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十七歳の手

 母の古い缶に、現像したままの写真が入っていた。小学校の遠足、修学旅行の集合、制服の襟をつかんで笑う私。底に近い一枚に、千紗の後ろ姿がある。十七歳の夏、店の外で、髪を結び直しているところ。母が撮った写真ではない。裏に「栞」と、私の字で書いてあった。

 その夏、私は千紗から借りた小さなカメラを持ち歩いていた。被写体を探して防波堤へ行き、乾いた網を撮っては「何が写っているかわからない」と笑われた。写真の上手下手より、千紗に会う口実のほうが大きかった。カメラを返す日に、私は新しいフィルムを入れてもらい、また借りる。ずっとその繰り返しでもよかった。

 進学先は東京に決まっていた。町を出るまで、あと半年。千紗は地元の専門学校へ行き、父の店を手伝うつもりだと話していた。私はその予定を聞くたび、玄関の開きっぱなしの扉を見ているような気持ちになった。そこから出ていくのは私なのに、置いていかれると思う。

 写真を持って、二階の窓辺に座る。縁にひびの入ったガラス越しに、当時の通りはどこにも見えない。小さな文具店が駐車場になり、夜遅くまで灯っていた薬局も看板を替えた。ただ、家と写真館のあいだの細い道だけが残っている。


 あの日は、海の向こうに雷があった。音は聞こえず、黒い雲の内側だけが白く開いて閉じる。千紗が「降る前に帰ろう」と言い、私は借りていたカメラを両手で抱えた。学校帰りの肩に鞄の紐が食い込み、靴の中には砂が入っている。

 波止場の古い階段を上がる手前で、千紗の髪留めが外れた。強い風に結んだ髪がほどけ、彼女はカメラを落とさないよう私の手から受け取り、自分の髪をもう片方の手で押さえる。私が「結ぶよ」と声をかけると、千紗は背を向けた。

 首筋に、汗で短い毛が張りついていた。指でその束を寄せ、ゴムを二度回す。三度目に毛先が逃げて、千紗が小さく笑う。その笑い声が、自分の指のすぐ下から聞こえた。

「栞、きつい」

「ごめん」

「ううん。そこを少し」

 耳の後ろの髪を引き出すと、彼女の首が私の指へ傾く。ほんの一瞬。それだけで風の音が遠くなる。私は何も知らずに彼女の髪を結ぶ人には戻れない、と、唐突にわかった。

「千紗」

「なに」

「こっち向いて」

 振り返った彼女は、預けていたカメラを胸の前に抱えていた。私の顔を見て、笑みを薄くする。逃げるための一歩も、近づくための一歩も踏まなかった。

 唇に触れる前、私は彼女の息が止まるのを聞いた。額がぶつかるほど近くにいたからだと思う。短い接触だった。潮で荒れた自分の唇のほうが、相手のやわらかさよりはっきりしている。離れると、千紗は目を閉じたままカメラの紐を握っていた。

「ごめん」

 その言葉が、自分の喉から出たことに驚いた。

 千紗が目を開ける。海からの風に、結び直した髪の先が揺れている。

「どうして謝るの」

「急に」

「急だったね」

 頬に色が差し、彼女は指で唇に触れた。怒ってはいない。だからこそ次の言葉が怖くなった。もし好きだと言われれば、東京へ行く約束をどうしたらいいのか。好きではないと言われれば、この町の残り半年をどう生きればいいのか。どちらも聞く勇気がなかった。

「忘れて」

「栞」

「今の、忘れていいから」

 千紗が一歩寄った。私は後ろへ下がり、かかとが階段の縁へ乗る。

「私がどうしたいか、まだ言ってない」

「言わなくていい」

「私のことまで決めないでよ」

 初めて聞く、強い声。私はそれを拒絶と取り違えたかった。そうすれば、自分がこれ以上傷つくことはない。けれど彼女は、握ったままのカメラを私へ返そうとしない。

 雨が来た。波止場のコンクリートに円い点がいくつも生まれ、瞬く間に色が濃くなる。千紗は制服の肩を濡らしたまま、私を見ていた。

「カメラ、今度返して」

 私はそう言った。意味のない言葉で時間を終わらせたかった。

「わかった」

 千紗はそれ以上、私を追わない。私は階段を上がり、途中で二度足を滑らせた。家に着くころにはシャツの下まで濡れていたのに、母に渡されたタオルを使わず、風呂場へ逃げた。


