鍵の歯
母の鍵には、青い毛糸が結んであった。
色を選んだのは母だろう。袋から取り出すと、毛糸の結び目だけが指にやわらかく、鍵の歯は九月の夕方の冷たさを残している。葬儀の日、斎場で叔父から渡されたものを、私は三週間、鞄の底に入れたままにしていた。
桐浜の駅から家までは歩いて十五分。海は途中の建物に隠れ、姿より先に匂いが来る。乾いた電柱の根元にも、潮の粒がついているような気がした。
洋装店のシャッターには「しばらく休みます」と書いた紙が、四隅をテープで留められていた。「しばらく」のあいだに母は死に、店を開ける人間もいなくなった。紙の下端がめくれて、風のたびに金属を軽く叩く。
店の脇の細い通路を抜け、住居の玄関へ回る。鍵穴に鍵を差したところで、奥歯が噛み合わなくなった。回す手を止める。誰かが中で咳をしたような気がして、耳を澄ませた。
通路の向こうで自転車のベルが一度鳴る。
それだけだった。
母が病院へ運ばれてから、家には誰も住んでいない。知っていることと、鍵を回せることのあいだには、想像より広い幅がある。私は肩で扉を押さえ、もう一度手首に力を入れた。
家の匂いは、空気の変わらない部屋特有のものではなかった。石鹸、綿埃、古いアイロンの熱が冷えたあとに残る匂い。店の奥の作業場から、母が「遅かったね」と言って出てきそうで、靴を脱いで揃えるのに時間がかかる。
廊下の柱には身長を測った鉛筆の線が残っていた。十四歳のところで途切れた線。その年から私は、母に頭のてっぺんを押さえてもらわなくなったのか。それとも、ただこの柱に背をつけなくなっただけなのか。
台所の窓の桟に、伏せたグラスが一つ。水切り籠には皿が二枚あり、その片方の縁に青い欠けがある。母がいなくなったのに、物の数は減っていない。そんな当たり前のことが、居間へ続く足を鈍らせた。
食卓には茶封筒と、叔父の癖の強い字で書かれた不動産屋の電話番号が置いてある。売却を急かすつもりはないと叔父は言った。ただ、建物が古く、空き家のまま台風の季節を越えるのは心配だとも。私の仕事は十月から忙しくなる。秋のうちに必要な物を分け、それから決めればいい。
電話番号を裏返すと、母が使っていた仕立て直しの控えだった。誰かの肩幅と袖丈が書かれている。その下に薄い字で、「左袖、もう少しゆとり」。母の字だ。触れたら指に移りそうな薄さで、まだそこにある。
私は封筒を伏せ直し、作業場の引き戸を開けた。
ミシンには白い布が掛かっていた。机の上に裁ち鋏と、針を刺した小さな羊毛の山。壁のカレンダーは六月のまま。日付の下に、「高瀬さん 午後四時」という書き込みを見つける。
高瀬千紗。
声に出さなくても、舌の裏で名前のかたちができる。子どものころ、裏通りの写真館に住んでいた人。十七歳の夏に私が口づけをして、それから何も言えなかった人。今もこの町にいることは知っていた。知っているだけで、十一年、一度も会いに行かなかった。
母のカレンダーに彼女の名前があるのは不思議ではない。母は写真館の店主が着る上着のほつれをよく直していたし、高瀬の家では毎年、うちで記念写真を撮っていた。そう自分に説明してから、机の縁にかけた手を離す。
窓の外で、軽い足音が止まった。
「栞?」
引き戸のガラスに人影が揺れる。私は背筋を伸ばしたまま、振り向けない。
「表のシャッターが下りてたから。こっち、開いてる?」
十一年ぶりの声は、記憶より低い。聞き慣れない言葉のようにしばらく耳の中に留まり、それから急に、あの人の声になる。
台所の窓を開ける。路地を隔てて千紗が立っていた。肩までの髪を後ろでゆるく束ね、薄い灰色のシャツの袖を肘までまくっている。左手に食パンの袋、右手に自転車のハンドル。目が合うと、私の顔を確かめるためにほんの少し首を傾けた。
