第十八話 山の恵み―きのこ汁と、猪の鍋、栃の実餅 改訂版
日光の朝は、ひんやりとしていた。
宿の戸を開けると、山から流れてくる涼しい空気が頬に触れた。
昨日までの賑やかな東照宮とは違い、朝の町は静かだった。
イザベラ・バードは、旅の手帳を開いていた。
「昨日見た門のことを、もう一度書いておきたいのです」
「陽明門でございますか?」
「ええ。あれほど細かな彫刻を、どうやって一つ一つ作ったのでしょう。人間の手仕事とは思えないほどでした」
「大勢の職人が、長い時間をかけて作ったのでしょうね」
「日本の職人は、たいへん辛抱強いのですね」
バードは手帳を閉じた。
「さて、今日はどちらへ向かうのですか?」
「藤原の方へ向かいます。山道を進むことになります」
「また山ですか」
「はい。日光の町を離れると、山の暮らしが見えてまいります」
二人は荷物を整え、宿を出た。
杉並木を抜けると、道は少しずつ山深くなっていった。
木々の間から、鳥の声が聞こえる。
道端には、名前の知らない草が生えていた。
ところどころに小さな流れがあり、山の水が石の間を走っている。
バードは足を止めた。
「この辺りの人々は、こうした山の中で暮らしているのですね」
「そうです。田畑だけでなく、山からも食べ物を得ております」
「山から食べ物を?」
「山菜や茸、それに木の実などです」
「茸も食べるのですか?」
「はい。ただし、茸は気をつけなければなりません。食べられるものと、毒のあるものがあります」
「見分ける知識が必要なのですね」
「山で暮らす人には、昔から伝わる知恵がございます」
道を進んでいると、山仕事をしている人たちに出会った。
鶴吉が挨拶をすると、男たちは気さくに返事をした。
この辺りでは、山菜や茸を採り、薪を集め、山の恵みを生活に取り入れているという。
バードは、男たちが持っていた籠をのぞき込んだ。
中には、山から採ってきた草が入っていた。
「これは何という植物ですか?」
鶴吉が尋ねると、男は蕗だと教えてくれた。
「煮て食べるのですか?」
「ええ。山のものは、煮たり、焼いたり、漬けたりして食べます」
バードは、熱心に聞いていた。
「日本の人々は、山の植物をよく知っているのですね」
「山に食べ物をいただいているのですから、自然と覚えるのでしょう」
昼を過ぎると、二人は山道の途中にある宿に立ち寄った。
大きな宿ではない。
土間があり、囲炉裏があり、奥には食事をする場所があった。
宿の女主人が、二人を迎えてくれた。
「お疲れでしょう。何か温かいものをお出ししましょう」
しばらくすると、湯気の立つ椀が運ばれてきた。
「これは、何ですか?」
バードが尋ねた。
「茸の汁でございます」
鶴吉が答えた。
椀の中には、茸と山菜が入っていた。
味噌の香りが、ふわりと立ち上る。
バードは椀を両手で持ち、少し口に運んだ。
「温かいですね」
「山道を歩いたあとには、こういう汁物がありがたいのです」
「茸の香りがします。味噌というものは、こうした料理によく合いますね」
「はい。日本では、味噌を汁にも煮物にも使います」
バードは、椀の中をのぞき込んだ。
「この茸は、どこで採れたのですか?」
女主人が、近くの山で採れたものだと説明した。
「山で採ったものを、その日の食事にするのですね」
「そうです。山のものは、季節によって採れるものが違います」
鶴吉が説明すると、バードはうなずいた。
「旅をしていると、土地ごとに食べ物が違うことがよくわかります」
そのあと、女主人がもう一つの鍋を運んできた。
鍋の中では、味噌仕立ての汁が煮えていた。
野菜の間に、赤みを帯びた肉が見える。
「これは何のお肉ですか?」
鶴吉が尋ねた。
「猪でございます。山の肉ですよ」
バードは鍋を見つめた。
「猪?」
「はい。豚に似ていますが、野生の猪です」
「野生の動物を食べるのですね」
「山では、昔から猪や鹿を食べることがございます」
女主人は、猪肉をよく煮込んでから、二人の椀によそった。
味噌の香りに、肉の脂の匂いが混じる。
鶴吉は、バードに食べ方を説明した。
「よく火を通してあります。熱いうちにどうぞ」
バードは、少し慎重に肉を口へ運んだ。
「……豚肉とは違いますね」