 カメラは翌日、店のカウンターに置かれていた。千紗は訪ねてこなかったのかもしれないし、来たとき私が出なかったのかもしれない。記憶は、自分の都合の悪いところから欠けていく。

 私はそのまま受験の準備に入り、春に町を出た。千紗へ手紙を書こうとしたことは何度かある。便箋に「元気?」と書いて、相手にだけ元気かと訊く自分の図々しさに耐えられず破った。連絡先を調べることもできた。やらなかったのは、届かなかったからではない。

 母には千紗と喧嘩をしたのかと訊かれた。「ううん」と答えた私を、母は長いこと見つめていた。何を悟ったかまではわからない。こちらから話しかけないかぎり踏み込まない人だったから、私はその沈黙に守られ、同じ沈黙に隠れた。


 窓の下で、写真館の扉が開く。千紗が客の家族を見送っていた。小さな子どもが歩道の白線へ足を載せようとし、千紗はかがんで、その子の靴紐を指さす。結ぶのは親に任せ、手を振る。

 十七歳の千紗に、私は答える時間を与えなかった。今の彼女に、答えてもらえると思う理由もない。それでも階段を下り、写真を缶に戻した。渡しそびれたものを数えるだけでは、今日の日が終わらない。

 向かいの店の扉を押す。鈴の音が鳴り、千紗が振り返った。

「どうした?」

「昨日の写真、お礼を言い忘れた」

「もう聞いたよ。受け取るとき」

「そうじゃなくて」

 それから先が口に出ない。千紗は客の忘れた小さな髪飾りを、机の端へ置く。私が何かを言えるまで、彼女は待っている。その待ち方に、あの日の波止場が重なる。

「写真、見るよ。ちゃんと」

 ようやくそう言うと、千紗は少しだけ息を吐いた。

「うん。どれも佳代さんだから」

 雨のない午後に、私は写真館の鈴を背中で聞いた。帰り道は二十歩。それを急がずに歩く。



 店の奥から、裁断しかけの布が出てきた。灰色の薄い毛織物で、襟の部分だけ仮縫いされている。タグには客の名前も値段もない。胸のあたりを指で持ち上げると、針からつながったままの糸が、床へ細く垂れた。

 母の服だろうか。病院で着るには厚いし、店で着るにはよそ行きだ。考えても持ち主はわからない。

 午後、預かり物を受け取りに来た井田小夜さんが、その布を見るなり「あら」と声を上げた。

「佳代さんのコート。去年からやってたのよ」

「自分の?」

「ええ。裏地にする布を買ったって、うれしそうで」

 井田さんは、母より少し年上の、手首にいくつも細い筋のある人だ。取りに来たのは孫の制服。店に入るとき、カウンター越しに「佳代さん」と呼びかけ、それから私を見て口を噤んだ。その短い間を、私は覚えている。

「仕上げる人を探したほうがいいかしら」

「お母さんのものなら、急がなくていいんじゃない?」

「着る人がいないから」

 私は言い過ぎたことに気づき、コートの布を台へ戻す。井田さんは何も返さず、制服の袋を受け取った。玄関で靴を履くときに、「佳代さん、いつも自分の服は後回しだった」とだけ言う。

 見送ってから、仮縫いの針を一本抜いた。糸がゆるみ、襟の端が少し広がる。もう一度刺し直そうとして、針先がどこを通っていたのかわからない。

 母には母の体があった。誰かの袖を直す手の延長に、鏡の前で自分の肩へ布を当てる時間があった。娘の私には、その想像が欠けている。畳まれた布を眺めながら、私は初めて、母の完成しなかった服を売り払いたくないと思った。


 夕方、千紗の店から子どもの泣き声が聞こえてきた。泣きながら「やだ」と言う声、靴が床を蹴る音。ほどなく千紗の声がする。「わかった。いったん外へ出よう」。私は伝票を書くふりをしながら、通りに目をやった。

