幕間 甘い豆と、イナゴの佃煮 改訂版
幕間 甘い豆と、イナゴの佃煮
日本の旅には、土地ごとの食べ物との出会いがある。
米、魚、豆、山菜、きのこ。
そして、ときには、西洋から来た旅人が思いもよらないものまで食卓に並ぶ。
明治十一年。
イザベラ・バードが日本を旅していた時代、農村の人々にとって、食べ物は自然からいただく大切な恵みだった。
米を育てる田には、米だけがあるわけではない。
そこには、魚も、蛙も、虫もいる。
そのなかの一つが、イナゴだった。
ある日の道中、鶴吉とイザベラは、小さな茶屋に立ち寄った。
「お疲れでしょう。少し休んでいきましょう」
茶屋の女主人が、蒸したての饅頭を盆に載せて運んできた。
白い皮の中には、甘く煮た小豆の餡が入っている。
「これは何でしょう?」
「饅頭でございます。小豆を甘く煮た餡を、小麦粉の皮で包んで蒸した菓子です」
イザベラは、手に取って少し眺めた。
湯気が立ち上っている。
一口食べると、柔らかな皮の中から、甘い餡が口に広がった。
「おいしいですね。温かくて、優しい甘さです」
「お気に召しましたか」
鶴吉が笑った。
「日本では、豆を甘く煮て、お菓子にすることがございます。これは小豆という豆です」
「豆を、甘くするのですか?」
「はい。豆は煮て食事のおかずにもしますが、砂糖を加えて甘くすれば、菓子にもなります」
イザベラは、饅頭の中身をもう一度眺めた。
豆といえば、食事のためのもの。
けれど、この国では、豆が甘い菓子の中に入っている。
豆を甘く煮るという、日本の菓子文化の一端だった。
すると、女主人がもう一つ、小さな皿を運んできた。
皿の上には、飴色に光る小さなものが、いくつも並んでいる。
「こちらも、どうぞ」
イザベラは、皿をのぞき込んだ。
「これは……何でしょう?」
「イナゴの佃煮でございます」
「イナゴ?」
「田んぼにいる虫です。捕まえて、食べるのでございます」
イザベラは、思わず鶴吉の顔を見た。
「虫を……食べるのですか?」
「はい。日本では、地域によって食べる習慣がございます」
鶴吉は、皿の上のイナゴを見ながら説明した。
「田んぼで採れるものです。米だけでなく、こうしたものも食べ物になります。昔から、貴重なたんぱく源として大切にしてきた土地もあるのです」
「たんぱく源……」
「肉をいつでも食べられるわけではございません。ですから、手に入るものを工夫して食べるのでございます」
女主人が、少し得意そうに口を開いた。
「捕まえたイナゴは、すぐには煮ないんですよ。籠に入れて一日ほど置き、腹の中をきれいにしてから、よく洗って煮るんです」
「一日も?」
「ええ。それから醤油と砂糖で、じっくり煮ます。こうしておけば、ご飯のおかずにもなります」
イザベラは、もう一度、皿を見た。
飴色の艶は、まるで菓子のようにも見える。
しかし、その正体は虫だった。
「見た目だけでは、何でできているのか分かりませんね」
「そうでしょうね」
鶴吉は笑った。
「イギリスでは、こうしたものは食べないのでございますか?」
「少なくとも、私の知る日常の食卓には並びません」
イザベラは、しばらく考えていた。
やがて、箸で一つつまんでみる。
醤油と砂糖の香りがする。
恐る恐る口に運んだ。
噛むと、甘辛い味が広がった。
「……これは、醤油の味がしますね」
「ええ。甘辛く煮てあります」
「思っていたよりも、ずっと濃い味です」
「ご飯にもよく合います」
イザベラは、もう一度、皿を見た。
饅頭の餡も、イナゴの佃煮も、どちらにも甘さが使われている。
一方は小豆を砂糖で甘く煮た菓子。
もう一方は、醤油と砂糖で味をつけた保存食。
同じ甘さでも、使い方はまるで違う。
食べるものと食べないもの。
甘いものと塩辛いもの。
その境目は、国によっても、土地によっても違う。
イギリスの食卓では見かけないものが、日本の農村では貴重な食べ物として受け継がれている。
それは、奇妙な習慣というだけではなかった。
田んぼで採れるものを無駄にせず、手間をかけて食べられるものにする。
そして、豆のような身近な食材から、甘い菓子を作り出す。
そこには、人々の暮らしの知恵と、味を楽しむ工夫があった。
饅頭の甘さと、イナゴの佃煮の甘辛さ。
同じ小さな茶屋の卓に並んだ二つの食べ物は、イザベラに、日本の食文化の広さを教えてくれた。
「日本の人々は、食べ物を大切になさるのですね」
「食べられるものを、むやみに捨てるのは、もったいないことでございます」
鶴吉は、そう答えた。
旅は、名所を見るだけではない。
人々が何を食べ、何を大切にし、どのように暮らしているのか。
その土地の食卓に座って初めて見えてくるものもある。
イザベラは、手元の饅頭をもう一口食べた。
そして、皿のイナゴにも、もう一度箸を伸ばした。
豆は料理、それともお菓子?
イギリスの朝食には、煮豆が登場する。
ベイクドビーンズと呼ばれる、豆をトマトソースで煮込んだ料理だ。トーストや卵、ソーセージなどと一緒に食べられている。
イギリスの人々にとって、豆は食事を構成する料理の一つである。
ところが、日本では少し事情が違う。
小豆を砂糖で甘く煮て、餡にする。
その餡を饅頭に詰めたり、餅に添えたりする。黒豆も甘く煮る。豆は、おかずになるだけでなく、甘い菓子にも姿を変えるのだ。
同じ豆でも、国が違えば食べ方も違う。
イザベラ・バードが日本の饅頭を口にしたなら、その中に入っている甘い豆に、どんな感想を持っただろう。
そして、饅頭のあとにイナゴの佃煮まで出てきたら。
日本の食卓は、きっと驚きの連続だったに違いない。
旅とは、遠い土地の名所を訪ねるだけではない。
毎日の食卓にある、小さな違いを知ることもまた、異文化を理解する旅なのである。




