要がある。費用の見積書を受け取って、私は叔父にも写真を送った。向こうから電話が来るまでのあいだ、母の家が紙に書かれた数字へ変わっていくのを見ている。

「住むなら直す。売るとしても、雨漏りのままにはできない」

 叔父はそう言った。どちらでも工事をする。決めなくても進むことがあるなら、私はそれに手を貸せる。

 業者が帰ると、家の正面を撮った。外壁の細かいひび、母の店の色褪せた文字、シャッターの留め金。売るために必要な写真は、人のいない午前の光で撮るらしい。画像には、台所でコートの布を畳む母がどこにもいない。当たり前なのに、携帯を下ろせなかった。


 昼に千紗から、駅の裏手へ来ないかと連絡があった。古い住宅を壊す前に、住んでいた人が家族写真を撮りたいのだという。

「仕事の邪魔にならない?」

「機材を持つ手が一人増えると助かる。嫌なら見てていい」

 迎えに来た車の助手席には、反射板と細い三脚が積まれていた。千紗は私の膝へ布の袋を渡し、「重かったら後ろへ」と言う。運転中は仕事の話をした。卒業式が重なる三月は休みが取りにくいこと、最近は古い写真をデータに移す依頼が増えたこと。私は印刷所から届く校正紙に、鉛筆の粉がつきやすい季節のことを話す。かつて一緒に宿題をした相手に、働く日の癖をひとつずつ教えるようだった。

 家は駅の北側の、道が急に狭くなる場所にあった。白い壁には蔦を剥がした跡。玄関前に、年配の女性と娘らしい人、その夫、小さな男の子が並んでいる。女性は髪を整えながら、家を壊したあと何が建つのかまだ決まっていない、と笑った。

 千紗は玄関を背景に四人の位置を決める。大人の目線を揃え、男の子には、握っていた車のおもちゃを持ったままでいいと言った。私は反射板を立て、風に煽られるたび角度を直す。腕がだるくなってきたころ、千紗が男の子へ声をかけた。

「この家で一番好きな場所、どこ?」

「階段の二段目」

「どうして」

「座ると、おばあちゃんの声が聞こえる」

 女性が口元を覆う。娘がその肩へ手を置いた。千紗はすぐには撮らず、男の子が家の中を指さすのを見ている。

「じゃあ、あとで階段も撮らせて」

 言ってから、彼女は四人を撮った。シャッター音は二度だけ。女性がまばたきをするのを待ち、もう一度。

 室内には、家具を運び出した跡が四角く残っていた。階段の二段目に子どもが座ると、床からの光で膝だけが明るい。千紗は家族を入れず、その段と子どもの靴を一枚撮った。私には、顔のない写真のほうが長く残りそうに思えた。


 帰りの車で、千紗は窓を少し開けていた。汗ばんだ腕に潮風が当たり、反射板を持っていた指の関節が痛む。

「頼まれたのは集合写真だけ?」

「階段も。おばあさんが『この子が覚えている場所を』って」

「壊す家の写真、よく撮るの」

「ときどき。引っ越しの前に、台所とか、柱の傷とか。人を撮るより時間がかかるよ」

 千紗は前の車が曲がるのを待つ。ハンドルを握る手には、雨の日に見た小さな傷が残っていた。

「栞は家をどうするか決めた?」

「見積りを待ってる。売るつもり、たぶん」

「そっか」

 その返事を聞いて、私は急に説明を足したくなる。

「家が嫌なわけじゃない。母さんの店も。でも、東京に仕事があって」

「知ってる」

「母さんだって、私に住めとは」

「栞」

 赤信号で車が止まる。

「理由を並べなくてもいい。家をどうするかは栞が決めること」

 千紗の目は信号へ向いたままだ。助手席の私は、膝の上で布袋の紐を解いたり結んだりする。理由を並べたのは、彼女へではない。自分のためだ。


 帰宅してから、私は階段の二段目に座ってみた。母の家の階段は勾配がきつく、膝を曲げると足先が下の段に触れる。台所の蛇口を閉め忘れていたら、水が落ちる音はここまで聞こえるだろう。母が帰りの遅い私を待って、ミシンの手を止める気配も。

 夕暮れの台所で、私は携帯の写真を一枚ずつ開いた。家を売るために撮った正面は、拡大するとシャッターの隙間に昨日の砂が挟まっている。写真を消そうとして、指を止めた。記録したものが価値に変わる日もあれば、記録したその日にしか要らないものもある。