「野生のものですから、味も違います」
「少し力強い味がします」
鍋には、野菜も入っていた。
茸、蕗、その他の山のもの。
肉だけではなく、山で採れた食材を一緒に煮込んでいる。
バードは、鍋を眺めながら言った。
「山から採れるものを、こうして一つの鍋にするのですね」
「はい。味噌で煮れば、いろいろなものが一緒に食べられます」
「日本の料理は、素材を組み合わせるのが上手ですね」
鶴吉は笑った。
「山のものも、海のものも、手に入るものを工夫して食べるのです」
食事が一段落したころ、女主人が小さな皿を持ってきた。
その上には、少し茶色がかった丸い餅が並んでいた。
「こちらも召し上がってみてください。栃の実を入れた餅でございます」
「栃の実?」
バードは、餅を手に取った。
「木の実から作るのですか?」
「はい。栃の木になる実を使います」
「栗のようなものでしょうか?」
「形は少し似ておりますが、別の木の実です」
鶴吉が説明した。
バードは餅を口に運んだ。
「これは……普通のお餅とは香りが違いますね」
「栃の実の風味がございます」
「少し苦みがあるようです。でも、独特の香りがあります」
女主人は、栃の実を食べられるようにするまでの話を始めた。
栃の実は、秋になると山の木から落ちてくる。
それを拾い、乾燥させて保存する。
しかし、拾ってきた実をそのまま食べることはできない。
渋みや苦みが強く、長い時間をかけてアクを抜かなければならないのだという。
「水にさらしたり、灰を使ったりするのでございます」
バードは驚いた。
「灰を使うのですか?」
「はい。灰を使って、何度も手をかけます。すぐには食べられません」
「どれほど時間がかかるのですか?」
「実の具合にもよりますが、何日もかかります。手間のかかる仕事ですよ」
鶴吉が英語に訳すと、バードは餅を見つめた。
「一つの餅を作るために、そんなに長い時間をかけるのですね」
「山の実を食べるには、そうしなければなりません」
女主人は、昔から家々で受け継いできた仕事なのだと話した。
「山には米が十分に実らない土地もございます。そういうところでは、木の実も大切な食べ物だったのでございます」
バードは、ふと尋ねた。
「熊も、この実を食べるのですか?」
女主人がうなずいた。
「ええ。山の熊も、栃の実を食べますよ」
「熊も食べるのですね。では、熊はどうやってアクを抜くのでしょう?」
鶴吉は少し笑った。
「熊は、山で拾った実をそのまま食べます。人間のように、何日もかけてアクを抜くことはありません」
バードは目を丸くした。
「まあ。熊の方が、ずっと簡単ですね」
「そうでございますね」
鶴吉は、栃の実餅を見ながら続けた。
「けれど、人間には人間の知恵がございます。水にさらし、灰を使い、手間をかけて食べられるようにするのです」
「自然のものを、そのまま食べるのではなく、人間が食べられるように工夫するのですね」
「はい。山の恵みをいただくための工夫でございます」
バードは、もう一度、栃の実餅を口にした。
先ほどよりも、ゆっくりと味わっている。
「ただ珍しい食べ物というだけではないのですね」
「はい」
鶴吉は答えた。
「山で暮らす人々が、食べ物を得るために工夫してきた知恵でございます」
バードは手帳を取り出した。
「栃の木の実。乾燥させて保存し、灰を使ってアクを抜く。そして、熊もこの実を食べる。忘れないように書いておきましょう」
鶴吉は、その様子を見ていた。
昨日の日光では、大豆から湯波を作るところを見た。
今日は山の茸、猪、そして栃の実。
豆から食べ物を作る知恵もあれば、山の木の実を食べられるようにする知恵もある。
どちらにも、長い年月をかけて受け継がれてきた工夫があった。
バードは手帳を閉じた。
「鶴吉さん、日本には、まだまだ知らない食べ物がありそうですね」
「ございますよ。土地が変われば、食べ物も変わります」
「それなら、これから先も楽しみです」
食事を終えると、二人は再び旅支度を整えた。
山の向こうには、まだ知らない土地が続いている。
バードは手帳を懐にしまった。
鶴吉は荷物を持ち上げ、宿の女主人に礼を述べた。
二人は宿をあとにした。
山道の先には、藤原の土地が待っていた。