 五歳くらいの子と母親が店を出る。子は正面を向いてくれず、母親は髪を耳にかける手を繰り返している。千紗は出入口に腰を下ろし、その子と同じ高さで何か話した。やがて子どもは、地面に落ちていた薄い貝殻を拾い、千紗へ見せる。千紗はカメラを向けない。ただ手のひらの上の小さな白いものを、いっしょに覗いた。

 子どもへレンズを向ける前に、千紗は長いこと膝を折っていた。店へ戻った三人が、しばらくして笑い声を立てる。

 千紗がこちらに気づいたのは客が帰ってからだ。窓を隔てて目が合うと、彼女は少し大げさに肩を落としてみせた。私は笑ってしまい、彼女も口角を上げる。あの日の波止場のあと初めて、ふたりだけに通じる身振りのように思えた。


 店を閉めた千紗と、八百屋へ行った。自分が毎日の暮らしのために葱を買うことが、ここでは妙に大きな決断に感じる。千紗は傷のある茄子を安く譲ってもらい、私に二本渡した。

「母さんのコートが出てきた」

 帰り道に言うと、千紗は歩調を緩める。

「灰色の?」

「知ってるんだ」

「冬に生地を見せてもらった。ずっと、着たい服が売ってないって言ってたから」

「何が違ったの?」

「肩が合っても、腕を上げにくいって。撮影のときに手伝ってもらったら、自分の服でもそうしてた。脇のゆとりが少ないのが嫌なんだって」

 母は他人の服を直しながら、自分の脇の狭さを知っていた。そんな身体の感覚を、私は母のどの記憶にも足していなかった。

「直せる人を探そうか」

 千紗が訊く。

「まだ。仮縫いのまま置いておく」

「うん」

「完成したところ、見てみたかった」

 街灯の下で、千紗は私を見る。慰めを口にしそうになって、飲み込むのがわかった。

「私も」

 ふたりの足音が揃い、次の角でまたずれる。彼女の暮らしを知らないように、私は母の暮らしも知らなかった。知らないことが、もう取り戻せないことと同じではないと、思いたい。

 家の前で茄子を分け、千紗は写真館へ帰る。指先に触れた茄子の皮はひんやりして、軸の棘だけが鋭い。私が台所で包丁を取るころ、向かいの窓には灯りがともっていた。



 風雨が強まったのは、その三日後だった。朝から鉛色の雲が低く、昼過ぎには店の庇から落ちる雨が一枚の布のように通りを塞いだ。古い家の雨樋が溢れ、叔父の掃除も追いつかなかったのだと思う。

 私は一階の窓を閉めて回り、二階の布を床から離した。母のコートも、型紙の箱も。布の筒を立てるたびに、細かい埃が鼻をくすぐる。窓枠に手を触れると、右下だけ湿っていた。

 バケツを置きに下りたところで、呼び鈴が鳴る。

 千紗が、透明な雨合羽の裾を手で押さえて立っていた。肩口から水が滴る。

「写真館から見えた。二階の窓、雨が内側に流れてる」

「閉めたけど、枠から入ってるみたい」

「うちに防水のテープがある。取ってくる」

 私は千紗の腕をつかむ。合羽の表面が冷たく、すぐに手を離した。

「この雨で行く?」

「道一本だよ」

「じゃあ一緒に」

「テープは私が取る。栞はタオル探して」

 指示の仕方が仕事中の千紗に似ている。私は台所の引き出しから、使い古したタオルを三枚出す。戻ってきた彼女と階段を上がると、窓の下の畳に小さな濃い染みが広がっていた。

 外側へ手を伸ばせないので、内側の隙間に布を詰め、上からテープを貼る。応急処置で、雨が止んだら修理を頼まなければならない。千紗が言い、私は明日叔父に電話すると答えた。

 屈んだままの千紗の髪から、首筋へ水が流れる。手渡したタオルで彼女が耳の後ろを拭うまで、私はその道筋を見つめていた。十一年前の髪留めのことを思い出す。顔を上げると、千紗は私の視線に気づいていた。