 向かいの店の明かりが点く。千紗は今ごろ四人の顔を選んでいるのだろう。私は家の写真を彼女に送らず、携帯を伏せた。今夜はまだ、自分で見ていたかった。



 母の写真を見られたのは、写真館で受け取ってから五日目だった。封筒を台所へ運び、湯呑みを二つ出しかけて、ひとつを食器棚へ戻す。そういう動きが、思ったより頻繁にある。使わない湯呑みをしまうたび、母の死を初めて聞く。

 一枚目の写真で、母は襟を直している。次には手を膝に揃え、笑うかどうかを考えている。三枚目では横を向いて、誰かに話しかけていた。薄い唇の開き方が、私の名前を呼ぶときと違う。

 写真の裏には、千紗の字で日付だけ。昨年の十二月。私はその日、仕事の帰りに駅で買った焼き菓子の写真を母へ送っている。履歴が残っていた。「栞が好きだったお店に似ている」と、母から返事が来た。好きだったお店を母が覚えていて、私は母がその日何を着ていたかも知らなかった。

 だからといって、すぐ電話をかけていれば何かが変わったとは思えない。病気を見つけることも、時間を巻き戻すことも。私は写真を机に並べ、写真にないものだけを見ようとしている自分の目を、そっと逸らした。

 午後、母の箪笥を開ける。薄いセーター、ズボン、家用の前掛け。衣服には体の形がない。けれど袖を引き出すと、洗剤と母の皮膚の匂いが、押し入れの空気から一瞬だけ浮く。私は前掛けのポケットに指を入れた。縫い針が一つ、紙にくるまれている。母が家中に置き忘れた針を見つけるたび、子どもの私は叱られた。「踏んだら危ないでしょ」と。今なら、見つけられない場所へ残されていたらと思う。

 縫い針を机に置き、箪笥の引き出しを閉めた。着なくなった服を手放すための袋は用意してある。今日はその口を開けられなかった。


 写真館で、千紗は客に渡す台紙へ写真を入れていた。私の顔を見ると、手を止める。

「写真、見た」

「どうだった?」

「母さんが、ちゃんと母さんだった」

 千紗は返事を急がない。私は机の端に置かれた見本の台紙を見て、続きを探した。

「でも私の知らない顔もあった。知らないままでよかったのかな、って」

「知らない顔を全部知るのは、たぶん無理だよ」

「うん」

「私は、栞の知らない佳代さんを知ってる。栞は私の知らない佳代さんを知ってる。その二つが同じにならなくても」

 母を取り合っているわけではない。それでも私には、千紗と母が過ごした時間の前で、小さな子どもに戻る瞬間がある。

「あなたは母さんと、何を話してたの」

「仕事のこと。ご飯のこと。父のことも」

「私のことは?」

 千紗の手が、台紙の角で止まった。

「ときどき」

「何を言ってた?」

「元気かなって。働きすぎてないかなって」

 母なら言うだろう。けれど、私が知りたいのはその続きなのか、自分の不在を埋める言葉なのかわからない。

「ほかには?」

「栞、ごめん。佳代さんとの話を、答え合わせみたいにはしたくない」

 千紗は台紙を伏せる。その声に硬さはない。けれど、引いた線が見えた。

「そうだね」

「言いたくないわけじゃない。私と佳代さんの時間でもあったから」

「うん。ごめん」

 謝ると、千紗は首を振る。こちらの事情をすべてわかってくれる人に、私は彼女をしようとしていた。母のもとへ通った千紗には、母といる理由があったはずだ。私のために待っていたのではない。

「今度、私の仕事の写真も見せて」

 しばらくして私が言う。

「仕事の?」

「この前の家じゃなくてもいい。千紗が残したいと思って撮ったもの」

 千紗は一度、深く息を吸う。

「いいよ。全部見せるには時間が足りないから、選ぶ」

「何枚でも」

「栞、今夜、時間ある?」

「ある」

「じゃあ、閉店後に」

 店を出ると、小菊を売る花屋の前で、赤い彼岸花が束になっていた。母の仏壇に置くには色が強い気がして、私は一本だけを見た。花を選ぶのは、誰に見せるかではなく自分が見たいかでいい。そう気づいても、買わずに通り過ぎる。今日は写真を見る約束がある。