「……ただいま」
何に向かって言ったのかわからない。
「おかえり」
千紗はそう返し、すぐに眉を寄せた。私は、亡くなった人の家へ戻ってきたのだ。彼女も気づいたのだろう。それでも言い直さなかったので、私も黙っていた。
「お線香、まだだった。明日、お邪魔していい?」
「うん。仏壇は居間に」
「わかった。今日は何か食べるもの、ある?」
冷蔵庫に電気が通っているかどうかも知らなかった。私が答えあぐねていると、千紗はパンの袋を持ち上げる。
「一本多く買った。半分置いていく。焼かなくても食べられるやつ」
「いいよ。買い物に行くから」
「買い物に行くまでの半分」
昔から、理屈を短く畳むのがうまい。私は窓から手を伸ばす。食パンの袋越しに、千紗の指が私の指へ触れかけた。爪を切り揃えた、細い指。受け取った途端、袋の中でやわらかいパンが沈む。
「明日の午後、店が閉まったら来るね」
千紗は自転車を押して路地の先へ消えた。ベルは鳴らない。後輪の泥除けが小さく震える音だけが、曲がり角まで続く。
十一年前、別れ際にも私は彼女の背中を見た。あのときは追えば間に合った。今日は、追いかける用事が思いつかない。
夕飯に食パンを二枚食べ、残りを輪ゴムで留めた。電気ポットは湯が沸くと、母がいたころと同じ間の抜けた音を立てた。私は床に置いた旅行鞄から部屋着を出し、二階へ上がる。
自分の部屋だった場所は、布地の置き場になっている。棚には服地を巻いた筒が並び、ベッドの上に型紙の束。母は私が帰ってくることを考えなかったのだろうか、と一瞬思う。帰らない年月を作ったのは私のほうなのに。
部屋の窓を開けると、向かいの写真館の二階に灯りが見えた。千紗の部屋かどうかは知らない。夜に洗濯物を取り込み損ねたまま、窓辺でふたり並んだのも十一年前。あの家の窓枠はそのころ緑色で、今は白い。
階下へ戻り、母の寝室から布団を運ぶ。畳に敷くと、押し入れの防虫剤の匂いが立った。枕を置く場所を少し迷い、壁から離す。母がいた場所をなぞるように寝るのは、まだできない。
消灯したあと、通りをバイクが一台過ぎた。続いて波の音。ここから海までは歩いて十分ほどあるのに、風向きによっては砂を返す音まで届く。かつては眠るための音だった。今夜は家の中の沈黙を測るものになる。
枕元の携帯が、仕事の連絡を知らせた。来月の校正の日程。画面には見慣れた東京の編集部の名前があり、その下に母の古い箪笥が暗く浮かんでいる。返信を書き、送らずに閉じた。
窓の向こうの灯りが消えるまで、私は寝返りを打たなかった。
朝、店のガラス戸の内側からシャッターを持ち上げた。錆びた溝に砂が噛み、途中で一度、横へ力を逃がさなければ上がらない。母はその癖を知っているのに、私には教えなかった。肩の高さまで押し上げたところで手を離すと、シャッターは短い音を立てて落ちかけた。
「そこの出っ張り、踵で踏むの」
通りを歩いていた千紗が、足元を指す。
錆びた留め金に踵を当ててもう一度押すと、今度は最後まで上がる。向かいの写真館にはすでに営業中の札。千紗の肩から、大きな黒い鞄が斜めに下がっていた。
「学校の写真?」
「今日は児童館。午後には戻る」
「母は、いつもこうやって開けてた?」
「たぶん。私が見たときは」
言いかけて、千紗は店の奥を見る。薄暗い作業台と、その上に掛かった白い布。
「お線香、夕方でもいいかな。館長さんが朝の光で撮ってほしいって」
「もちろん。仕事、行って」
千紗は頷き、通りを駅のほうへ急ぐ。途中で一度、鞄の肩紐を引き上げた。知らない一日の中へ入っていく背中。私はシャッターの下に立ったまま、自分がその日に何をするのか考えていなかったことに気づく。