「何?」

「濡れてる」

「うん。栞も」

 私は自分の前髪を触る。窓を押さえていたせいで、指の腹が冷たい。

 電灯が一度、弱く明滅した。次の瞬間、部屋全体から音が一つ抜ける。換気扇が止まり、外の雨がやけに近い。

「停電だ」

 千紗は携帯のライトで窓を照らした。貼ったテープの端から、一筋だけ水が伝う。私はもう一枚タオルを押し込む。彼女と交互に手を動かすと、雨の道筋が変わって、床へ落ちる滴が止まった。


 夕方になっても電気は戻らない。ガスは点くので、鍋で湯を沸かし、残った野菜を煮た。母が大量に買っておいた乾麺を半分に折る。千紗は写真館の冷蔵庫から傷みやすい卵を持ってきた。

「ほかにも食材があるなら持ってこようか」

「大丈夫。停電はあっちも?」

「向かいの一画だけ。駅の方は点いてる」

 鍋の中で卵を割ると、白身がゆっくり形を失う。携帯の明かりを壁へ向け、互いの顔が見えるくらいにした。母の食卓に二人で座り、湯気の向こうで箸を動かす。家に戻ってから初めて、茶碗の触れ合う音がした。

「佳代さんと食べるときも、よく麺だった」

「母さん、麺を茹でるの下手だったでしょ」

「多すぎた。あと、すぐ伸びる」

「どのくらい食べられるか考えずに、一袋あけちゃう」

 千紗は頷き、箸先で卵をすくう。私たちは同じ癖を知っている。ただし、知った季節が違う。そこを縫い合わせようとせずに話せることが、今夜はありがたい。

「病院へ行った日も、一緒だった?」

 訊くつもりはなかった。言葉が湯気に紛れて出てしまう。

「店にはいた。具合が悪いって言うから、病院へ電話したのは私」

「そう」

「私がそばにいたって、何かを変えられたわけじゃないよ」

 千紗は箸を置く。私は膝の上の手を握り直した。

「変えてほしかったんじゃない。ただ、その日の母さんを知りたくて」

 母は長く入院し、私が着いた日に意識がなかった。医師や叔父から経過を聞いた。けれど、普通の日の最後に何を見て、何を言ったのか、知るすべがないままだった。

「朝、店の軒に小さい燕が来てた。佳代さん、私を呼んで、巣を作るのかしらって。まだ夏なのにね」

「母さんらしい」

「それから、コートの袖にしつけ糸を入れた。手が少し震えるって言ったので、病院へ。……そこまで」

 燕が来たなら、母は外へ出て見上げただろう。庇に届く日差し、首を反らすときの皮膚の伸び。そんな些細な朝を、私は間に合わなかった日の外側に置いていた。

「教えてくれて、ありがとう」

 千紗は首を横へ振った。ライトの白い輪の端で、彼女の指が茶碗の縁をなぞる。


 電気が戻ったのは、食器を洗い終えたころだった。突然、台所の蛍光灯が部屋を白くする。千紗がまぶしそうに目を細めた。私はスイッチを切り、卓上の小さな灯りだけをつける。

「帰れる?」

「うん。雨も弱くなった」

 玄関で合羽を渡すと、千紗は濡れた髪を一束、耳の後ろへ押さえた。私の手はまだ、彼女の首に触れたかった。そのまま動かずにいると、千紗も靴を履き終えてから立ち上がらない。

「栞」

 名前のあとを待つ。外では雨樋から水が規則正しく落ちている。

「明日の朝、壁も見て。染みが増えてたら、修理の人に写真を送ったほうがいい」

「わかった」

 千紗は戸を開けた。言わなかった言葉の形だけが、彼女の声のあとに残る。私も何も言えず、濡れた通りを渡る背中を見送った。

 階段を上がると、窓際のタオルは水をたっぷり吸って重かった。畳の染みの外周に触れる。思っていたほど冷たくない。明日はこれを乾かし、傷んだ木枠を直す。誰かが帰ったあとの家にも、することは残る。


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