幕間 失われゆく日本 ― 文化を守った人々
幕間 失われゆく日本 ― 文化を守った人々
明治という時代は、日本が近代国家へと生まれ変わろうとした時代だった。
鉄道が敷かれ、電信が通じ、洋服を着る人が増え、学校制度や法律が整えられていく。
江戸時代とは違う、新しい日本が始まろうとしていた。
しかし、その変化の陰で、長い年月をかけて育まれてきた日本の文化や風景が、失われていったことも忘れてはならない。
新しいものを取り入れることは、古いものをすべて捨てることなのだろうか。
明治の人々は、その問いに向き合うことになった。
◾️壊されていく寺と仏像
明治初期、神仏分離政策をきっかけに、各地で廃仏毀釈が起きた。
神社と寺院を分ける政策は、本来、仏教そのものを廃止する命令ではなかった。
しかし、各地では仏像や仏具が破壊され、寺院が取り壊され、長く続いてきた神仏習合の信仰や景観が大きく変わった。
寺の鐘が失われ、仏像が売られ、古い建物が姿を消した。
また、明治六年(一八七三年)の廃城令によって、各地の城は存廃を判断され、軍事施設などに利用されるものと、廃止されるものに分けられた。
その後、取り壊しや払い下げ、転用などによって、多くの城郭が失われていった。
それは、単に古い建物がなくなるということではなかった。
そこには、人々の記憶があり、土地の歴史があり、先祖から受け継いできた暮らしがあった。
◾️日本美術を守ろうとした外国人
そんな時代に、日本の美術や文化の価値を見いだした外国人がいた。
アメリカ人の美術研究家、アーネスト・フェノロサである。
フェノロサが初めて日本を訪れたのは、明治十一年(一八七八年)。
ちょうど、イザベラ・バードが日本を旅していた年だった。
彼は東京大学で教えるかたわら、日本の古美術を研究した。
当時、日本では西洋文化が新しいものとして評価される一方、伝統的な美術が古く、時代遅れのものとして扱われることもあった。
フェノロサは、そうした日本美術の中に、世界に誇るべき価値を見いだしたのである。
そして、彼とともに日本美術の研究と保存に取り組んだ日本人がいた。
岡倉天心である。
天心はフェノロサとともに古美術の調査や保存に取り組んだ。
明治十七年(一八八四年)、二人は法隆寺夢殿の秘仏、救世観音像を拝観した。
長く秘仏として守られてきた仏像を前に、天心は深い感動を覚えたという。
天心は古美術の保存を訴え、明治二十二年(一八八九年)に開校した東京美術学校の創設にも尽力した。
彼が目指したのは、単に昔の作品を残すことではなかった。
日本の伝統を受け継ぎながら、新しい時代の日本美術を創造することだった。
◾️ 岡倉天心 守る者への批判
しかし、天心の道は決して平坦ではなかった。
日本美術を守り、海外にも紹介しようとした天心の活動は、誰からも歓迎されたわけではない。
海外の美術館で日本美術を収集し、展示し、世界に紹介する。
それは日本文化の価値を広める仕事である。
しかし、見方を変えれば、日本の美術品が海外へ渡っていくことにもつながる。
日本の宝を外国へ渡しているのではないか。
そのような疑念や批判が生まれる余地もあった。
天心を「売国奴」と呼ぶような非難も伝えられている。
ただし、天心が実際にどの場面で、誰からその言葉を浴びせられたのかについては、慎重に扱う必要がある。
一方、明治三十一年(一八九八年)の東京美術学校騒動では、天心を中傷する「築地警醒会」名義の怪文書が配布されたことが確認されている。
天心は同年、東京美術学校の校長を辞職した。
その後、横山大観らと日本美術院を創設し、新しい日本画の創造に取り組んでいく。
彼を支持する人々もいれば、批判する人々もいた。
日本の美術を守ろうとする活動でさえ、政治や組織の対立、そして人々の思惑から自由ではなかったのである。
天心は、その矛盾と批判の中に立たされた。
◾️海外へ伝えること、国内に残すこと
天心は後年、ボストン美術館の仕事にも携わり、日本や東洋の美術を欧米に紹介した。
英文で『東洋の理想』や『茶の本』を著し、日本文化の精神を海外へ伝えようとした。