母の店には、預かり物が七着残っていた。仕事の帳面には名前と電話番号、受け取り予定日、代金。六月の日付が最後で、その先は白い。上着の袖丈直し、制服の裾上げ、古いワンピースの脇詰め。透明な袋に収まった品には小さな札がついている。
私は台所の椅子を作業場へ運び、一本ずつ電話をかけた。
母が亡くなったことを、まだ知らない人もいる。相手が声を落とし、私は同じ言葉を繰り返す。ありがとうございます。急なお話で。品物はこちらにあります。都合のよい日に。
三人目の人は、夏の制服を取りに来る予定だったらしい。「もう冬服になってしまうね」と笑い、それから受話器の向こうで、呼吸の音だけが長く続いた。
「お母さん、裾をちょっと長くしてくれたの。背が伸びるからって」
私は掛けてある制服の裾をめくる。内側に、折り込まれた布の幅。切らずに残してある。来年ほどくための余地を、母は見知らぬ子の膝の下へしまっていた。
「取りに行きます。明日でもいい?」
「はい。いつでも」
相手が電話を切ったあとも、私は縫い目を見ていた。母は私の中学の制服も直したはずだ。けれど思い出せるのは、採寸のあいだ、くすぐったくて動かした膝を、母が掌でそっと止めたことくらい。
七着のうち一着だけ、帳面に受取人の電話番号がなかった。「高瀬千紗 右肩」とある。掛けたままの深緑のジャケットの肩口を探ると、表からはわからない小さな縫い目。仕事が済んだのか途中なのか、私には見分けがつかない。
昼を過ぎて、叔父が軽トラックで来た。窓を開けるなり、「昨夜は眠れたか」と訊く。私は「まあまあ」と答え、叔父はそれ以上追わなかった。庭の草を刈る道具を積んできたのだという。
「屋根はまだ大丈夫そうだけど、雨樋の落ち葉は取らんと。裏の潮風が強いからな」
「自分でやるよ」
「高いところだけは俺にやらせて。佳代に怒られる」
母の名前を、叔父は亡くなる前と同じ調子で口にする。そこだけに妙な温度があり、私は返事の代わりに軍手を受け取った。
庭と呼ぶほどでもない家の裏に、細い土の帯がある。母はそこへシソを植え、食べきれない葉を近所に配った。今は根元が木質になって、伸びた茎に虫食いの葉が揺れている。鎌を入れると青い匂いが指にまとわりついた。
「片づけ、無理するなよ」
雨樋から下りた叔父が、脚立をたたみながら言う。
「明日には見せられるくらいになる」
「誰に?」
私は草を握ったまま手を止めた。
「不動産屋。電話、しないと」
「急がなくていい。住んだっていいんだぞ」
「東京に仕事があるから」
「うん。そういうことじゃなく」
叔父は言葉を続けず、脚立を荷台に積んだ。私も聞き返さなかった。母の家に住めるのは知っている。住んでいいと言われるたびに、ここへ来なかった年月が突然、私の手の中に戻されるようで怖い。
夕方までに、預かり物のうち二着を引き取りに来る人があった。母を悼む言葉は、それぞれ違う。ある人は機械の調子を気にし、ある人は母の作ったお茶が濃かったと笑う。私はそのどれにも、ちょうどよい返事を持っていなかった。
千紗が来たのは五時半を少し過ぎてからだった。紺色の仕事着に着替え、手には紙袋を提げている。
「これ、うちの店に飾っていた花。水を替えればまだもつから」
袋の中には、背の低いガラスの花瓶。白い小菊が三本、少し長さを変えて挿してある。私は仏壇の横へ置く。
千紗は線香を一本取り、蝋燭の火で先をつけた。掌で風を送って火を消す。背中の線がまっすぐで、祈るあいだも写真を撮るときのように呼吸が静かだった。
「佳代さん、六月に店を閉めるつもりじゃなかったの」
線香の煙を見ながら、千紗が言う。
「病院に行く日の朝も、来週には仕上げるって。このジャケット」
「これ?」
私が差し出すと、千紗は肩を指で押して確かめた。
