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『十八歳の通訳、明治を歩く―伊藤鶴吉とイザベラ・バードの旅日記』  作者: C・T・ITOU


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第十六話 栃木の宿 ― 蚤と異国の旅人



 栃木へ向かう道は、日が傾くにつれて静かになっていった。


利根川を渡り、さらにいくつもの道と水路を越えてきた一行は、ようやく宿場町へとたどり着いた。


馬車の車輪が止まる。


鶴吉は御者に声をかけ、荷物を確認した。


「バードさん、今夜はここで休みましょう」


「栃木ですね」


「はい。今日はずいぶん歩きましたから」


イザベラは、宿場の通りを見回した。


旅人を迎える店、商いをする人々、荷を運ぶ人足。日が暮れても、町にはまだ人の動きがあった。


宿の女主人が二人を迎えた。


「お泊まりでございますか」


鶴吉が日本語で答え、部屋へ案内してもらう。


イザベラは、もう畳にも布団にも驚かなかった。


何日も日本の宿に泊まってきたからである。


しかし、旅の疲れは日ごとに積み重なっていた。


「お部屋をありがとうございます」


イザベラが礼を述べると、女主人は笑顔でうなずいた。


鶴吉が通訳する。


「こちらの方は、旅の途中で日本の暮らしを記録していらっしゃいます」


「まあ、それはご苦労なことでございますね」


女主人は、布団を整えながら答えた。


夕食を済ませ、夜が深くなったころだった。


「鶴吉さん」


隣の部屋から、イザベラの声がした。


「はい。どうされました?」


「少し困ったことがあります」


鶴吉が部屋の入口に近づくと、イザベラは衣服の袖を確かめていた。


「蚤でしょうか」


「どうやら、そのようです」


イザベラは小さく息をついた。


「日本の宿に泊まるようになってから、こうしたことにも慣れたつもりでしたが、何度経験しても困りますね」


鶴吉は申し訳なさそうに頭を下げた。


「宿の方に相談してみましょう」


「お願いします」


鶴吉は女主人を呼んだ。


「お客様が、蚤に困っておいでです」


女主人は少し申し訳なさそうな顔をした。


「それは申し訳ございません。布団をもう一度確かめましょう」


女主人は布団を持ち上げ、敷物の周囲を確認した。


「毎日掃除はしておりますが、旅人が多い宿でございます。虫を完全になくすのは、なかなか難しゅうございます」


鶴吉は、その言葉をイザベラに伝えた。


イザベラは、静かにうなずいた。


「女主人に、責めるつもりはないと伝えてください。ただ、衣服の手入れが大変なのです」


鶴吉が通訳すると、女主人はほっとしたように頭を下げた。


「鶴吉さん、ひとつ聞いてもよろしいですか」


「何でしょう?」


「日本の方は、衣服に虫がついたとき、どうしているのでしょう」


「着物なら、脱いで外で払ったり、布を広げて風に当てたりします。汚れれば洗います」


「なるほど」


イザベラは、自分の服を見下ろした。


「洋服は、そう簡単にはいきません」


「そうなのですか?」


「ええ。縫い目もありますし、裏地もあります。重ね着をしていますから、虫が入り込むと、どこにいるのか分からなくなることもあります」


鶴吉は、なるほどとうなずいた。


「着物とは、手入れの仕方が違うのですね」


「そうです。旅の間、何着も持ち歩けるわけではありません。洗濯にも時間がかかります」


「それは大変ですね」


「美しい景色を眺めている間は忘れているのですが、夜になると、旅の現実を思い出します」


イザベラは苦笑した。


鶴吉もつられて笑った。


女主人は、布団を改めて整え、部屋を掃き清めた。


「これで少しでもお休みになれればよいのですが」


鶴吉が通訳すると、イザベラは礼を述べた。


「ありがとうございます。お手数をおかけしました」


女主人は、何度も頭を下げて部屋を出ていった。


イザベラは、ノートを開いた。


「バードさん、まだお書きになるのですか?」


「ええ。こういうことも記録しておきたいのです」


「蚤のことまで?」


「もちろんです。旅先の暮らしは、美しい景色だけではありませんから」


彼女は、宿の様子、寝具、衣服の手入れ、そして虫に悩まされたことを書き留めた。


鶴吉は、少し感心したように見ていた。


「バードさんは、何でも記録なさるのですね」


「見たものを残すのが、私の仕事ですから」


「不便なことも?」


「不便なことこそ、そこに暮らす人々の生活を知る手がかりになることがあります」


鶴吉は、その言葉を聞いて、しばらく考えた。


夜も更けてきた。


宿の外では、風が戸を揺らしている。


鶴吉は自分の部屋へ戻る前に、もう一度イザベラに声をかけた。


「今夜は、ゆっくりお休みください」


「ありがとう、鶴吉さん。あなたもお疲れでしょう」


「明日も道が続きますからね」


「そうですね。日本の旅は、まだまだ続きます」


イザベラはノートを閉じた。


旅とは、遠くの土地を見ることだけではない。


その土地の人々が何を食べ、どのように眠り、何に困り、どのように暮らしているのか。


そうした日々の営みを知ることも、旅の大切な一部だった。


そして、明日の朝になれば、また新しい道が二人を待っている。

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