第十五話 坂東太郎の鰻 ― 二つの国の食卓
イザベラ・バードの旅支度 ― 食料とブランデー
明治十一年(一八七八年)六月。
イザベラ・バードは、東京を出発し、日本の奥地へ向かう長い旅に出た。
その旅は、決して快適なものではなかった。
外国人向けの宿泊施設は限られ、パンやバター、牛乳、肉、コーヒー、ワインなどを、いつでも手に入れられるわけではない。
彼女は、旅先での食事についても自分で備える必要があった。
『日本奥地紀行』には、彼女が持参した食料が記されている。
- リービッヒの肉エキス(少量)
- 干しぶどう(四ポンド)
- チョコレート(食べるため、飲み物にするため)
- ブランデー(必要なときのため)
大量の食料を運ぶのではなく、必要最低限のものを選んでいた。
なかでも、ブランデーを持参していたことは興味深い。
旅先で体調を崩したときなどに備えたものだった。
一方、彼女は日本の酒についても観察している。
日本酒は温めて飲まれることがあり、人々が酒を楽しむ様子を旅行記に書き残している。
西洋の酒と日本の酒。
食べ物も、飲み物も、土地によって違う。
そして、その違いを知ることも、彼女にとって旅の一部だった。
今回、鶴吉が案内するのは、日本の川が育てた天然の鰻。
イザベラが旅に持参したブランデーと、江戸前の鰻の蒲焼き。
二つの国の食文化が、一つの食卓で出会う。
※持参品は『Unbeaten Tracks in Japan』の記述に基づいています。鰻とブランデーを一緒に味わう場面は、この物語の創作です。
利根川を渡ったあとの道には、川風がまだ残っていた。
馬車の車輪が土を踏み、遠くで鳥の声が聞こえる。
イザベラ・バードは、先ほど渡った大河の方を振り返っていた。
「鶴吉さん」
「はい、バードさん」
「日本の川は、たいへん大きいのですね。あの川には、魚がたくさんいるのでしょう?」
「ええ。鯉もいますし、鮒もいます。泥の中には泥鰌もいます。川や水路には、海から上ってくる魚もいますよ」
「海から?」
「鰻です」
鶴吉は、少し得意そうに答えた。
「鰻は川で育ちますが、海とも関係のある魚です。昔から、日本人は鰻を食べてきました」
「鰻ですか」
イザベラは、少し考えるような顔をした。
「イギリスでも食べますよ」
「えっ、そうなのですか?」
今度は鶴吉が驚いた。
「ロンドンでは、鰻を煮て食べる料理があります。煮汁を冷やすと、ゼリーのように固まるのです」
「ゼリー……?」
鶴吉は思わず聞き返した。
「鰻を、ゼリーにするのですか?」
「ええ。ウナギのゼリー寄せです」
「それは……温かいのですか?」
「いいえ。冷たい料理です」
鶴吉は、しばらく黙った。
そして、少し困ったように笑った。
「日本では、鰻は熱いうちに食べます」
「そうなのですか?」
「ええ。しかも、ただ焼くだけではありません。江戸では、手間をかけて料理するんですよ」
「ぜひ、食べてみたいですね」
その言葉を聞いた鶴吉は、道の先に目を向けた。
「それなら、ちょうどよいところがあります。お昼にしましょう」
店先に近づくと、香ばしい匂いが漂ってきた。
炭火の上で、何かが焼かれている。
甘く、濃く、そして少し焦げたような匂い。
イザベラは足を止めた。
「これは、何の匂いですか?」
「鰻です」
店の奥では、職人が鰻を扱っていた。
鶴吉は、イザベラに見えるように説明した。
「このあたりの川で獲れた天然の鰻です。養殖ではありません」
「天然の鰻……」
「川で獲れるものです。大きさも、脂の具合も、一匹ずつ違います」
職人は、手際よく鰻を開いていた。
「江戸前の鰻は、背から開くんです」
「なぜ、背からなのですか?」
「武士の町だから、腹を切るのを嫌ったという話もあります。ただ、そういう説明には諸説あります。料理の作法は、土地によって違うんですよ」
鶴吉は、職人の手元を見ながら続けた。
「まず白焼きにします。そのあと蒸すんです」
「焼いてから、蒸す?」
「はい。それから、たれをつけて、もう一度炭火で焼きます」
イザベラは、職人の動きをじっと見つめていた。
白く焼かれた鰻が蒸籠に入れられる。
しばらくして、蒸し上がった鰻が取り出された。