「あ、できてる」
「右肩、って帳面にある」
「去年から撮影のたびに肩が引っかかって。バッグを同じ側に掛けるからだって怒られた」
母が仕事の途中で死んだのだと思っていた。縫い終えた品がここにある。小さな違いに、私は息の通り道を失う。
「持って帰って」
「代金は?」
「いい。ちゃんと直ってるかもわからないし」
「わかるよ。着れば」
千紗はジャケットを羽織った。右肩を前へ、上へ動かす。袖口で陽の残りが揺れ、ぴたりと止まる。
「ほら」
「昔のままじゃない。よくわからない」
「じゃあ代金は、栞があとで帳面を見て請求して」
母が決めた金額を勝手に消すことは、千紗にもできないのだろう。私は頷いた。
台所で湯を沸かす。茶筒には、母の好んだほうじ茶が少し残っていた。千紗は食卓につくと、花瓶の紙袋を丁寧に折り畳む。小菊の花びらが一枚、袋の底から畳へ落ちた。
「毎週、来てたの?」
カレンダーの名前を思い出して訊いた。
「仕事を頼みに来る日もあった。買い物の帰りに寄ったり。佳代さん、うちで遺影を撮りたいって言ったから、その相談も」
茶葉をすくう手が止まる。
「遺影?」
「去年の冬。まだ元気で、早すぎるって私も言った。でも、必要になるときに自分の写真を選ぶ人は、自分じゃないでしょう」
千紗が困ったように笑う。
「だから、撮った。栞の知らない写真、たくさんあると思う」
急須へ湯を注ぐと、ふくらむ茶葉の匂いが鼻の奥へ届く。私は流しの上の小さな窓に視線を置いた。通りにはもう車のライトがつき始めている。
「そんなに会ってたんだ」
「うん」
「知らなかった」
「そうだね」
千紗は、それを責める言い方にはしなかった。責められないと、どこへ手を置けばいいのかわからない。私は二つの湯呑みを持ち、こぼさない速さで食卓へ戻った。
翌朝、千紗から「写真を見に来ない?」と短い連絡が入った。私の番号は母の携帯に残っていたものを、葬儀のあと叔父から聞いたという。十一年前、私たちは携帯を持っていたのに、連絡先を交換しなかった。会いたければ窓に小石を当てればいいと思っていたころだ。
写真館の入口には、少し日焼けした家族写真と、証明写真の値段を書いた札が並ぶ。ガラスの内側に立つ子どもが、カメラの前で目を大きく見開いている。母の店から二十歩も離れていないのに、私は長いことここを見ないように通ってきた。
扉を押すと小さな鈴が鳴った。千紗は奥の机で、パソコンの画面を二枚見比べていた。私を見るなり手を上げ、「そこ座って」と待合の椅子を指す。窓際に鉢植えのサンスベリア。葉先の一枚だけ、誰かの肩に触れる高さまで伸びている。
「佳代さんの写真、候補だけでも百枚くらい」
「百枚?」
「撮るとき、よく喋ったから。目を閉じた写真も、口を曲げた写真も、消さずに残ってる」
千紗は画面を回した。母が青いシャツを着て、背景の淡い灰色の前に座っている。遺影に使われた写真より顔が少し下を向き、口元に力がない。次の一枚では瞳を細めて笑う。私の知る母は、こんなふうに笑っただろうか。
「このとき、何の話を?」
「撮影の仕事の話。昔はお父さんが写真を撮っていたから、佳代さんは私の手つきを見て、似てないところを探すのが好きだった」
「お父さんは?」
「七年前に亡くなったよ」
私は喉の奥で謝った。知らなかったのだ。千紗の父は、運動会の写真を撮りに来て、児童を整列させる先生より大きな声を出す人だった。亡くなった事実より、知らずに七年を通ったことのほうが千紗の目にはどう映るのか、訊けない。
「お悔やみを言うの、遅すぎるね」
「遅い言葉って、案外あるよ」
千紗は画面を閉じず、椅子を一つ寄せた。隣に座ると、パソコンの排気が膝にあたる。