 閉店後の写真館では、昼間より機械の音がよく聞こえた。印刷機が紙を引く短い唸り、奥の流しから落ちる水、千紗がパソコンの横に置いた扇風機。客のいない椅子に私は座り、彼女が用意した写真の束を受け取る。

「順番、ばらばらだけど」

 最初は、夕方のバス停。小学生が二人、同じ傘の下で反対の方向を向いている。次に、魚屋の指。銀色の鱗が爪の脇へ残っている。その次は、開店前の理髪店で椅子を拭く女性。どの写真にも、見る人へ向けた笑顔がない。

「家族写真だけじゃないんだ」

「仕事で撮るものと、私が撮りたくて撮るものは違うから。でも、分けきれない」

 紙の上の少女は、靴下の片方だけを下げて歩いている。千紗に気づかず、路面の水溜まりに空を探しているようだ。私は写真を傾け、光の角度を変える。

「これ、好き」

「私も」

 千紗は隣の椅子の背に片腕を掛ける。汗と、印画紙の薬品に似た匂い。彼女の腕が私の肩から指二本ほど離れていて、その狭い距離が気になった。

「本人たちには、渡してる?」

「人がはっきり写っているものは、撮る前かあとで必ず聞く。公開するなら別に。バス停の子たちはお母さんにも確認した」

「そのあと断られたら?」

「残すとしても私の机まで。撮ったからって、私のものになるわけじゃない」

 子どもの水溜まりをもう一度見る。千紗は、相手が写真の中に閉じ込められることを怖がっているのかもしれない。あるいは私が勝手に、そこへ自分たちを重ねている。

 写真の束のいちばん下には、雨上がりの家の壁が写っていた。白い壁と、途中まで乾いた濃い色の境目。人影はない。

「これは?」

「歩いてて、止まっただけ。どこかも忘れた」

 千紗が忘れた場所を、私が覚えているはずはない。それなのに写真の端の水路が、子どものころ通学路にあったものと似ていた。遠い町でも見つけられそうな、ありふれた壁。

「来月、これを少し展示する。駅の向こうの喫茶店で」

「誰が来るの」

「店の人。たまたまコーヒーを飲みに来た人。写真に写った人には声をかける」

「私も見たい」

「栞がいるのは、いつまで?」

 私の指が、壁の写真の上で止まった。十月の初めに東京へ戻ると叔父には話していた。修理が伸び、片づけも済まない。編集部からは来週の原稿が届く。

「まだ決めてない。仕事はここでもできる」

「そう」

 千紗は写真を回収しない。私は、行くとも行かないとも言えない先の予定を、そのまま紙の上へ置いた。


 奥の部屋でお茶を淹れてくれた。写真館の住居は、昔の面影が薄い。壁紙を自分で貼り替えたこと、父が使っていた暗室を倉庫にしたこと。千紗は一つずつ説明し、冷蔵庫から冷やした梨を出す。

「高校のとき、ここに上がったよね」

「何度も」

「父が、栞の写真も撮るって言って」

「断ってた。写真になるのが苦手で」

「知ってる。なのに、私にはカメラを貸してって」

「撮る側なら平気だった」

 千紗が梨を薄く切る。包丁がまな板に当たるたび、透明に近い汁が滲む。

「栞はどうして写真を撮ってたの」

「千紗と歩く理由が欲しかった」

 彼女の手が止まる。言ってから私も、口の中に残った言葉の温度に困った。

「今、言うの?」

「今しか言えないから」

「昔にも、言えたよ」

「うん」

 梨の一切れを差し出され、私は指で受け取る。しゃり、と噛む音が二人分、違う速さで続いた。

「十七の私が聞いたら、喜んだと思う」

 千紗は果物の皿を見ている。

「今の私は?」

「まだ、わからない」

 はっきりした声だった。私も、わからない。過去へ答えを渡せても、目の前の人に何を望むかは、いま選ばなければならない。

 帰り際、千紗が写真を一枚くれた。水溜まりの前に立つ少女ではなく、乾きかけの壁の写真。裏には展示で使う番号の鉛筆書きがある。

「どうしてこれ?」

「栞が、いちばん長く見てた」

 確かにそうかもしれない。写真の隅へ指の跡をつけないように持ち、私は狭い通りを渡る。誰の家かも知らない壁が、私の家の机の上に一晩、置かれる。


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