その身は、先ほどよりもふっくらとしている。
職人は、それにたれをつけ、炭火の上へ戻した。
じゅうっ。
たれが焼ける音がした。
甘い香りが、店の中に広がる。
「まあ……」
イザベラは、思わず声を漏らした。
「先ほどから、ずっと見ていますが、ずいぶん手間がかかるのですね」
「おいしく食べるためです」
鶴吉は笑った。
「日本人は、食べることにも工夫をするんですよ」
やがて、鰻が運ばれてきた。
熱いご飯の上に、照りのある鰻がのっている。
たれがご飯にも染み込み、湯気と一緒に香りが立ち上っていた。
イザベラは、しばらく器を眺めていた。
「これが、日本の鰻料理なのですね」
「どうぞ、召し上がってください」
イザベラは箸を手に取り、鰻を少し切り分けた。
そして、口に運ぶ。
しばらく、何も言わなかった。
鶴吉は、少し心配そうに尋ねた。
「いかがですか?」
「……柔らかい」
「蒸してありますからね」
「それに、香ばしい。たれの味も、たいへんよいです」
イザベラは、もう一口食べた。
「同じ鰻なのに、イギリスの料理とはまるで違います」
「イギリスでは、冷たくして食べるのでしたね」
「ええ。煮て、冷やして、ゼリー状になった煮汁と一緒に食べます」
鶴吉は、まだ不思議そうだった。
「冷たい鰻ですか……」
「日本の方には、少し驚かれるかもしれませんね」
「正直に申し上げると、想像がつきません」
二人は顔を見合わせて笑った。
「でも、バードさん」
「はい?」
「同じ鰻でも、国によって、こんなに料理が違うんですね」
「そうですね。食べ物は、その土地の暮らしを教えてくれます」
イザベラは、ノートを取り出した。
「川があり、魚が獲れ、それをどう保存し、どう料理するか。そこには、人々の知恵があるのですね」
「ええ。川があるから、魚が獲れる。田んぼにも水を引けます。川は怖いものですが、暮らしを支えてもくれます」
「坂東太郎ですね」
「そうです」
鶴吉は、うなずいた。
食事が終わるころ、イザベラは鞄から小さな瓶を取り出した。
「鶴吉さん、実は、私も旅に持ってきたものがあります」
「何ですか?」
「ブランデーです」
鶴吉は、瓶を見て目を丸くした。
「ブランデーを持ち歩いているのですか?」
「旅先では、食事や体調のことも考えて、いくつか用意しているのです」
「なるほど。西洋のお酒ですね」
「少しだけ、いかがですか?」
鶴吉は瓶を見つめた。
「鰻とブランデー……ですか」
「合わないでしょうか?」
「いいえ。試してみましょう」
イザベラは小さな杯にブランデーを注いだ。
琥珀色の液体が、光を受けて揺れた。
鶴吉は、香りを確かめるように杯を持ち上げた。
「これは、ずいぶん香りが強いですね」
「樽で熟成させたものです」
鶴吉は一口だけ口に含んだ。
「なるほど。甘い香りがします」
「鰻のたれにも、似たところがあるでしょうか?」
「そうですね。たれの甘みと、炭火の香り。それに、このお酒の香り。面白い組み合わせです」
イザベラは、微笑んだ。
「日本の料理に、西洋のお酒。これも旅の楽しみですね」
「そうですね。食べ物も、お酒も、国境を越えて出会うことがあります」
店を出ると、午後の日差しが道を照らしていた。
遠くには、坂東太郎の流れがある。
イザベラは、歩きながらノートを開いた。
「鶴吉さん」
「はい」
「今日のことを書いておきたいのです」
「鰻のことですか?」
「ええ。日本の川、天然の魚、料理人の技。そして、あなたの説明です」
「私の説明ですか?」
「あなたは、食べ物のことを話すとき、とても楽しそうですね」
鶴吉は、少し照れたように笑った。
「日本のことを知ってもらえるのは、うれしいですから」
「それなら、もっと教えてください。食べ物だけでなく、暮らしのことも」
「もちろんです」
イザベラは、ノートに目を落とした。
川の流れは、国によって違う。
魚の食べ方も、酒の楽しみ方も違う。
けれど、人はそれぞれの土地で、自然の恵みを受け取り、工夫しながら暮らしている。
旅とは、遠くの景色を見ることだけではない。
一つの料理を味わうことも、そこに暮らす人々を知ることなのだ。
鶴吉は、もう一度、川の方を振り返った。
坂東太郎は、今日も変わらず流れていた。