ここには、ひとつの難しい問題がある。
文化を守るために、海外へ紹介する。
世界に知ってもらうことで、その価値を認めてもらう。
しかし、海外へ紹介することと、実物を国外へ移すことは同じではない。
美術品を誰が所有し、どこに保管し、どのように後世へ伝えるのか。
その問題は、今もなお考え続けなければならない課題である。
天心の活動を、ただの英雄物語として語ることはできない。
彼の仕事には、日本美術を世界に広めた功績がある一方で、海外収集や美術品の移動をめぐる議論もある。
それでも、明治の急激な西洋化の中で、日本美術の価値を見失わなかった人々がいたことは確かだった。
◾️ 鎮守の杜を守ろうとした、南方熊楠
もう一人、忘れてはならない人物がいる。
博物学者、南方熊楠である。
熊楠が活躍したのは、バードの旅よりも後の時代だった。
明治三十九年(一九〇六年)ごろから、政府は神社合祀を全国的に進めた。
各集落にあった複数の神社を整理し、一町村一神社を標準とするような動きである。
神社の統廃合が進むと、廃社となった神社の境内や鎮守の森が伐採されることもあった。
熊楠は、この動きに強く反対した。
彼にとって鎮守の杜は、単に神社の周囲にある木々ではなかった。
そこには、長い年月をかけて育まれた植物や生き物の世界があり、地域の人々の信仰があり、祭りや暮らしの記憶があった。
森を失うことは、そこに生きる多くの生物と、人々が受け継いできた文化を失うことでもあった。
熊楠は新聞に反対意見を発表し、政府や地方行政の進め方を批判した。
その活動は、やがて世論にも影響を与えていく。
彼は自然と文化を切り離さずに考えたのである。
## 近代化の中で、何を残すのか
フェノロサ、岡倉天心、南方熊楠。
三人の活動は、時期も方法も異なっている。
フェノロサと天心は、日本美術の価値を見いだし、古美術の保存や新しい美術の創造に取り組んだ。
熊楠は、神社と鎮守の森を守るために立ち上がった。
彼らに共通していたのは、時代の変化の中で見落とされてしまうものの価値を見つめ、それを後世に残そうとしたことだった。
明治という時代は、新しい日本をつくる時代だった。
しかし、新しいものを取り入れることと、古いものをすべて捨てることは同じではない。
日本には、長い年月をかけて育まれた文化がある。
寺社も、仏像も、城も、絵画も、森も、そして人々の言葉や習俗も。
それらは、誰か一人の所有物ではない。
次の世代へ伝えていくべき、人々の記憶でもある。
一八七八年。
伊藤鶴吉とイザベラ・バードが歩いていた日本は、まさにその変化の途中にあった。
彼らが目にしたもの。
そして、彼らが目にすることのなかったもの。
旅の記録には、見たものだけでなく、見られなかったものの歴史も隠れているのかもしれない。
近代化とは、何かを新しくすることだけではない。何を残し、何を次の世代へ伝えるのかを問われることでもある。
もしも、彼らがいなかったら?
フェノロサや岡倉天心のような人たちが、古美術の価値を見いだし、保存するために動かなかったら、失われていた作品はもっと多かったかもしれない。
実際、明治初期には仏像や仏具が破壊されたり、寺院が取り壊されたりした。美術品も、価値を理解されないまま売却されたり、海外へ流出したりした。
考えてみてほしい。
何百年も、あるいは千年以上も、人々が守ってきた仏像が、時代が変わったという理由で壊される。
その仏像を見て「これは美しい。残さなければならない」と言う人が現れる。
それがフェノロサであり、天心だった。
そして、天心が育てた日本美術院からは、横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山といった画家たちが生まれていく。
文化は、失ってからでは取り戻せない。
鶴吉とバードの旅にも、この考え方はある。
バードが日本の風景や生活を記録したことも、後世にとって貴重な文化の記録になっている。
そして、鶴吉が彼女の言葉を通訳し、記録を支えたことは、素晴らしい、歴史の記憶だ。