「父のときもね。二年くらい経ってから、学校の先生が写真を取りに来て、亡くなったのを初めて知ったって。『運動会で声が聞こえなくなって寂しい』って言われて、そのときようやく泣けた」
私が見上げると、千紗は画面の母を見たままだった。
「遅くても、その人にはその日が初めてなんだと思った」
そんな言葉に許されるほど、私は千紗の父を悼んでいない。けれど彼女は、許すとも許さないとも言わず、次の写真を開く。
母の左手がぼやけている。膝の上で指を動かした瞬間を撮ったものだ。親指の付け根が赤い。いつも鋏を握っていた手。母の死を知らせる電話が来たとき、私は校正紙の余白に赤字を入れていた。仕事を切り上げて駅へ行き、病院には間に合わなかった。
「指、ここ」
千紗が画面を拡大する。
「お父さんと、同じところが荒れてるって佳代さんが笑った。お父さんはシャッターの押しすぎ、私は鋏の持ちすぎ、って」
千紗の指先も少し赤い。彼女は毎日カメラを持つ。私の指先には、紙で切った白い筋がいくつかある。ひとり分の家族写真に、持ち主の違う三つの手が並んでいるような気がした。
「これ、栞に渡していいか迷ってた」
千紗は引き出しから薄い封筒を出す。中には、遺影とは別に焼いた母の写真が数枚。背景布の端が写っているもの、衣服の襟を直す途中のもの。写真として整っていないぶん、声に近い。
「頼まれたの?」
「ううん。私が勝手に」
受け取ると、封筒の角が掌に刺さる。
私は母の写真を一枚だけ取り出し、すぐに戻した。自分の家でなら見られると思った。
店を出ると、正午の光は白く、海の方角を向くビルの壁を平たくしていた。千紗が私に歩調を合わせる。
「お昼、店に戻って食べる?」
「何もない。パンは昨日食べきった」
「なら市場の端の定食屋。私もまだ」
市場は魚を扱う棟だけが賑わい、古い青果の棟は半分ほど店が閉じている。私たちは父親がよく来たという小さな食堂へ入り、同じ煮魚の定食を頼んだ。窓の外では運搬用の台車が段差を越えるたび、空の発泡スチロールを跳ね上げる。
千紗は魚の骨を丁寧に外す。私の皿では箸先が滑り、身が崩れた。
「食べ方、覚えてないな」
「昔からそうだったよ」
「一緒に魚を食べたっけ」
「栞のお母さんに、昼ご飯を何度も食べさせてもらった。栞が塾の日にも」
また、私の知らない母の時間。箸を止めると、千紗は自分の皿に目を落とした。
「ごめん。知ってるつもりで話す」
「謝らないで。私がいなかっただけ」
「それも、謝らなくていい」
「どうして」
「事情は、栞のものだから」
湯気が目の前を横切る。言い返す言葉を探すあいだに、食堂の店員が水を足しに来た。透明なコップの外側へ冷たい雫が流れる。千紗は私のコップを少し奥へ寄せ、袖が濡れない場所を作った。
こんな小さな動きまで、母と過ごした年月で覚えたのだろうか。そう考えるのはずるい。母が教えなくても、千紗は昔から人の肘や髪先の行き先に気づく人だった。
午後は別々に働いた。私は家の帳面をめくり、千紗は客の写真を仕上げる。通りの向こうで、写真館の鈴が何度か鳴った。ほかの人の顔を撮る彼女を、知らないままでいた十一年の長さが、ようやくひとつの通りの幅になる。
日暮れに、預かり物の最後の一人へ電話がつながった。遠くへ引っ越したので宅配便で送ってほしいと言う。母が直した黒い礼服の縫い目を見せてほしいと、写真を頼まれた。私は肩の内側を撮る。光が足りず、布の黒が一塊になる。何度目かでようやく、針目が見えた。
写真を送信すると、返事が来た。「これで大丈夫です。ありがとうございました」。
送り主を母の名前にすることはできない。なのに、礼を受け取る場所には私しかいない。携帯を伏せ、店の椅子に深く腰を下ろす。向かいの家の窓に夕空が映って、実際の空よりずっと小さい。




